第5話
ーーーコツ、コツ、コツ。
足音が鳴る。
がらんと静まり返った校内に、一つの影。
裕也は居残って、放課後の学校の、見回りをしていた。
その足が、トイレに差しかかった時だった。
ドンドンとドアを叩く音と、声が、女子トイレから聞こえた。
「誰か助けてー!」
裕也は自分が男性である事を忘れ、女子トイレに駆け込んだ。
掃除要具入れの、すぐ隣りの部屋が、モップでつっかえていた。
「大丈夫か」
ドアの外から、裕也が声をかけた。
「ドアが開かないの、お願い、助けて」
トイレの中で、女子が言った。
「待ってろ、今助ける」
モップを取り除くと、ドアが開いて、中から人が出て来た。
「あんた……」
と裕也はその人物を、二人称(ににんしょう)で呼んだ。
出て来たのは、羽雪だった。
水でも被った(かぶった)のか、頭と制服がぐっしょり濡れていた。
「大丈夫か?」
羽雪は無言で、答えた。
「取り敢えず(とりあえず)、保健室に行こう、な?」
優しく、裕也は言った。
羽雪は頷いた(うなずいた)。
裕也は羽雪の手を引いて、トイレから連れ出した。
羽雪は俯いた(うつむいた)まま、黙って裕也に引っ張られて行った。
階段を降り、職員室を横切り、視聴覚室、理科準備室、理科室など、様々な特別教室を、通り過ぎて行く。
二人の足音だけが、廊下中に響いていた。
そして、二人の足が止まった。
「さあ、着いたぞ、まずは中へ入ろう」
保健室に着いたのだった。
裕也は引き戸を開け、中へと足を踏み入れた。
真っ暗だった。
「明かり、明かり」
裕也はスイッチを探して、明かりを点けた。
「そこに座って」
裕也は羽雪を、設置されていた長椅子に、座らせた。
当たり前だが、中はがらんとしていて、誰もいなかった。
「えっと、何か拭くもの、拭くものーっと」
裕也は室内の棚や、引き出しを物色した。
「お、あった、あった、そら」
裕也はその中から、タオルを取り出し、羽雪に放り投げた。
「ちょっと待ってろ」
頭を拭いている羽雪に、そう伝えると、裕也は保健室を出て行った。
暫く待つと、裕也が戻って来た。
その両手には、マグカップが握られていた。
羽雪は、そのマグカップに、見覚えがあった。
家庭科室で使われている、マグカップだった。
「お待っとうさん、さあ、どうぞ」
裕也は両手に持っていた、コーヒーのうち、一杯を差し出した。
「どうした?飲まないのか?」
そう聞くと裕也は、差し出してない手の方のコーヒーを、一口飲んだ。
「美味い(うまい)ぞ、ん?」
誘うように、裕也が声をかけた。
「え?私の分もあるんですか?」
羽雪が聞いた。
「当たり前だろ、お前にやったんだから、お前が飲めよ」
「でも、いいんですか?」
羽雪は飲むのに、戸惑った。
「早く飲まねえと、冷めちまうぞ」
裕也が、急かすように、言った。
「あ、はい」
慌てて返事をすると羽雪は、カップを受け取った。
「いただきます」
挨拶をすると、カップに口をつけた。
「あ……」
頬をほんのり紅くして、羽雪の顔つきが変わった。
「どうだ、美味いか?」
裕也が聞いた。
「はい、美味しい(おいしい)です」
嬉しそうに、羽雪は答えた。
「そりゃよかった」
悪戯(いたずら)っぽく笑むと、裕也も、また一口飲んだ。
コーヒーを飲んでいると、着信が鳴った。
「あ、すみません、私のです」
そう言うと羽雪は、ケータイを取り出した。
「はい」
羽雪は電話に出た。
(「羽雪か!?無事なのか!?」)
「お兄ちゃん」
電話の相手は、忍だった。
(「なかなか帰って来ないから、電話したんだ、どうした?何かあったのか?」)
「ごめんなさい、トイレに閉じ込められて」
滅多に出さない、大きな声で忍は言った。
(「閉じ込められたぁ!?」)
「でも、大丈夫だったから、安心して」
(「大丈夫って、お前な……はあ」)
忍は文句を言うのを止め、溜め息をついた。
(「まあいいや、迎えに行くから、いつも使っているバス停、あるだろ?そこで待ってな」)
「いつものバス停ね、分かった」
(「すぐ行くから待ってろ、な?」)
「うん、じゃあバス停でね、はーい」
二人の会話は、そこで終わった。
「ふう」
