第3話
泣き疲れた羽雪が、ベッドに伏していると、玄関のドアの開く音がして、
「ただいま」
と言う声が聞こえた。
羽雪の兄である、忍が帰って来たのだ。
「羽雪ー?帰ってるのかー?」
靴を脱いで上がり込む。
そして、羽雪の部屋をノックした。
「羽雪?入るぞ?」
羽雪は起き上がると、
「どうぞ」
と返した。
「電気も点けないで、何かあったのか……って、どうしたんだ、その顔?」
声に落ち着きはあるものの、忍は非常に驚いていた。
羽雪の顔は、赤く腫れ(はれ)ぼったくなっていた。
「お兄ちゃん……」
羽雪が事情を話すと、忍は頷きながら聞いた。
すると、
「ちょっと待ってな」
部屋を出て行き、数分して、また戻って来た。
忍の手には、お盆に乗せられた、ホットミルクがあった。
「気持ちが落ち着くから、飲みな」
「うん、ありがとう」
受け取りながら、羽雪が言った。
忍は、腰掛けていた、ベッドから立ち上がった。
「夕飯作ってるから、出来たら来なよ」
「うん」
忍が部屋を去ると、羽雪はゆっくりと、ホットミルクを飲み干した。
そして、この思いをそっと、胸の中にしまった。
それからも羽雪は、二人と行動を共にした。
巧に会う度、羽雪は思いを隠し続けた。
そんな中。
雨の降る朝だった。
羽雪は傘を差しながら、いつも通り登校した。
教室に入って、スクールバッグを降ろし、授業道具を準備しながら、羽雪は教室の隅に眼をやった。
隣り合う席が二つとも、空いていた。
二人はまだ、来てないようだった。
自分の方が、先に着くなんて、珍しい事もあるんだな、と、羽雪は思った。
LHRが始まるまで、図書室から借りて来た本を読んで、過ごした。
そして、登校時間が過ぎても、二人は来ないまま、朝のLHRが始まった。
担任の教師がやって来て、二人の欠席の説明をした。
樹里亜が風邪をひき、巧はその付き添いで、看病をする為、それで欠席と言う事だそうだ。
羽雪は、今度は一人静かに、午前の授業を、クラスメートと、一緒に終えた。
※
今日は外が雨降りな為、屋上が使えないので、職員室から鍵を借りて、体育館倉庫で、弁当を食べた。
雨が傘に当たる音を、心地良く聞きながら、羽雪は冴や朝雨と一緒に歩いて行った。
バスから降り、自宅へと着く。
部屋に入り、スクールバッグを置き、ベッドに腰掛けると、メールが入った。
巧からだった。
〝今日は休んでごめん、雨、大丈夫だった?〟
自然と言葉が、頭に浮かんだので、羽雪はこう返した。
〝メールありがとう、うん、大丈夫、そっちも大丈夫?樹里亜ちゃんの具合いもどう?〟
〝うん、熱がなかなか下がらなくてね、ご飯は食べるから、食欲はあると思うんだけど〟
〝そっかぁ、早く良くなるといいね〟
〝うん、ありがとう、ところで俺、そろそろ帰ろうと思うんだけど、これから会えない?〟
羽雪は眼を疑った。
だが、間違い無く、〝会えない?〟と書かれている。
若干の期待を、胸に抱きながらも、慎重に返信を打つ。
〝いいけど、どうして?〟
すぐに返信が来た。
そして、すぐに内容を見た。
〝今日の授業内容のノート、写させて欲しいなと思って〟
(あ、なんだ……)
羽雪は拍子抜けした。
〝OK、じゃ、四時半頃、月灯り公園で、どう?〟
〝了解、じゃ、四時半に〟
待ち合わせの、やりとりを済ませると、羽雪は忍に、メールを打った。
〝今から、課題を終わらせて、ちょっと出かけて来ます、あまり遅くならないように戻ります、先に帰れたら、ご飯食べてて下さい〟
送信すると羽雪は、時間まで課題をして、過ごした。
課題が終わって、羽雪はケータイを見た。
四時を少し過ぎていた。
(そろそろ行こうかな)
と思っていると、メールが届いているのに、気がついた。
〝分かった、雨まだ降ってるから、気をつけて〟
忍からだった。
〝了解、ありがとう〟
打ち終えると、ショルダーバッグに、課題用と授業用、それぞれのノートを入れて、玄関に向かう。
着替えは課題をやる前に、済ませておいた。
今度は折り畳み傘ではなく、傘立てに置いてあった、自分の傘を引き抜き、ドアを閉めてから、広げた。
目指すは、バス停。
歩いて行っても、充分に余裕で、公園に着けるが、バスにも間に合いそうなので、羽雪は、バスに乗る事にした。
時間帯が、時間帯だからなのか、バス内はガランとしていた。
これ幸い(さいわい)と思った羽雪は、座席に座り、窓の外を眺めた。
町や街路樹などの風景が、流れるように去って行く。
やがて、公園が見えて来た。
ふと、羽雪は滑り台に寄りかかっている、人影を見つけた。
巧だった。
羽雪はぼんやりと、その様子を見つめた。
「次は月灯り公園ー、月灯り公園ー」
流れて来たアナウンスで、羽雪は我に返った。
降車(こうしゃ)ボタンを押し、羽雪はバスを降りた。
そして、公園へと足を踏み入れた。
ゆっくりと巧の元へと歩み寄り、声をかけた。
「こんにちは」
「やあ」
巧が手を軽く挙げ、挨拶を交わした。
巧も濡れないよう、傘を差していた。
「ごめんなさい、待たせて」
と、羽雪が頭を下げると、
「いやいや、こっちこそ、来てくれてありがとう」
と、巧も頭を下げた。
「じゃ、これ」
そう言って羽雪は、ショルダーバッグから、ノートの入った、ビニール袋を取り出して、渡した。
「今日出された、課題のノートも入ってるから」
「ありがとう」
巧は礼を述べ、受け取った。
「それじゃ」
羽雪はそう告げ、立ち去ろうとした。
