第7話 かけ違えたボタン

 処刑人として現れた紫野の瞳は、あの日の瞳と本当にそっくりだった。


 熱に浮かされたようでありながら、冷酷さに満ちた眼差し。


 もう、逃げられない。


 私の逃避行はここで終わりだ。


 彼女は凄まじい美貌と地位を手に、千鶴の前に現れた。おそらくは、罰するために。


 あの日から逃げ続けている自分を、紫野は許してはくれないだろう。


 「…私は、どうしたらいい」

 「それを私に聞くの?逆にどうしたらいいと思う?」


 その問い返しに、色んな贖罪の方法が浮かんだものの、どれが彼女の求めているものなのか分からず、結局首を左右に振る。


 「ごめん、分からない」


 彼女は小さく息を吐いた。子ども相手にするみたいだと思った。

 「私、千鶴から貰いたいものが山ほどあるの」

 「…そう」


 やはり、そういうことか。


 金銭か、時間か、それとももっと他の何かか。どっちにしろ、それで赦されるならしょうがないことだ。


 彼女はすぐに、気分を一転させたかのように明るい声を出し、晴れやかに告げた。


 「じゃあ、とりあえずホテル行こっか」

 「え?」


 そういう要求も、全く予想していなかったわけではなかったが、ここまで直接的に言われるとは思っていなくて、千鶴は目を丸くした。


 「ほ、ホテル?」

 「そう。とりあえず、そこで千鶴の処女を貰う」

 「しょっ…」


 ガチャリと、膝の上に置いていた珈琲がこぼれる。


 「うわ、大丈夫?」

 「だい…じょばないでしょ。っていうか、何、その何で、そんな…」

 「処女?」

 「大声で何度も言わないで!」

 「千鶴のほうが声、大きいよ」


 昔からね、と微笑む紫野にいよいよ千鶴は混乱してしまい、素っ頓狂な反応をしてしまう。


 「そ、そもそも、私が、そうなのかなんて、分からないじゃんか」

 「は?そうだよね?」


 半笑いの紫野だったが、目はまるで笑っていない。


 「…そうだけどぉ」


 お前のせいで、次に進めなかったんだよ。


 「良かったぁ」と紫野が破顔した。「もしも、千鶴が浮気してたら、私何するか分かんないよ」

 「えぇ、こわ…。というか浮気って…、そんなの、紫野さんに関係ないでしょ」

 「いや、関係ないわけないよね、恋人なんだから」

 「え?」眉をひそめた千鶴が続ける。「誰が?誰の?」

 「誰が、誰の…?」


 とうとう、紫野の顔から笑顔が消えた。


 紫野は何かを思案するかのように、視線を千鶴の顔から川のほうへと移動させ、しばらくは瞬き一つせずにじっとしていた。


 やがて彼女は、再び満面の笑みとともにこちらを振り向くと、他人行儀な冷たさとどこか狂気じみた美しいアクセントで言った。


 「ははぁ、ようやく分かりました。千鶴さん、私と貴方は何もないってことですね」


 千鶴は怯んだように首を縮めて黙った。


 明らかに怒っている。声と表情は明るいが、絶対にその仮面の裏には般若がいる。


 でも、紫野が言っていることの意味に千鶴がピンと来ないのも、また事実だった。


 そのため千鶴は何も言えずに紫野の顔を盗み見るしかしなかったのだが、それが余程気に入らなかったらしく、彼女は眼光を鋭く光らせ、苛立った様子を隠すこともなく声を大きくした。


 「そのときの気分で抱いただけなんですね、そうですか。はぁ、それは、それは、じゃあ、さよなら」


 そういうと紫野は踵を返し、ヒールの踵でアスファルトを捻り潰すような足取りで立ち去ろうとした。


 その場の気分で抱いただけ?

 恋人?

 私と、紫野が…?