電話を切ると、羽雪は一息つき、コーヒーの続きを飲んだ。
羽雪がコーヒーを飲み終えるのを、見た裕也は、自分も残りのコーヒーを、一気に飲み干した。
「よし、じゃ、そろそろ出ようか」
裕也は羽雪に、誘いの言葉をかけた。
「はい」
裕也が羽雪に付き添う形で、二人は保健室から玄関へと、歩いて行った。
「本当に送らなくて、大丈夫か?」
裕也が聞いた。
「ええ、バス停の所で、兄と落ち合う事になってるんで」
羽雪は言った。
「それじゃ、ありがとうございました」
礼を言って、頭を下げると、羽雪は歩き出した。
「気をつけてな」
去ろうとする背中に、裕也は声をかけた。
「どうも」
もう一度頭を下げ、羽雪は帰って行った。
その次の日。
チャイムが授業の終わりを告げた。
三時間目が終了すると、羽雪は次の授業ーーー音楽の準備をして、教室から廊下に出た。
すると、ピアノの音が聞こえた。
何処から聞こえるんだろうと、不思議に思い、聞こえる曲を頼りに、道を辿って行った。
階段を上がり、廊下を歩いて行く。
着いたのは、音楽室。
曲が聞こえたのは、此処からだった。
そっと、音楽室のドアを少しだけ開け、中を覗くと、誰かがピアノを弾いていた。
その様子を見て、羽雪は目を見開き(みひらき)、息を呑んだ。
ピアノの弾いていたのはーーー裕也だった。
(木村先生、ピアノ弾けるんだ……)
羽雪は、気づかれないようにと、中へ足を踏み入れるのを、思い留まった(とどまった)。
その調(しらべ)に、羽雪は目を閉じ、暫し(しばし)の間、その場に佇んで(たたずんで)、耳を傾けた。
だが、しかし。
「何してんだ?こんなとこで」
見つかってしまい、羽雪は、ギクリとした。
「ごめんなさい、聴くつもりは無かったんですけど、綺麗な音色だったからつい……」
慌てて、羽雪は答えた。
「ふーん、ま、いいけど」
そう言うと裕也は、グランドピアノへと、引き返した。
「どうした?そんなとこにいないで、中に入れよ」
裕也は羽雪を、中に入れた。
ドアを開け放ち、羽雪は裕也の側に寄った。
ドアを閉めると、裕也が奏でる調に、暫く(しばらく)の間(あいだ)、うっとりと聴き入っていた。
「なあ」
裕也が呼びかけた。
「はい」
羽雪が返事をした。
「校歌、覚えてるか」
突如、裕也が聞いた。
「?一応、覚えてますが」
裕也の問いに、疑問を抱き(いだき)ながらも、羽雪は答えた。
「歌ってみてくれ」
誘うように、裕也は言った。
「歌っても上手く(うまく)ないですよ」
羽雪の言葉に、裕也はこう返した。
「やってみなきゃ分かんないだろ、歌うだけ、歌ってみろよ」
裕也に言われ、羽雪は考えた。
「分かりました、歌ってみます」
決意したように、羽雪は言った。
弾きながら裕也は、声をかけた。
「さん、はい」
羽雪は、校歌を歌った。
歌い終わると、羽雪から、溜め息が漏れた。
「良い(いい)声してんじゃねーか」
羽雪には、予想もしなかった言葉が、裕也の口から出た。
「そうですか?ありがとうございます」
嬉しくなった、羽雪は思わず、口元が緩んだ。
「グリーングリーン、知ってるか?」
裕也が聞いた。
「少しなら」
羽雪は答えた。
「ちょっと、歌ってみてくれ」
言いながら裕也は、ピアノを鳴らした。
「そんな、私、下手(へた)ですから」
羽雪は、断わろうとしたが、裕也に、却下された。
「いいから、さん、はい」
裕也が曲を、弾き始めた。
曲に合わせて、羽雪も歌い出した。
「ある日、パパと二人で語り合ったさー……」
音楽室内に、一つの曲が流れた。
裕也は弾き、羽雪は歌った。
それから、音楽の授業が始まるまでの、残された時間を、羽雪は歌いながら、楽しんだ。
羽雪はいつしか、裕也のピアノに合わせて、歌うのを楽しみに、学校へ通うようになった。
そんな羽雪に、思いも寄らぬ、知らせが訪れたのは、それから一週間後の事だった。
チャイムが四時間目の終了を告げると、生徒達は日直の号令に従って、挨拶をした。
教師が出て行くと、教室中がざわつき出した。
賑やかな教室の中で、羽雪は一人、お弁当を食べていた。
時だった。
教室の戸が、三分の一程開いて、隙間から裕也が顔を出した。