しかし、後ろから、何者かに腕を掴まれ、引き止められた。
巧だった。
「何処行くの?」
巧が訊ねた。
「何処って、帰るけど」
「どうして?」
「だって、目的は果たしたし」
そう話していると、巧が言った。
「だったらさ、図書館で勉強するから、付き合ってよ」
「私がいても、邪魔になるだけだよ」
「俺は邪魔だなんて、思ってないよ」
「だって、他にする事無いし、」
言い終わる前に、巧が羽雪を、自分の元へと引き寄せ、片腕で抱き締めた。
「側(そば)にいて、お願いだから」
「苦しいから、離して」
羽雪は力いっぱい、巧を押し退けようとした。
だが、一人の少女の、ひ弱な力では、育ち盛りの男子の力に、勝てる筈など無かった。
「分かったって言うまで、離さない」
声のトーンに、真剣味(しんけんみ)が宿った。
羽雪は、知られたくなかった。
自分の、心臓の鼓動が高鳴ってる事に。
(美作君、あったかい……)
巧の腕の中で羽雪は、彼の体温が、自分に伝わって来るのを感じていた。
雨音がかき消えるかのように、強い鼓動が、羽雪には聞こえていた。
羽雪は最初、困り果てていたが、どうにも出来ないと悟ったのか、観念した。
「分かった、じゃあ、終わるまで側にいて、本でも読みながら、待ってるね」
「よく言えました、それじゃあ、行こうか」
そう言うと巧は、羽雪を離した。
いきなり離れたので、羽雪はバランスを崩し、転びそうになるが、なんとか持ち直した。
さっきの真剣さは、一体何処へ行ったのか、
今まで通り聞いていた、いつもの巧の声に戻っていた。
あまりの唐突ぶりに、羽雪はポカンと突っ立っていた。
「どうしたの?早く来なよ」
巧の呼びかけで、羽雪は我に返った。
いつの間にか巧は、公園を出ていた。
「今、行く」
と、羽雪も早足で、巧を追いかけた。
「さっきまで、側にいてって、言ったくせに」
独り言のように、ポツリと呟いた。
公園を出て、野球場沿いに真っすぐ歩く。
すると、途中でT字路が現れた。
T字路を左に横切り、今度はガードレールに沿って進む。
やがて現れる、カーブを曲がると、駐車場が現れ、その奥を見ると、一件の、何らかの施設のような建て物が構えていた。
「さあ、着いた、これがこの町の図書館だよ」
入り口に歩み寄りながら、巧が言った。
自動ドアを開けて中へ入ると、巧が前へと進み出た。
「案内するよ、ついて来て」
と、クルリと右を向いて言った。
「まず、此処は児童図書室、小さい子から小学生辺りが使う部屋だよ」
入り口の上にも、平仮名(ひらがな)で〝じどうとしょしつ〟と書かれた、看板が飾ってあった。
「大人も、使えないわけじゃないけど、基本はそう言う事だから、よかったら、覚えておいて」
「ふうん」
羽雪は感心した。
次を案内する為に、巧は足を進めた。
「俺達が、今から使う部屋は、こっちだよ」
と、玄関を左に曲って、すぐの戸を開けた。
ちなみに、この部屋の向かいには、トイレと、その隣りに、教育委員会の部屋に繋がる、階段がある。
「此処が一般室、主に(おもに)学生や主婦が利用している事が多いかな」
中に入りながら、巧が説明した。
「此処で勉強するの?」
辺りを見回しながら、羽雪が聞く。
「そう」
入ってすぐの本棚の前に、パソコンも設備されていた。
「こっちだよ」
陳列された、本棚の間を抜けて行くと、並べられた机達の前に出た。
机に近づいて行き、荷物を置くと、その席に座った。
つられるようにして、羽雪も腰掛けた。
自分のノートと、羽雪のノートを取り出し、揃えながら、こう言った。
「さてと、それじゃ、始めるとするか、あ、その辺の本、適当に読んでて」
まるで、自分の部屋にいるかのようだ。
「分かった」
物珍しげに、周りを見回していた羽雪が、巧の方を向いて言った。
そして席を立ち、本を探しに行った。
※
羽雪が戻って来ると、巧は黙々と、借りたノートの中身を写していた。
張り合うかのように、羽雪も席に着いて、本を広げて、読み始めた。
※
最後のページまで読み終えた羽雪は、本を閉じて、置いた。
次巧の方を見ると、シャープペンシルを持ったまま、ノートを写している途中で、うたた寝をしていた。
揺すって起こそうと、肩に手をかけようとした時だった。
着信音が、羽雪への連絡を知らせた。
羽雪は出した手を引っ込めて、ポケットから、ケータイを取り出した。
兄・忍からだった。
〝なかなか帰って来ないけど、どうした?〟
羽雪はケータイの画面の、時刻表示を見た。
五時半を三分程、過ぎていた。
羽雪は手早く、返事を打った。
〝心配かけてごめんなさい、友達に図書館に誘われて、ノートを写させて欲しいって言うから、それが終わるまで待ってたの、でも、もうそろそろ帰ります〟
今度こそ巧を起こそうと、ケータイをポケットにしまいかけていると、また、着信音が聞こえた。
羽雪は再び、ケータイの画面を見た。
忍からの、続いての返信だった。
〝迎え行こうか〟
また、即、返信した。
〝ありがとう、でも、大丈夫、友達も一緒だから、歩いて帰れる距離だし、一人ででも帰れるから〟
また、ケータイをしまおうとすると、すぐに着信した。
〝いや、やっぱ迎えに行く〟
羽雪は続けて返信した。
〝大丈夫だから〟
また、返信が来た。
〝雨降りや暗闇の中、女の子一人で帰らせる訳けには行かないよ〟
こんなやりとりが続いた。
「お兄ちゃんたら、自分がどんな言葉を送っているのか、分かってないんだから」
ポツリと独り言を言った。