 そこで千鶴は、ようやく紫野がどんな勘違いをしていたのかを理解することができた。


 「あ、ちょっと、待って…」


 慌ててその背中を追いかけ、彼女の手を掴んだ瞬間だった。


 「何だよ!」


 紫野が怒鳴り声を発した。


 昔の口調に戻った紫野に、今度こそ安心する。きっと、ようやく彼女の真意が掴め始めたことも、その理由の一つだ。


 ぐるりと勢いよく反転した紫野の顔には、大粒の涙が浮かんでいた。


 紫電瑠璃の涙はテレビの中で何度か見たものの、紫野の泣き顔は初めてだった。


 「言えばいいだろ、勘違いするなって、お前なんか、好きでも何でもなく、抱けたから抱いただけだって!」


 叩きつけるように言った彼女の声が、夜の帳の中に拡散する。


 誰かに聞かれるかもしれないという不安は、今は千鶴の頭に浮かばなかった。


 紫野は、「くそ」と心底悔しそうに繰り返し呟くと、無理やり千鶴の手を払った。


 「おかしいと思ったんだよ、学校ではよそよそしくなったし、呼び出しても来ないし、人づてに聞いた連絡先だって、卒業したらすぐ変わってるし、同窓会の誘いは全部断ってたし!」


 一度決壊した水の流れは止まらず、紫野は立て続けに言った。


 「遠距離なのかな、とか、ドライなのかな、とか…。色々と考えてて、千鶴本人に聞きたかったけど、連絡、取れないし。せめて…、せめて、千鶴が私のこと忘れないように、有名になろうって、してたのに…」

 「え、っとぉ、何か、ごめん」

 「謝んなよ!馬鹿!」

 「で、でもさ、いくら何でも十年近く勘違いしてるのは…」

 「何だよ」


 言うか言うまいか迷って、仕方なくというふうに告げる。


 「限度を越してるんじゃぁ」

 「私は頭がおかしいんだよ!悪かったな!」


 キッと、千鶴を睨みつけ怒鳴った紫野は、再び体を逆の方向に向けた。


 そっちはお店じゃないのに、どこに行くんだろう。


 「あー、紫野さん」


 彼女は千鶴を無視してずんずん進んでいく。


 紫野が怒鳴っていた以外は静かな場所なので、ここからでも十分聞こえるだろう。


 「私も、十年くらい好きな人、いてさ」


 ぴたり、と紫野の足が止まる。


 「私、学生時代、その人にすごく酷いことしたなって思ってて、嫌われてるに決まってるって思ったんだけど…。何か、今日、その、両想いだったって、知ったんだよね」


 くるりと、紫野の洗練されたボディラインの体がこちらに向き直る。続けて、自動販売機の光に照らされた紫野の美しい顔が闇に浮かんだ。


 千鶴が次の言葉を悩んでいる間につかつかと寄って来た紫野は、そっぽを向いたままでこう尋ねた。


 「…ねぇ、その人って、女優だったりする?」

 「うん、まぁ」

 「ふぅん」と明らかに顔が明るくなった。「で、千鶴はその人とどうなりたいの?」


 あくまでこちらの口から言わせたいのか、紫野はこの回りくどいやり取りを、もう少し続けるつもりらしかった。


 「そ、それは…、恋人、とか?」

 「ふぅん…、でも、ほら、その人、怒ってるんじゃない?期待させておいて、十年も待たせたんでしょ?」


 それはお前も悪いだろ、と思ったが、あの日からずっと、逃げ続けてきたのは自分のほうだ。


 それなら、このすれ違いを埋める最後の一歩は…こちらから踏み出すべきかもしれない。


 「紫野さんなら、どうしたら許してくれると思う?」


 「そうだなぁ…」と彼女は考える素振りを取った。


 ホテルにでも行けば、とかなんとか言うのではと少し警戒したが、紫野が提案したのは存外乙女チックな内容だった。


 「とりあえず、抱きしめて、愛を囁くとかしたらどう?」


 彼女の提案に、思わず苦笑が漏れる。


 しょうがないな、という言葉は心の中だけに留め、一歩、紫野のほうへと近寄った。


 紫野の、優しく、甘い香りがすぐそばで感じられる。


 「待たせてごめんね、紫野さん。大好きだよ」

 「…私もだよ、千鶴ぅ…!」


 涙交じりで何か言いながら、抱きしめ返してくる紫野の温もりに抱かれ、千鶴は思った。


 (あはは…これ…思ったよりも恥ずかしいなぁ)


 ここまでくるのに、ずいぶん時間がかかったけど…。


 まあ、これからゆっくりと勘違いしていたぶんの時間の埋め合わせをしていこう。


 かけちがえたボタンホールを、元通りにするみたいに、さ。

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