「おーい、舞夜羽雪ー、いるかー?」
裕也がそう、一言放つと、たった今まで、騒がしかった教室は、一気に静まり返った。
「はい」
自分の名前が呼ばれたので、羽雪は返事をした。
「ちょっと来い」
裕也が歩き出すと、羽雪もそれについて行った。
裕也は職員室へと、羽雪を誘った。
「何ですか?」
羽雪は訊ねた。
「これ、出てみないか?」
そう言うと裕也は、一枚の紙を羽雪に、差し出した。
「学生のど自慢コンテスト?」
羽雪は、広告に書かれた文字を、読み上げた。
「ああ」
裕也は返答した。
「三ヶ月後に、星の灯り市(し)で行われるんだ、近場だから、挑戦してみないかと、思ってな」
説明するように、裕也は言った。
「でも……先生だって、ご存知ですよね?私の噂……」
遠慮がちに、羽雪が言った。
「物は試しだ、まず、もう一度、自分を信じられるチャンスだと思って、頑張ってみたらどうだ?」
「自分を信じられるチャンスーーー」
羽雪は目を閉じ、胸に手を当てて考えた。
裕也は、羽雪を見守るように、暫く待った。
裕也の言葉が、頭の中で反芻(はんすう)した。
羽雪は、真っ直ぐ(まっすぐ)に、裕也を見据えた(みすえた)。
「分かりました、私、やってみます」
強い声で、羽雪は言った。
それを聞いた裕也は、口元を緩めた。
「決まりだな、じゃ、放課後、音楽室で待ってるから、来てくれ」
伝え終えると、裕也は去って行った。
そして、放課後。
羽雪は音楽室へと、向かった。
裕也に、呼び出されたからだ。
音楽室に着き、ドアを開けると、呼び出した張本人は、グランドピアノの側に座って、何やら弾き始めた。
「来ましたよ、それで、用事って何ですか?」
羽雪は訊ねた。
「まず、練習の前に、軽くテストをしてみようかと、思ってな」
裕也は答えた。
「課題曲はこれな」
裕也はそう言って、教科書を開き、〝ラヴァーズコンチェルト〟のページを見せた。
「この間と、今日の授業でやったヤツですね?」
羽雪も、教科書を開き、ページを合わせた。
「自信は無いですけど」
「取り敢えず一回、歌ってみるか」
軽く、メロディを奏でながら、裕也が言った。
羽雪は、大きく深呼吸した。
裕也が、それを宥めた。
「そんなに固くならなくても、本番じゃないんだから、いつも通りで、いいんだよ」
「あ、はい」
「せーので、さん、はい」
裕也が曲を弾き出し、羽雪は歌い出した。
一曲歌い終わって、羽雪は緊張しながら、裕也の反応を待った。
「うん、まあ、こんな所だろうな」
「下手でしたか?すいません」
「少しずつでいいから、ゆっくりやって行こう」
裕也が励ました。
「大丈夫だから、自信持って」
裕也の言葉が、羽雪を立ち直らせた。
「はい、頑張ります」
気合いを入れるように、羽雪は応えた(こたえた)。
羽雪はめげずに、今日のレッスンに、取り組んだ。
それからも、羽雪はレッスンに励んだ。
来る日も来る日も、羽雪は音楽室に向かった。
土日も、登校した。
雨の日も、風の日も、羽雪はレッスンを受けた。
何日も何日も、羽雪は通い続けた。
そして、コンサート前日であり、レッスン最後の日。
放課後ーーー音楽室にて。
ピアノで、軽くメロディを奏でながら、裕也は言った。
「はい、じゃ、今日でレッスンは、終わりな」
「ありがとうございました」
裕也に対して、羽雪は頭を下げた。
「それじゃ、明日の午後四時、星の灯りアリーナ前集合な、遅れるなよ」
そう言うと裕也は、羽雪の頭を優しく二回、叩いた。
「はい、それじゃ先生、失礼します」
緊張と期待を、心中(しんちゅう)に抱きながら、羽雪は帰って行った。
※
次の日も、羽雪達の学校は、放課後を迎えた。
「たー君、帰ろう」
車椅子を動かしながら、樹里亜が巧の元に、やって来た。
「ああ、うん」
樹里亜は巧と一緒に、校舎を出た。
そして、バス停までの道のりを、二人で〝歩いて〟いた。
「今日のお弁当も、美味しかったよ」
「ああ」
「二時間目の数学、分かったぁ?樹里亜、全然分かんなかった」
「ああ」
「昨日テレビ、何見た?樹里亜は〝プレバト〟と〝モニタリング〟だよ、たー君は?」