〝大丈夫だってば〟
忍は無自覚に、女子を口説くような台詞(せりふ)を言う、癖がある。
その為、女子にモテるのは、幼い頃から知っていた。
思い出して、羽雪は溜め息をついた。
〝夜道は危険だし、心配だから、行くよ〟
〝本当に来なくていいからね、じゃ、私、本の続き読むから〟
そう返信すると、ケータイの電源を切り、ショルダーバッグの中にしまった。
また、着信音が鳴った。
羽雪は思った。
確かに、たった今、ケータイの電源を切った筈(はず)だ。
羽雪は再び、ケータイを取り出して、確かめた。
何も、表示されていなかった。
不思議に思った羽雪は、着信音を注意深く聞いた。
聞き慣れない、着信音だった。
近くから聞こえる。
そして、すぐ側にいるのは、巧だ。
羽雪が、暫く様子を窺って(うかがって)いると、着信音が、耳に届いたらしく、巧が目を覚ました。
「おはよう」
羽雪は巧に、声をかけた。
「んー……」
まだ眠かったらしく、目を指で擦りながら、声を発した。
そしてぼんやりと、宙を見つめた。
「ケータイ鳴ってるよ」
羽雪が言うと、巧は目を伏せ、ポケットに手を突っ込んで、ケータイを取り出し、耳に当てた。
「はい、もしもし」
電話に出た途端、巧はきつく、顔を歪ませた。
どうやら、相手を怒らせたらしい。
「ごめんごめん、寝てたからさ」
親しげな口調で、話し出す。
どうやら、知り合いのようだ。
「いや、まだ帰ってないよ、町の図書館にいる、それに、おばさんに言付けてから、出て来た筈だけど」
誰か、友人からの電話らしい。
「でしょ?それで、調子はどう?」
体調の事か、それとも生活ぶりの事を聞いているのか、分からないが、相手を気遣う程の仲らしい。
「咳込みながら言われても、説得力無いよ、無茶言わないで寝てな、それに図書館、もうそろそろ閉まるし、課題が終わったら、俺も帰るから」
今の言葉で、さっきの疑問が解決した。
前者の方である。
「明日になったら、また会えるでしょ?」
この言葉で、羽雪はピンと来た。
電話の相手は、恐らく〝あの子〟だ。
「明日も具合いが悪かったら、また行くからさ」
数秒待って、相手の返事を聞いた。
「ああ、本当さ」
と、返した。
「うん、約束ーーーうん、はーい、それじゃあね、おやすみー」
「ひょっとして、樹里亜ちゃんから?」
電話を切ると、巧は羽雪に向き直った。
「そうなんだ、ごめんね、途中で寝たりして」
巧の言葉に、羽雪は片手を振って、応えた。
「ううん、それよりも続き、写したら?」
「あ、そうだね、よーし」
巧が気合いを入れ直し、再びノートに書き込もうとした、その時だった。
「閉館時間でーす」
一般室の戸が開いて、そんな声と共に、此処の管理人らしき人が、顔を出した。
「もう、そんな時間か、仕方ないか、寝てたしな」
「ごめんね、起こそうとしたんだけど、兄から連絡が来て」
羽雪が詫びた。
「いや、こんな時間までいさせたんだから、こっちこそごめん、でも、困ったなぁ」
言いながら巧は、手元に置いてある、勉強道具を見た。
「どうしよう、これ」
そう言って、巧は羽雪を見た。
羽雪は、ちょっと考えると、こう言った。
「じゃあ、貸してあげる、持って行っていいよ」
「本当?」
巧が聞き返した。
「明日の朝までに、返してくれればいいから」
「ありがとう、助かるよ」
両手で握手をしながら、満面の笑みで巧は言った。
その笑顔に、羽雪の胸の鼓動が、高鳴った。
しかし、羽雪はつとめて、冷静に対応した。
「だから、今日はもう、帰ろう?後、手離して」
「ああ、ごめん、ごめん」
そう言って、巧は離れた。
胸の高鳴りを隠そうと、羽雪はそっぽを向いた。
そして、暫くの間、沈黙が続いた。
「おーい、羽雪ー、いるかー?」
一般室の戸が開いて、ある人物が、顔を出した。
「お兄ちゃん」
羽雪の兄・忍だった。
「来なくていいって、伝えたのに」
仕方ないな、とでも言わんばかりに、羽雪は溜め息をついた。
「ごめんね、美作君」
と、羽雪は詫びた。
「いや、全然、取り敢えず(とりあえず)閉館時間だし、外に出ようか」
今の会話で忍は、巧の存在に気づいた。
そして、二人の関係を察したらしく、こう言った。
「ああ、邪魔したか?悪かったな」
「違うわ、そんなんじゃないの」
本心を気づかれたくなかった羽雪は、自分の気持ちを打ち消すように、言った。
「隠すなよ、分かってるから」
「別に隠してなんか」
兄妹(きょうだい)で言い合っていると、そこへ一つの声が、割り込んだ。
「ふーん」
声のした方に、思わず二人は振り向いた。
巧だった。
「舞夜さん、そんな風に思ってたんだ」
声のトーンが、いつも聞いてる、さっきまでのとは違うトーンになっていた。
「美作君?」
羽雪が訊ねると、巧は羽雪のノート以外の勉強道具を、鞄の中にしまい込んだ。
そして、足早に、出入り口まで向かい、こう言った。
「先に行くから、それじゃ」
そう言った次に一言、言い残して、その場を去って行った。
「俺は、そんなんの方が、良かったけどな」
「美作君」
羽雪は後を追いかけようと、一般室を出たが、既に外に出た後だった。
羽雪は巧が去って行くのを、ただ見送るだけだった。
「美作君……」
本当は恋しく思う、彼の名を呟いた。
「羽雪」
哀れむように声をかけながら、忍が歩み寄った。
「ごめんな」
詫びると、羽雪は首を横に振った。
「これで良かったのよ」
優しく、兄を許した。
「私達も帰りましょう、準備して来るから、待ってて」
羽雪はそう言うと、一般室の中へと戻り、ノートをショルダーバッグの中に入れて、戻って来た。
「お待たせ」
雨が、見守るように降り注ぐ中、二人は帰って行った。
土日を挟んで、次の日の昼休み。
羽雪は、屋上には行かず、体育館倉庫で、弁当を食べた。
「えー、それでは、この問題を、舞夜」
羽雪が当てられた。
しかし、羽雪は今朝から上の空(うわのそら)で、当てられた事に、気づかずにいた。
「ーーー夜、舞夜」
強く叱るように、教師が名を呼んだ。
それで羽雪はやっと、我に返った。
「え?あ、はい」
「この問題を解いてみろと言っとるんだ」
「はい、えっと……えっと……すみません、分かりません」
しどろもどろになりながら、羽雪は答えた。
「いかんなぁ、ちゃんと授業を聞いてないと、後で困るのは、自分だぞ」
「すみません」
座り直すと、羽雪は溜め息をついた。
そしてまた、ぼんやりと宙を見つめるのだった。
授業が終わっても、それは続いた。
「お待たせー、あら、羽雪は?」
いつものように、朝雨の席にやって来た、冴が言った。
いつも、自分より先に来てる筈の、羽雪の姿が無いのである。
「まだ、来てないけど」
朝雨が答えた。
「へーえ、珍しい事もあるのね」
「うん、そうだね」
そう言うと二人は、羽雪の座っている席を見た。
まだ、道具もしまわずに、ボーッとしている。
その様は、まるで抜け殻のようである。
「巧君……」
「羽ー雪ー、授業終わったよー、帰ろ」
冴が、羽雪の所へやって来て、言った。
朝雨もやって来た。
だが、返事は無く、ぼんやりしている。
眼は虚ろ(うつろ)で、焦点が合ってない。
「巧君……」
「羽雪?」
訊ねるかのように、冴が呼びかけた。
だが、また返事は無かった。
「羽雪、羽雪、しっかりして、羽雪」
冴が羽雪を揺さぶった。
「羽雪、羽雪、どうしたの、羽雪、羽雪ってば」
「え?あ」
もう一度呼びかけると、羽雪は意識を取り戻した。
「どうしたの?二人共」
どうやら、羽雪の意識は、授業の合い間の休み時間で、止まっていたようだ。
「どうしたのって、授業が終わったから、迎えに来たのよ、羽雪こそ、なんか今日、変よ、一体どうしたの?」
冴に迫られ、その圧力に観念した羽雪は、二人に事情を話した。
「そう、それは困った事になったわね」
「でも、これでいいの、このままの方が、二人に迷惑かけなくて済む」
「本当にそれでいいの?」
冴が訊ねた。
「本当は、仲直りしたいんじゃないの?」
「そりゃ、まあ……」
しどろもどろになりながら、羽雪は答えた。
「今までみたいに、仲良く出来たらなとは、思ってるけど……」
と、話してると、朝雨が言った。
「と、着いたよ」
いつものバス停に着いた。
が、そこに、巧と樹里亜の姿は、無かった。
羽雪は、一人でバスに乗って、帰って行った。
羽雪を見送ると、朝雨と冴も、喋りながら帰路を歩き始めた。
「可哀想ね、羽雪」
冴が言った。
「うん」
朝雨が頷いた。
「なんとかして、元気づけてあげたいわね」
また、冴が言った。
「うん」
また、朝雨が頷いた。
悩みながら、道路を渡ろうとすると、
「おっと」
と、強く、冴が引き寄せられた。
トラックが、通り過ぎて行った。
「友達の事を考えるのは、いいけど、気をつけないと、危ないよ」
頭に手を置きながら、朝雨が言った。
「う、うん、ありがとう」
「あれ?顔赤いよ?もしかして、惚れ(ほれ)直した?」
「まあね」
それからも、考えながら歩くが、何も浮かんで来なかった。
朝雨と別れて、自宅に着くと、冴は気分を変えようと、着替えもせず、スクールバッグを、その辺に置き、テレビをつけた。
ニュース番組で、キャスターが、天気予報を伝えていた。
「ーーーなので、明日はかなりの高確率で、雨が降るでしょう」
(明日は雨かぁ……)
テレビを見ながらぼんやりと、そんな事を考えていると、着信音が聞こえた。
ケータイの画面を見ると、メールが一通、届いていた。
それは、朝雨からのメールだった。
※
部屋に着き、ベッドに横たわると、着信音が聞こえた。
羽雪は、スクールバッグのポケットから、ケータイを取り出し、開いてボタンを押した。
冴からのメールだった。
〝課題やった?〟
羽雪は返事を打った。
〝ううん、まだ〟
〝よかった、みんなで明日の朝、早くに集まってやらないかって今、メールでやりとりしてたとこ、せっかくだから、羽雪も誘おうと思って、どう?〟
〝そうなんだ、誰が来るの?〟
〝私と雫の二人だよ〟
〝じゃあ、私も参加しようかな〟
〝OK、じゃあ、明日の朝七時に、学校でね〟
メールの通り羽雪は、次の日の朝、いつもより早く起きて、学校へと向かった。
下駄箱を覗くが、全部が上履き以外、空だった。
冴はまだ、来てないようだ。
教室へ入ると、ガランとしていて、もぬけの殻ーーーではなかった。
自分以外、誰もいない筈の室内に、一つの影。
それはベランダに出て、外を眺めていた。
机の上に、スクールバッグを置くと、ベランダへと繋がるガラス戸を開け、声をかけた。
「おはよう」
声に反応したのか、人影はゆっくりと、振り向いた。
羽雪は驚いて、息を呑んだ。
「巧、君」
人影の正体は、巧だった。
「おはよう、早いね舞夜さん」
巧が返した。
今まで通り聞いていた、声のトーンになっていた。
「巧君こそ、いつもこんな早いの?」
「いや、今日はたまたま、一ノ瀬や戸張(とばり)達と一緒に、課題やる約束してて、まだ来てないみたいなんだけど、舞夜さん、何か知らない?」