「ああ」
「……五十音の一番最初は?」
「ああ」
巧は、樹里亜の質問を、全て、生返事で返した。
「たー君、聞いてる?」
機嫌を損ねた樹里亜は、声を大きくして、巧に呼びかけた。
「へ?あ、ああ、ごめん、ごめん」
我に返った巧から、今日初めて、樹里亜を相手にした答えが、返って来た。
「もう、ほら、行こうよ」
樹里亜が急かした。
「あ、ああ、うん」
いつものように、お喋りをし、巧に車椅子を押されながら、横断歩道を渡っていた、その時だった。
「危ない!」
声が飛んだ。
「え?」
クラクションの音に気づいて、振り向くと、大きなトラックがもう、すぐ側まで来ていた。
樹里亜はきつく、目を閉じた。
避けられる余裕は、無かった。
巧は樹里亜を庇おうと、上に覆い被さった。
ブレーキ音が、響いた。
巧と一緒に、樹里亜は吹っ飛んだ。
丸太のように転がって、その場に伸びた。
※
「痛つつ……」
呟きながら、樹里亜は体を、起こした。
「樹里亜、大丈夫か?」
頭を押さえながら、辺りを見回していると、そんな声が聞こえた。
巧だった。
「たー君、一体何が……」
巧は答えた。
「俺も分からない」
すると、車のエンジン音が、聞こえた。
見ると、人が一人、横たわっていた。
二人が、その人物を見つけると同時に、車は去って行った。
その人物をよく見ると、見覚えのある顔だった。
二人は、青くなった。
「ま……いや……さん……」
巧が呟いた。
「あ……あ……」
樹里亜の呻き(うめき)が、聞こえた。
そしてーーー悲鳴が上がった。
「いっ……いやあああああ!!」
羽雪の体から血が出て、周りに広がっていた。
「しっかり、しっかりして!」
樹里亜は、羽雪の側に駆け寄り、抱きかかえると、体を揺すった。
「怪我は……無い?」
か細い声で、羽雪は聞いた。
「う、うん」
無我夢中で、樹里亜は答えた。
「よかった……樹里亜ちゃん達が、無事で」
それだけ話すと、羽雪は気を失った。
「羽雪!?ねぇ、羽雪!」
樹里亜は再度、羽雪を揺すった。
だが、今度は何も、答えなかった。
「どうしよう、羽雪が死んじゃう」
樹里亜がパニックになった。
「取り敢えず、今はひとまず、落ち着こう、ね?」
落ち着いて、巧が言った。
「羽雪……羽雪……」
譫言(うわごと)のように、樹里亜が言った。
「落ち着けったら」
巧が樹里亜を引っぱたいた。
「此処で俺達が、しっかりしなくてどうする」
巧が樹里亜の両肩に、手を置いて言った。
「ごめんなさい」
我に返ったらしく一言、樹里亜は謝った。
「俺が救急車を呼ぶから、樹里亜はこの事を学校に伝えて」
冷静に、巧が言った。
「分かったわ」
頷きながら言うと、樹里亜は走り出した。
走って、走って、走った。
道路を過ぎ、町中を抜け、校庭を走った。
教室の中へと、樹里亜は駆け込んだ。
「みんな、大変よ」
息を弾ませ、戸を開けながら、樹里亜が言った。
「羽雪が事故に遭って、大怪我してるの、助けてあげて」
教室中がざわついた。
「黒原さん、その足……」
女子の一人が言った。
「歩けたの?」
また別の、女子の一人が聞いた。
「どういう事だよ?」
男子が、樹里亜に詰め寄った。
「うるさあああああい!!」
樹里亜が怒鳴った。
「今はそんな事、どうでもいいの、私は今、それどころじゃない!」
ざわめきが、樹里亜の大声によって、消えた。
「早く!事の次第は、後で説明するから!お願いだから、誰か羽雪を助けて……」
樹里亜から、感情が溢れ出た。
「うっ……うっ……」
樹里亜は、泣き崩れた。
「それって何処?すぐ案内して」
真剣な顔と声で、冴が言った。
※
その頃、コンテストの会場では、一人の男が、待ちぼうけを喰っていた。
腕組みした腕を、指で叩きながら、裕也は羽雪を待っていた。
だが、一向に(いっこうに)彼女は、姿を現さない。
連絡を入れてみようかと、手を動かそうとした、その時。
着信メロディが鳴った。
「はい」
裕也は電話に出た。
学校からの連絡だった。
「木村先生ですか?緊急事態です」
電話の向こうの相手は、言った。
「舞夜羽雪さんが、交通事故に遭いました」
※