「巧君も?私も冴ちゃんや、雫ちゃんと一緒に課題やる約束してるの、まだ来てないみたいなんだけど、巧君何か知らない?」
「いいや、舞夜さんは?」
巧が聞いた。
「私も知らない」
首を横に振りながら、羽雪は答えた。
「どうしちゃったんだろう?」
と、話していると、着信音が聞こえた。
二つの音が、重なり合って、鳴っている。
『あ、ごめん、俺(私)のだ』
二人はケータイを取り出し、画面を見た。
メールが一通、届いていた。
〝悪い(ごめん)、今、そっちに向かってる、二人で先に課題、進めてて、朝雨(冴)より〟
「一ノ瀬君から?」
羽雪が聞いた。
「うん、先に課題、やっててって、そっちは沢渡さんから?」
「うん、私の方も、二人で先にやっててって」
「どうする?」
巧が訊ねた。
「どうするって、言われた通りにするしか、方法無いんじゃない?」
羽雪が答えた。
「じゃ、言われた通りにしますか」
「そうね、二人で課題、やってましょ」
「うん、ーーーん?待てよ」
「どうしたの?」
羽雪が訊ねた。
「二人でって、どういう意味だ?」
「……あ」
巧に言われて、羽雪は初めて気づいた。
「ま、いいや、二人で先に課題、始めてようぜ」
巧と二手に分かれると羽雪は、自分の席へと座り、道具一式を取り出した。
そして、教科書とワークを開いて、早速一問目を解(と)こうとした、その時だった。
「舞夜さん、そこで勉強するの?」
そう、巧が声をかけた。
「そのつもりだけど」
羽雪が答えると、巧はこう言った。
「そこで勉強するの、寂しくない?」
「そう言われると……」
自信無さげな返事が、羽雪から返って来た。
「こっち来て、一緒にやろうよ」
自分の、隣りの席の、椅子を引きながら、巧は言った。
「でも、そこ樹里亜ちゃんの」
遠慮がちに羽雪が言うと、巧は、
「いいから、いいから」
と、手招きをした。
「こっちにおいでよ」
「じゃあ」
と、羽雪は立ち上がると、勉強道具一式を持った。
そして、自分の席から離れると、樹里亜の席に行き、座った。
「そう言えば今日、樹里亜ちゃんは?」
「まだ自宅にいるよ、課題の事話したら、後でおばさんと一緒に行くから、先に行ってていいって」
「おばさんって、樹里亜ちゃんのお母さん?」
「そう」
巧が頷いた。
「さあ、それじゃ、始めますか」
「うん」
巧の声を皮切りに、二人は勉強を始めた。
「分からない所あったら、教えてね」
「OK、そっちもね」
分からない所は教え合いながら、二人はワークに答えを書いて行った。
そして、羽雪が、課せられたページ数の半分に差しかかった、その時だった。
ドドド……と言う音がした。
気のせいかと、羽雪も巧も、気にも留めず、勉強を続けようとした。
が、音はどんどん大きくなり、床が揺れ始めた。
(何……地震?)
緊張が羽雪の体中に走り、動けないでいた。
すると巧が側に寄り、羽雪の肩に手を置いた。
緊張が面持ちに表れていたらしい。
「大丈夫だから、落ち着いて」
あまりの接近さに、羽雪は胸の鼓動が高鳴った。
不謹慎だと思いながらも、羽雪はこのときめきを、止められなかった。
「あっ」
ふいに羽雪がバランスを崩し、よろめいた。
「おっと」
巧がそれを受け止めた。
羽雪は、巧に寄りかかる形となった。
二人はそれから動かず、地震が収まるのを待った。
そして、五分くらい経っただろうか。
揺れは収まり、静かになった。
「止まった?」
「みたいだね」
様子を窺いながら、二人は話した。
しかし、二人はそこから動かなかった。
どちらとも、動こうとしなかった。
「もう少し、このままでいようか」
「うん」
「そう言えば、ごめんね」
羽雪を支えながら、巧が言った。
「え?」
羽雪が聞き返すと、
「この間、図書館で」
と、巧は答えた。
「ああ」
羽雪は言った。
「巧君は何も悪くないわ、私の方こそ、巧君の気持ちを考えられずに、ごめんなさい」
「いや、いいんだ、あんなに怒って、びっくりしたでしょ?」
「ううん、怒らせるような事をした、私がいけないの」
「いや、君は何も悪くない、悪いのは俺さ、怒ったりして、本当に悪かった」
「私も悪かったと思ってるの、本当にごめんなさい、これで仲直りしてくれる?」
体勢を立て直し、頭を下げながら、羽雪は訊ねた。
「勿論、じゃあこれで仲直りって事で」
二人は握手を交わした。
「勉強の続き、しよっか」
切り替えるように、羽雪が言った。
「うん」
机に戻り、二人は勉強を再開した。
二人が勉強に夢中になっている間にも、時間は流れるように過ぎて行った。
「よし、終わった」
ワークを閉じ、シャープペンシルを置き、羽雪が言った。
少し遅れて、巧も同様に課題を終わらせた。
時計を見ると、登校時間が、間近に迫っていた。
「一ノ瀬達、来ないな」
巧が言った。
「冴ちゃん達も来ない」
羽雪が言った。
やがて登校時間になり、教室に生徒が入って来た。
「おはよう」
次々と飛び交う、挨拶の声。
「おはよう」
そんな中、生徒達に混じって、朝雨と冴が入って来た。
少し遅れて、雫や夕雨涼(ゆうせい)もやって来た。
荷物を置くと、四人で集まって、何やら談笑を始めた。
話をしていると、冴がケータイをいじり出した。
そんな様子を見ていたら、羽雪のケータイの着信音が聞こえた。
スクールバッグのポケットから、ケータイを取り出して開き、画面を見た。
メールが一通、届いていた。
〝どう?仲直り出来た?〟
差し出し人は、冴だった。
羽雪は冴を見た。
すると、冴と眼が合った。
冴は合図を送るように、ウィンクをした。
すると、ガタンと言う音が聞こえた。
音のした方を見ると、巧が四人の元にやって来ていた。
「よう、遅かったな、何やってたんだ?」
「ああ、おはよう」
答えたのは、夕雨涼だった。
「悪い悪い、遅れた分、各自、家で課題をやってたんだ、なぁ、みんな?」
そう言って朝雨達の方を振り向くと、各々(おのおの)に頷いた。
「ふーん、まあいいや」
訝しく(いぶかしく)思いながらも巧から、そんな言葉が聞こえた。
「俺達も、さっき終わったばかりなんだ」
そう言うと、羽雪を呼んだ。
「こっちに来て、一緒に話そうよ」
「うん、今行く」
羽雪が混ざると、談笑は再開した。
少し遅れて、樹里亜も同様に、参加した。
やがて、チャイムが、登校時間終了の合図を、知らせた。
立っていた生徒達が、慌てて自分の席へと着く。
教室の戸が開いて、出席簿を持った教師が、現れた。
晴れやかな気分で、羽雪はこれから始まる、今日の授業を迎えた。
(作戦、大成功)
心の中で、四人はそう、思った。
課題を学校でやると言うのは、巧と羽雪を仲直りさせる為の、口実(こうじつ)だと言う事を、四人だけが知っていた。
※
「ただいまー」
忍が玄関に上がると、美味しそうな匂いが、辺りを漂った。
キッチンを覗くと、羽雪がコンロの所に立って、何かを作っていた。
コトコトと、鍋の煮立つ、良い音がする。
「何やってるんだ?」
忍が背後から、声をかけた。
「あ、お帰りなさい」
羽雪はそう言って、振り向いた。
「ただいま、何作ってるんだ?」
忍の問いに、羽雪はこう答えた。
「ちょっと待って、もうすぐ出来るから」
そして、鍋に向き直ると、側に置いていた小皿を持ち、鍋の中身を掬って入れ、それを啜った。
「うん、出来た」
羽雪はそう言うと、忍に指示を出した。
「中身を入れるから、お皿を取って、テーブルに並べてくれる?」
「え?あ、ああ、分かった」
忍は返事をすると、羽雪の指示に従った。
テーブルの真ん中には、パンの入った籠(かご)が置いてあった。
並べ終えると、羽雪は自分の席と、忍の席を、行ったり来たりしながら、鍋の中身を皿に入れて行った。
「へえ、クリームシチューか」
感心したように、忍が言った。
「そう、どう?美味しそうでしょ?」
確認するかのように、羽雪が言った。
「ああ、それじゃ早速、」
言いながら忍は、席に座った。
「いただきます」
そう言って、スプーンに手をつけようとした時だった。
「痛てっ」
忍の手の甲に、痛みが走った。
羽雪が叩いたのだった。
「手洗い嗽(うがい)を済ませてから」
親のような事を、羽雪は言った。
「ちぇ、分かったよ」
忍は、羽雪の言った通りに、手早く動作を行う(おこなう)と、改めて席に着いた。
そして再び、〝いただきます〟を言って、食事を始めた。
忍は、シチューをスプーンで掬って、一口食べた。
「どう?美味しい?」
緊張した面持ちで、羽雪は聞いた。
「しょっぱーい」
舌を出しながら、忍は言った。
「え、嘘!?」
忍の感想に驚いた羽雪は、自分もシチューを一口、食べた。
「私は美味しいと思うんだけど、ごめんなさい、そんなにしょっぱかった?」
そう言って不安そうに、忍を見た。
「ククク……ふふふ……」
すると、突然忍が笑い出した。
「ははは、なーんてな」
羽雪は驚いて、忍を見た。
「冗談、美味いよ」
「……冗談?」
羽雪が聞き返した。
何を言っているのか、羽雪は暫しの間、理解出来なかった。
「そう、冗談」
数秒考えて、やっと羽雪は気づいた。
自分が、誂われた(からかわれた)事に。
「何よ、じゃあ、美味しいんじゃん」
そう言って、羽雪はむくれた。
「だから、美味いって言っただろ」
と、また忍が、誂った。
「もう」
続けて羽雪は、むくれた。
「さあ、冷めちゃうから、食べよ」
そう言って忍は、続きを食べ出した。
「よかった、元気になって」
ボソリと忍が言った。
「何か言った?」
シチューを掬っていた手を止めて、羽雪が言った。
「いいや」
忍はそう言うと、パンをシチューに浸けて、齧りついた(かじりついた)。
羽雪も、それに続いた。
「ありがとう」
次々と食べ進める忍を見て、羽雪は呟いた。
「何か言ったか?」
噛んでいる物を飲み込んで、忍が聞いた。
「なんでもない」
そう答えると羽雪は、シチューを沢山(たくさん)掬って食べた。
「おかわりあるけど、いる?」
話をすり替えるように、羽雪が聞いた。
「ああ、頼む」
そう言って、忍は皿を渡した。
羽雪は席を立ち、コンロに乗っている鍋から、おかわりをよそい、忍の席へと置き、再び自分の席へと戻り、続きを食べ出した。
「ごちそうさま」
こうして、舞夜家の今日の晩餐(ばんさん)は終了した。
数日後の放課後。
羽雪は日直の仕事の為(ため)、教室の掃除を始めた。
すると、教室の戸が開いて、一人の生徒が顔を出した。
巧だった。
「お疲れさん、まだ残ってたんだ」
机や椅子を片づけて、広くなった教室にモップをかけている羽雪に、巧は声をかけた。
「うん、日直だから、巧君こそ、忘れ物?」
「うん、ちょっとドジってさ、ペンケース忘れちゃって」
「そうなんだ、急いで終わらせるから、ちょっと待ってて」
そう言うと羽雪は、止めていたモップがけを再開、しようとした時だった。
(あら?)