忍が連絡を受けて、病院に到着すると、巧達、羽雪の友人が、もう来ていた。
更に遅れて、裕也が到着した。
「舞夜羽雪さんの、お兄さんですね?」
「はい、それで先生、妹の容態は?」
医師の質問に答えた後で、忍が聞いた。
医師は答えた。
「内臓と頭部の損傷、それから両足を骨折しています」
それを聞いて、樹里亜が青くなった。
「それで、舞夜さんはどうなったんです?」
巧が聞いた。
「まだ、意識が戻りませんーーーご案内します、どうぞ、こちらです」
医師が先を、早足で歩き出した。
巧達もその後に、続いた。
着いたのは、安静室だった。
忍は、医師から許可を貰い、安静室に入って、羽雪を見た。
羽雪は全身に包帯が巻かれていて、鼻から口にかけて、人工呼吸器が、当てられていた。
一方、廊下ではーーー。
「どうしよぉ……」
樹里亜が泣き出した。
「大丈夫、羽雪には、みんながいるんだ、きっと帰って来る」
忍はそう言って、樹里亜を宥めた(なだめた)。
「そうだよ、きっと元気になる」
巧も言った。
「続きはまた、今度にしよう、ね?」
病院には、兄である忍が残り、それ以外はひとまず、我が家へと帰って行った。
「先生、ちょっといいですか」
病院から出た帰り道、樹里亜は裕也を呼び止めた。
二人は、病院の裏に周った。
「じゃあ、今回の事は全部、君が仕組んだ事だったって訳か」
「まさか、こんな事になるなんて」
責められるのを恐れてか、樹里亜の声は怯えていた。
「先生、私、どうしたらいいですか」
喋りながら、樹里亜が泣き出した。
「謝るしかないな」
背中を優しく叩きながら、裕也は言った。
「大丈夫、正直に話して、ちゃんと謝れば分かってくれるよ」
今、抱えている感情を、一気に爆発させるかのように、声を上げて樹里亜は泣いた。
裕也に優しく、背中を叩かれながら。
その頃、巧達は各自室で、メールのやりとりをしていた。
〝課題やった?〟
〝全然、羽雪、大丈夫かな〟
〝だよな、気になって手につかない〟
〝私も〟
〝やろうぜ、それが舞夜さんの元気の為になる〟
この一文が、やりとりの展開を変えた。
〝うん、羽雪に教えてあげなくちゃ〟
〝だな、俺達が頑張ってないと〟
〝そうだね、舞夜さんの為にも頑張らないと〟
〝よし、それじゃ、勉強開始〟
メールのやりとりは、そこで途切れた。
町に灯っていた灯りが消えた。
羽雪達の住んでいる町の空に、黒みがかかった。
(舞夜さん(羽雪)……)
羽雪が知ってる誰もが、羽雪を思う中で、夜は更けて行った。
二日目。
放課後の時間になった。
今日は巧が、一人で病院に来ていた。
昨日行った道を、思い出しながら行くと、無事に安静室へと着いた。
だが、巧よりも先に、来ていた人物がいた。
忍だった。
「こんにちは、お兄さん」
そう巧が、声をかけた。
「あれ、君は確か昨日のーーー」
思い出すように、忍が言った。
「昨日は、ありがとうございました」
忍は巧の手を、両手で握った。
「よく来てくれたね」
忍は安静室の引き戸を、引いた。
「どうぞ、中に入って」
羽雪に、忍は言った。
「羽雪、お友達が来てくれたよ」
忍が薦めるように、横に退くと、後から続いて巧が入って来た。
「こんにちは、顔色良さそうでよかった」
巧は、今日のお弁当の中身について、話をした。
「またみんなで、食べさせ合いっこしよう、ね?」
だが、一向に羽雪からの返事は、無かった。
「それじゃ、ありがとうございました、また来てもいいですか?」
「勿論、待ってるよ」
二、三、そんな会話をして、巧は病院を後にした。
三日目。
この日、三人の人物が病院を、訪れた。
雫と夕雨涼と巧である。
受け付けに、羽雪の病室を訊ねると、安静室へと案内された。
安静室に着くと、先に来ていた人物がいた。
その人物は、長椅子に、ぐったりした様子で、座り込んでいた。
「あの……貴方は?」
夕雨涼が訊ねた。
「忍です、羽雪の兄」
と、その人物は、名乗った。
『初めまして』
二人は忍に、頭を下げた。
「妹のお見舞いに、来てくれたんだね、ありがとうーーーさあ、どうぞ」
そう言って忍はまた、安静室の引き戸を引いた。
「羽雪、お友達が来てくれたよ」