両手にあった筈(はず)の重みが無い。
キョロキョロと辺りを見回すが、見当たらない。
「こっちだよ」
振り返ると、巧がモップを持っていた。
「手伝うよ」
「え、そんな、いいよ」
「いいから、いいから、二人でやった方が早いし、ね?」
羽雪はちょっと迷ったが、巧のせっかくの誠意を、台無しにしてはならないと思い、任せる事にした。
「じゃあ、私は黒板と、黒板消しをやって来るから、モップの続きをお願い出来る?」
「了解」
分担の話を済ませると、巧はモップがけを再開し、羽雪は黒板へと移動した。
羽雪は下から順調に、真ん中までを消して行ったが、そこから上が届かずにいた。
背伸びをしてみるものの、ちょっとしか消えない。
ジャンプをしても、ところどころが消えるだけだった。
それでもめげずに、黒板消しを押し当てようとした、時だった。
黒板消しを持ってる感覚が、無くなった。
無くなった場所に振り向くと、巧が持っていた。
「ちょっと借りるね、やってあげる」
そう言うと巧は悠々と、羽雪の届かなかった部分を消して行った。
「モップがけは?」
羽雪が聞くと、巧は黒板を消しながら、
「終わったよ」
と答えた。
「じゃ、俺が机を戻すから、黒板消し、宜しくね」
はいと、巧から黒板消しを差し出された。
「そんな、何から何までやって貰っちゃ、悪いわ」
羽雪が遠慮がちに言うと、巧はこう返した。
「そうだね、二人でやった方が早いって言ったばかりだもんね、じゃあ、俺がこっち半分をやるから、残りの半分を舞夜さん、お願い出来る?」
これも、巧の気持ちなのだと思い、羽雪は答えた。
「分かったわ」
羽雪は黒板消しを受け取ると、急いでクリーナーにかけ、黒板に戻した。
そして、片づけてあった、机と椅子を戻して行き、三列目の半分まで行った所で、一息ついた。
なんとなく巧の様子が気になった羽雪は、教室の窓側を見てみた。
すると、巧は自分の分を既に終えていて、羽雪がやる筈だった分の机と椅子を、戻していた。
そして、羽雪は十分の三、巧は十分の七を終わらせた結果となった。
「ありがとう、巧君、結局最後まで手伝って貰っちゃった」
羽雪が言った。
「いいのいいの、気にしないで」
と、巧が返した。
「先に帰ってていいよ、後は日誌を書いて出すだけだから」
羽雪の言葉に、また巧が返した。
「いいよ、終わるまで待ってる」
「いいわよ、だって樹里亜ちゃん、待ってるんでしょ?」
「バスに間に合えばいいから、大丈夫、一ノ瀬達も一緒だし」
「嘘!?冴ちゃん達、待っててくれてるの!?じゃ、急いで書かなきゃ」
「走ればギリギリ間に合うから、大丈夫」
「それ、大丈夫って言わない、今日は遅くなるから、諦めて歩いて帰ろうと思ってたのに」
言葉を吐き出し終えると、羽雪は学級日誌を開き、内容を走り書きで埋めた。
そして、急いで勉強道具を、スクールバッグの中に詰め込んだ。
「お待たせ、行こう」
羽雪の言葉に巧が頷くと、二人は階段を早足で、一階へと降りた。
そのままのスピードで、職員室へ着くと、羽雪は巧に言った。
「此処で待ってて」
職員室の戸を開け、中へと入る。
「失礼します」
中にはまばらに人がいたが、担任の姿は無かった。
羽雪は、デスクの上に日誌を置くと、直ぐ様、職員室を後にした。
「お待たせ」
羽雪が言った。
「行こう」
巧が言った。
二人は急いで玄関へと行き、靴(くつ)を履き替え、校舎の外に出た。
「そう言えば、忘れ物は?」
「ちゃんとあるよ」
そう言って巧は、スクールバッグの中からペンケースを、取り出して見せた。
黒の生地の間を縫うように、灰色のファスナーが着いている。
「よかった」
と、羽雪が一息ついた。
二人は改めて、走り出した。
一方、その頃、朝雨達は、バスの時間を気にしながら、二人の到着を待っていた。
「遅い」
不機嫌な声で、樹里亜が言った。
待ちくたびれたのか、すっかりご機嫌斜めである。
「大丈夫かな、あの二人」
朝雨が言った。
「間に合えばいいけど」
冴が言った。
「でも、早くしないと、最終バス来ちゃうよ?」
雫が言った。
「そうなったらなったで、一緒に帰るけどね、俺は」
朝雨が言った。
「俺も、バスが行っても待つ」
夕雨涼が言った。
「私も」
雫が言った。
「じゅ、樹里亜も待つ」
みんなの意見に流されるようにして、樹里亜が言った。
すると、〝グー〟と言う、音が聞こえた。
「ああ、ごめん」
そう言って、腹を両手で押さえたのは、夕雨涼だった。
「そろそろ、夕飯の時間だもんね」
クスクス笑いながら、雫が言った。
「一ノ瀬ん家の夕飯、何?」
夕雨涼が聞いた。
「ハンバーグだよ、そっちは?」
朝雨が聞き返した。
「カレーライス」
「雫は?」
また夕雨涼が聞いた。
「グラタンだよ、冴は?」
「スパゲッティだよ、樹里亜ちゃんは?」
周って来た質問に、樹里亜は答えた。
「オムライス」
「うちはシチューだよ」
本間栞(ほんましおり)が言った。
「うちはポトフ」
沢村涼雨(さわむらりょう)も言った。
みんなで、食べるメニューをそれぞれで想像して、脱力感のある、溜め息を吐いた。
冷風が強く吹いて、五人を扇いだ。
また、腹の鳴る音が、聞こえた。
今度は誰も、名乗り出なかった。
そして、誰も追求しようとしなかった。
「なかなか来ないね」
雫が言った。
「そろそろ、バスの来る時間だな」
腕時計を見ながら、朝雨が言った。
すると、朝雨が予言したかのように、ブロロと言う音が聞こえて、二つの光が走って来た。
五人の前に、バスが到着し、乗車口の扉が開いた。
しかし、誰一人として、乗る素振りも見せなかった。
「乗るの?乗らないの?」