言いながら忍は、三人を中に通した。
「失礼します……」
と、断わってから、三人は中へと入った。
「!!」
二人は、愕然とした。
「これは酷いな……」
夕雨涼が言った。
ショックのあまり、雫は思わず、口元に手を当てると、咄嗟に(とっさに)夕雨涼の胸に顔を埋めた(うずめた)。
「……っ……っ」
夕雨涼の腕の中で、雫は静かに、肩を揺らした。
「早く、目、覚めると、い、わね」
途切れ途切れだが、雫が言葉を紡いだ。
「ああ」
夕雨涼はそう、同調すると、羽雪に向かって、
「頑張ってね、舞夜さん」
と、声をかけた。
巧は今日も、弁当の話をした。
「ありがとうございました」
夕雨涼に背中をさすられ、呼吸を整えながら、雫が言った。
「また来てもいいですか?」
夕雨涼が訊ねた。
忍は答えた。
「勿論」
「よかった、ありがとうございます」
「では、失礼します」
そう言葉を交わすと、二人は病院を出た。
四日目。
放課後になった。
冴は朝雨と一緒に、羽雪の見舞いに行く約束を、取り付けてあった。
それに巧も加わった。
三人は校舎で落ち合い、病院の中へと入って行った。
受け付けで、羽雪の病室を訊ねると、安静室へと案内された。
忍は安静室の戸を引き、三人を招き入れた。
「羽雪、今日もお友達が、来てくれたよ」
二人は、羽雪の状態を、目の当たりにした。
冴は愕然とし、息を呑んだ。
「羽雪!」
羽雪の側に、冴は駆け寄った。
「しっかりして、羽雪、羽雪!」
冴は何度も羽雪に、呼びかけた。
だが、羽雪から返事は無かった。
冴が崩れ落ちた。
「そんな……」
冴が泣き出した。
「私、羽雪ちゃんに、酷い(ひどい)事を言いました」
泣いている冴に代わって、朝雨が冴の言った、言葉の理由を説明した。
「羽雪……ごめんなさい……」
しゃくりあげながら、冴は謝った。
羽雪から、返事は無かった。
「これからも羽雪と、友達でいてね」
忍の優しい声と言葉に、冴は泣き声を上げた。
「ああああああああああ」
冴は、ただただ、泣いた。
朝雨は、ただただ、それを静観した。
しゃくりあげる冴を支えながら、朝雨が連れて帰った。
巧は今日も、弁当の話をした。
五日目。
三人の人物が、羽雪の入院先を、訪れた。
陵雨と栞と巧だった。
受け付けの人に、羽雪の入院してる部屋を聞くと、そこまで案内を、してくれた。
安静室の手前まで、連れて行って貰うと、三人は受け付けの人と、別れた。
安静室の手前で、三人は、足を止めた。
男の人が一人、安静室の入り口の所に立っていたからだ。
「あの、すいません」
陵雨は、安静室の前に立っていた、男の人に声をかけた。
「こんにちは、もしかして、舞夜さんのお兄さんですか?」
緊張しながら陵雨は、忍に声をかけた。
「やあ、どうも」
忍はそう言った後も、挨拶を続けた。
「君達も、羽雪の友達だね?宜しく(よろしく)ね」
忍の挨拶に陵雨は、疑問を抱いた。
「君達もって事は、俺達以外にも誰か来たんですか?」
忍はすんなりと、答えた。
「うん、この前は沢渡さんと一ノ瀬君、その前が戸張(とばり)君と仲間さん、だったかな、あ、そうそう、一番最初に来たのは確か、美作(みまさか)君と黒原さんて、聞いたよ」
「そうですか」
「妹の見舞いに来てくれたんだね、ありがとう」
忍は二人の手を取って、礼を述べた。
「大丈夫なんですか?舞夜さん……いや、羽雪ちゃんは」
忍は、陵雨の質問に、言葉では答えずに、安静室の前へと歩いて行った。
「さあ、どうぞ」
忍は引き戸を開けて、陵雨と栞を中に入れた。
「羽雪、今日もお友達が来てくれたよ」
忍はそう言って、羽雪を三人に見せた。
その痛ましい姿を見て、陵雨は体ごと顔を背けた(そむけた)。
「羽雪……こんなになって、可哀想に」
緊張の糸が、切れたかのように、栞は泣き出した。陵雨に引かれるようにして、栞は病室を出た。
顔を覆って、栞は泣いた。
安静室を出てからも、栞は泣いていた。
「うっ……うっ……」
「今日はもう、帰ろう、ね?」
しゃくりあげる栞を、宥めるかのように、陵雨は優しく声をかけた。
返事の代わりに、栞は頷いた。
肩に手を回し、栞を支えるようにして、陵雨達は病院を出た。
今日も巧は、弁当の話をした。
六日目。
巧達の学校にも、放課後が訪れた。
巧は夕雨涼、朝雨、陵雨の三人を引き連れて、病院へと、やって来た。
そして、院内へと足を踏み入れた。
受け付けの人に案内された、行き方を思い出しながら、四人は病院内を歩いた。
安静室に向かうと、先客がいた。
忍だった。
「お兄さん」
安静室に着くと、そう巧が声をかけた。
「あ、美作君」
巧を見つけるなり、忍は挨拶をした。
「こんにちは」
巧も挨拶を返した。
「いつも来てくれて、ありがとう」
礼を述べると、忍は力強く、巧の手を握った。
巧は〝いいえ〟と、首を横に振った。
ずらりと並ぶ、男子達の中に、忍は見覚えのある顔を見つけた。
陵雨だった。
「あれ?君は確か……」
陵雨を見て、忍が言った。
陵雨は挨拶をすると、頭を下げた。
「こんにちは、また今日も、いいですか?」
「勿論、さあ、どうぞ」
忍が安静室の引き戸を開けると、巧達を中へと通した。
「羽雪、今日もお友達が来てくれたよ」
そう声をかけた。
陵雨も声をかけた。
「こんにちは、元気してた?」
夕雨涼も、声をかけた。
「顔色も体調も良さそうだね、よかった」
今度は巧が話しかけた。
「今日のお弁当は、ハンバーグだったよ、今度は舞夜さんの手作りが、食べたいな」
しかし、羽雪はピクリとも動かなかった。
腕時計を見ながら、朝雨が言った。
「そろそろ、日が暮れそうだから、行くね」
「じゃあね」
「またね」
「また来るからね」
四人は、安静室の外に出た。
「じゃあ、俺達はこれで」
スクールバッグを、持ち直しながら、夕雨涼が忍に言った。
「またいつでもおいで、待ってるよ」
そう言葉を交わした、男子四人は、病院を後にした。
七日目。
巧は教室の引き戸を開けた。
巧が教室の中へと入ると、生徒だらけだった。
いつも通り、生徒達の飛び交う声で、賑わっていた。
羽雪がいないのを、知っているのは、巧達だけ。
羽雪がいなくても、当たり前のように、朝のLHRが始まった。
午前中の、二つの授業が、終了した。
昼休み。
巧達は屋上へと、向かった。
みんなで輪になって座り、弁当を食べ始めた。
輪の中の、空いているスペースを、ふいに見た巧は暫く、そこを見つめた。
羽雪の、美味しそうに、弁当を食べる面影が、浮かんでは、消えて行った。
一連の授業が過ぎ、ざわめきで、埋め尽くされた教室は、徐々にその存在を消して行った。
放課後になった。
「美作君、帰ろ?」
栞達が誘いに来た。
「俺、今日は病院に行くから」
と、断った。
「自分一人で行く気?」
「狡い(ずるい)、私も行く」
「俺も行きたい」
「俺も」
「私も行くわ」
みんなで口々に〝行く〟と述べた。
「待って、今日はみんなで行こ?」
冴が言った。
先陣を切るように、巧が教室から出て行った。
朝雨達も、後から続いた。
歩いている間、誰も一言も喋らなかった。
巧は病院の手前で、足を止めた。
そして、暫しの間、聳え立つ、巨大な建物を見上げると、再び歩き出した。
自動ドアが開くと、中へと足を進めて行った。
安静室に向かうと、部屋の前で人影を見つけた。
組んだ手に顔を伏せ、ぐったりとした様子で、長椅子(ながいす)に座っている、忍の姿があった。
顔を上げた、忍の様子を見ると、青白い色をして、目の下に隈(くま)が出来ていた。
どうやら、眠れてないらしい。
「やあ」
巧達の存在に気がついたらしく、忍は声をかけた。
「お、今日はみんな、勢揃い(せいぞろい)だね」
珍しそうに、忍が言った。
笑顔を見せたが、疲れて見えた。
「みんなでお見舞いに行こうって、話し合って決めたんです」
朝雨が言った。
「ありがとう」
忍が言った。
「それで、舞夜さんの様子は?」
巧が訊ねた。
「まだ眠ったままだよ、さあどうぞ」
忍は安静室の引き戸を開けると、中へと巧達を通した。
「羽雪、今日は、お友達が沢山(たくさん)、来てくれたよ」
忍が言った。
「こんにちは、羽雪ちゃん」
「今日は、みんなで来たよ」
巧が一歩前に出て、羽雪に話しかけた。
「顔色良さそうだね、よかった」
巧は、話し続けた。