運転手が言った。
「まだ来ないかなあ」
栞が言った。
すると、こんな言葉が、聞こえた。
「お、噂をすれば」
朝雨だった。
「ほら」
と、横断歩道の向こう側を、指さした。
「おーい」
巧が呼びかけた。
「そのバス、待ってー」
羽雪も叫んだ。
走りながら、何度もリフレインした。
段々と足音が近づいて来て、止まった。
「すいません、乗ります」
「そのバス、乗ります」
屈んで、切れた息を整えながら、二人が言った。
「乗るなら、早くして」
急かす(せかす)ように、運転手が言った。
「は、はい!」
朝雨の返事の後、七人は急いでバスに乗った。
思い思いの席に座ると、運転手はバスを発車させた。
向かい合うように座った、七人の中で、話し出したのは、羽雪だった。
「ごめんなさい、遅くなって」
頭を下げ、詫びると、巧が言った。
「これでも急いだんだ」
「分かってる」
そう言ったのは、冴だった。
「あれだけ走った姿を見せられたんだもの、一目瞭然よ、ねえ、みんな?」
と言うと、みんなに目配せをした。
羽雪と巧、そして樹里亜以外、全員が頷いた。
「気にしないで、私達も気にしてないから」
続けて言い、みんなにまた、目配せをすると、これにも同じ人数が、頷いた。
「ありがとう」
羽雪は、ほっこりした気持ちになり、礼を述べた。
「別に気にする事じゃないでしょ?ねえ、みんな?」
冴の三度目の呼びかけにも、同様の人数が頷いた。
「そう言えばさ、」
巧が言った。
「お兄さんに連絡しなくて、大丈夫?心配してるんじゃないの?」
言われて羽雪は、ハッとした。
「いけない、すっかり忘れてた」
慌てて連絡しようと、スクールバッグのポケットに手を伸ばした時だった。
そのケータイが、着メロを鳴らして、合図を告げた。
羽雪は慌てて、ケータイを取り出して開き、画面を覗いた。
五件も着信が入っていた。
続けて二、三回コールして、着メロは止んだ。
誰からのものか、チェックすると、全て忍からのものだった。
「お兄ちゃんから、連絡来てた」
羽雪は巧に、ケータイの画面を見せながら、言った。
「でしょ?電話した方がいいんじゃない?」
「うん」
羽雪は巧に、素直に頷くと、忍へと電話をかけた。
「あ、もしもし、お兄ちゃん?うん、ごめん、日直の仕事で、今まで時間かかっちゃった、迎え?あー、申し訳ないけど、今、バスの中なんだ、うん、そんな訳で、これから帰るから、うん、はい、分かった、はい、それじゃあね、はい」
電話を切ったのは、忍からだった。
羽雪も電話を切ると、ふう、と、一息ついた。
「お兄さん、怒ってた?」
巧が聞いた。
「まあ、ちょっとね」
曖昧(あいまい)に、羽雪は答えた。
(こりゃ、相当怒ってたな)
と、巧は悟った。
「何て言ってた?」
続けて聞くと、
「迎えに行くから、今、何処にいるかって、だから、もう、バスの中だからいいって、断った」
「すっかり遅くなっちゃったもんね」
冴が言った。
「お兄さん、とても心配だったのね」
雫が言った。
「夕飯作って待ってるって」
続きを話すように、羽雪が言った。
「夕飯時だもんね」
雫が返した。
すると、グーっと、聞き覚えのある音が、聞こえた。
「ああ、ごめん」
腹を押さえて、巧が言った。
「夕飯って聞いたら、また腹が……」
そう言って、頭を掻いた。
「私もお腹空いたー」
腹を押さえて、冴が言った。
「私もー」
雫も腹を押さえながら、言った。
「そろそろ腹が空く頃だもんな」
夕雨涼が言った。
また、グーっと音が鳴った。
今度は、何処からともなく、聞こえた。
「ねえ、ご飯の話止めて、違う話しない?」
栞が言った。
「このままじゃ、お腹空く一方だよ?」
「そうだな、そうすっか」
陵雨(りょう)が賛同した。
「そうだね」
雫も同意を述べた。
「授業の話でもする?」
冴が言った。
「そうだね」
陵雨が言った。
「だな」
夕雨涼が言った。
「そうだな」
「そうしよう」
みんなの意見が、一つに纏まった(まとまった)。
しかし、言葉は少なくなって行き、会話は一旦、此処で途切れた。
七人に、静寂が訪れた。
数秒すると、こんな声が聞こえた。
「そう言えば、今日の数学分かった?」
冴だった。
「マジで?俺、英語の方が分かんなかった」
返したのは、夕雨涼だった。
「みんなはどう?」
続けるように、冴が聞いた。
「私も数学かな」
「私も」
雫と栞が答えた。
「俺は国語かな」
朝雨が言った。
「とか、なんとか言っちゃって、本当は苦手な科目なんて、無いくせに」
冴が冷やかした。
「そうそう、でなきゃ、学級委員長なんて、務まらないからな」
「だな」
夕雨涼と陵雨も、冴に乗っかった。
「そんな事無いよ」
朝雨が反論した。
「またまたぁ、成績トップ記録保持者が何を言うか」
軽く肘打ちを入れながら、夕雨涼が誂った。
うんうんと、陵雨も繰り返し、頷いた。
「本当にそんな事、無いってば」
続けて朝雨が反論した。
「分かった、分かった」
生返事のように、巧が言った。
「冗談だよ、冗談」
夕雨涼が言った。
「そうそう、そこはボケないと」
補助するように、陵雨が言った。
「そこは〝まぁ、それほどでもありますけど〟って言わなきゃ」
腰に手を当て、胸を張り、冴が言った。
「自分で言うか」
巧のツッコミに、車内が湧いた。
笑いが溢れている最中(さなか)、羽雪も少しだけ笑うと、ふいに、窓の外に目をやった。
バスが辿っている、帰り道は夕闇に包まれていた。
数秒の間、羽雪はその光景を眺めていた。
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