「今日のお弁当も、美味しかったよ、今日はね、」
声が震え、嗚咽(おえつ)が出た。
巧の目から、涙が零れ落ち、羽雪の顔に着いた。
「おっといけない」
巧は指先で涙を拭う(ぬぐう)と、ズボンのポケットから、ハンカチを取り出して、羽雪の顔を拭こうとした、その時だった。
羽雪の体に、異変が起きた。
左手の小指が、微かに動いたのだ。
「今、左手、動かなかった?」
その異変に気づいた、巧が言った。
「気のせいじゃない?」
栞が応えた。
「舞夜さん?」
巧が呼びかけると、微かに指先が動いた。
「ほら、やっぱり」
巧が証明するように言った。
「羽雪……?分かるの……?」
栞が話しかけた。
巧は羽雪の手を握り、呼びかけた。
「舞夜さん、聞こえる?」
握っている手が、動くのが分かった。
「羽雪、私達だよ、分かるよね!?」
冴が呼びかけた。
「羽雪、頑張って!」
栞が励ました。
「う……ん」
そう少し唸ったかと思うと、今度は目が開いた。
「舞夜さん、俺だよ、分かる?」
羽雪の顔を覗き込むようにして、巧が言った。
「巧君……」
羽雪が声を出した。
「羽雪、よかった、本当に」
栞が目に、涙を溜めて言った。
「舞夜さんが目を覚ました」
陵雨が声を上げた。
「舞夜さんの意識が戻ったぁ、やったぞう!」
夕雨涼も声を上げた。
室内が騒がしくなった。
「先生、呼んで来ます」
様子を見に来た看護師が、病室を飛び出して行った。
「私……どうして」
羽雪はゆっくり体を起こしながら、そう言った。
陵雨、朝雨、夕雨涼の三人が、口々に訊ねた。
「大丈夫?」
「調子どう?」
「痛い所無い?」
「え?えっと」
一気に質問攻めされて、羽雪は戸惑った。
「ちょっと、あんた達、少しは落ち着きなさいよ、羽雪が困ってるじゃない」
冴の鶴の一声で、質問の雨は大人しくなった。
「覚えてる?車に轢かれたんだよ、羽雪」
羽雪は自分の記憶を振り返り、自分が病院(ここ)にいる事に、納得した。
「無事捕まったそうよ」
一人姿が見えないので、羽雪は聞いた。
「樹里亜ちゃんは?」
「外にいて泣いてるわ、木村先生が宥めてる」
雫が答えた。
「よかったー、意識が戻って」
ホッとした様子で、栞が言った。
何気に冴を見ながら、羽雪が訊ねた。
「みんな、心配して来てくれたの?」
「そうよ、みんな羽雪の為に来たの」
羽雪は首から上を動かし、友人達を見回すと、礼を述べた。
「ありがとう」
開いていた入り口から、担当医師が看護師に連れられて、安静室の中へと入って来た。
医師が、羽雪の容態を、友人達に伝えた。
羽雪は暫く本を読んで、安静に過ごした。
友人達が、替わるがわる見舞いに訪れた。
羽雪は順調に回復して行った。
体調も安定し、動けるまでになった。
羽雪は続けて、入院生活に取り組んだ。
医師や看護師、時には友人達に付き添って貰って、リハビリに励んだ。
事故から四ケ月の月日が流れた。
「消灯時間ですよー」
「はーい」
羽雪がベッドで本を読んでいると、看護師から声がかかった。
室内の明かりが消えた。
羽雪は本を閉じ、眠りについた。
そして、退院の日。
朝の日差しを浴びて、羽雪は目を覚ました。
羽雪は起き上がり、大きく伸びをした。
看護師が現れ、朝食が運ばれて来た。
そして羽雪は、朝食を済ませた。
看護師が来て、食器を片付けて行った。
担当の医師がやって来て、回診を終えると、病室を出て行った。
暇になった羽雪は、本を読み始めた。
暫くすると、病室の引き戸をノックする音が聞こえた。
「はい」
と、羽雪は応えた。
「羽雪、帰るぞ」
病室の引き戸が開いて、忍が顔を出した。
「どうだ?調子は」
忍が訊ねた。
「この通り、元気よ」
羽雪はそう言って、腕を回してみせた。
忍は着替えやら何やら、その他諸々(もろもろ)をバッグに詰めた。
病院の外に出ると、タクシーが待っていた。
忍は荷物をタクシーのトランクに積んだ。
ずらりと並んだ医師や看護師に、見送られながら、忍と羽雪はタクシーに乗り込んだ。
タクシーは出発し、病院を後にした。
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