第3話 「もうちゃんと握ってないとだめじゃん」

 チョコレートを湯煎して、丁寧に溶かす。

 ちょっとでも温度が変わると分離したり、固まったり、チョコレートという存在はものすごく繊細で気を抜けない。

 ハズだけど……この日は二重の意味で全く気が抜けなかった。


 私は1人で黙々とガナッシュトリュフを作っていた。

 「トリュフチョコレート」と呼ばれるスイーツは球体に丸めたガナッシュをチョコや粉砂糖で装飾したチョコレート菓子の基本形で、コーティングを変えることでいろんな味に変身する素敵なスイーツなの。


 早く甘いものを口に入れたい。

 そんな気分で私は少し慌てていた。


 お湯を沸かして温度を測ってボールにお湯を注ぎ、チョコレートの入ったボールをさらに重ねて溶かすことを湯煎といい、熱いお湯を注いだ途端に、かけていたメガネが曇った。


 何も見えない。

 それでもまぁ、いいかなぁと思っていた。


 なぜかというと、絶対に失敗しない自信があったからだし、私はとにかく甘いものが食べたかった。

 そして――――今日言われたことを今すぐに忘れたかった。


 今日は金曜日。

 授業が終わった教室内には週末の浮ついた空気が漂っている。

 沙織は用事があるとさっさと帰宅してしまい、私はいつもどおり一人で帰り支度していた。

 そう、いつまでたっても馴染めないぼっちになって、胸が締め付けられていた。

 

 ……別にいつものことじゃん、何も変わらないよ。

 私は自分に言い聞かせるようにいいながら、私の名前が聞こえた。


「……たちばなさんて、いつも後ろに髪の毛1つ結びだよね。おしゃれとか興味ないのかな?」

「さぁ? コンタクトにしてないところみると全然見た目気にしてないんじゃないの?」

「ねぇ、それより駅前にできた新しいお店の洋服めちゃくちゃ可愛かった、いこ!」


 そんな会話を耳に挟んで、すぐ近くにいたクラスメイトのグループは教室を出ていった。


 今日はなんだかついてないなぁ。


 1つ結びにしているのは、調理をするからめんどくさくて結んでるだけであり、コンタクトはお店に行くのが億劫だから度数が変わらないメガネを愛用しているって……自分の中でいいわけを唱える。

 

 ほんとは洋服も化粧も可愛いものにも興味あるけど、お店に一人で行くことも店員さんとのやりとりも全部が怖い。

 結局、私は私が行ったことある場所しか行けない。


 そういう意味では学校内は私にとっては聖域なの。特に生徒がいなくなった静かな学校は私にとっては秘密の庭みたいな感じ。

 帰宅時の廊下は真っ暗で冬は寒くて怖いし、時折、一人だと実感させられるから全てが良いわけでないけれど、大勢の中で一人を感じる強烈な寂しさよりはずっとまし。


 何だかものすごくネガティブだなぁ。


 ――甘いものを食べたら?

 

 脳が私に囁く。

 そうだよね、なぁんにも考えたくない。

 

 ――甘いもので心を埋めたらいい。


 そう思った私はいつの間にか先生からカギを受け取り、家庭科室にきていた。

 簡単なお菓子にしたのはとにかく甘いものを口にしたいという欲望を叶えるため。


 部屋中にチョコレートの甘い香りが充満し、私は曇ったメガネのまま、香りを大きく吸い込んだ、その時だった。


たちばなさん?」


 私を呼ぶ声がした。


「はい? えっと……」


「失礼します」


 その声の主は私が戸惑っている間に、近づいている音がする。

 私は扉がある方向を向くと、曇ったメガネの先には茶色の制服ぽい人物が向かってきている。


 その人は私の前に立った。

 私の頭の中は「?」しか浮かんでいない。

 

 そこでその人物はメガネに触れた。


「!?っっっ!!!!」


「遊びに来ちゃった、橘さん」


 指でメガネの曇りをハートマークに拭ってきた、そこには目を細めて笑顔をしていたおおとりさんがいた。


「あ……あ……」


「あ、片方だけだったね、ごめんごめん。ほら、こっちも」


 彼女は反対側にも指でハートマークをつけた。

 

「えっ……あの……」


 私がどうしていいのかわからない状態で混乱していると、もっとおおとりさんは近づいてきた。


「橘さん、チョコレートって繊細だよね? いいの?」


「あうっわぁぁぁあ……」


 私はまた変な声をあげて、手にもっていたボールを落としそうになった。


「ほら、もうちゃんと握ってないとだめじゃん……」

 

 そう言ってボールに添えた自分の手の上に彼女の手がぎゅうっとボールと一緒に掴んだ。

 おおとりさんの綺麗な白い手はひんやりと冷たく、その刺激は電流が走ったかのような手から身体中に走った。

 

 やばいやばいやばい、緊張する。

 心臓持たない。


 声も出さずにあたふたとする私の様子を見て、おおとりさんはくすっと笑った。


「よかった、家庭科室にきて」


 えっ……えええっ?

 このおかしな状況でよかったって?何?


 私は握られぱなっしの手を振りほどいて湯煎していたチョコレートのボールをテーブルの上に勢いよく置いた。

 まだ心音は止まっていない。

 ど、どうしたら……。

 慌てすぎて鼻にかかったメガネがずれて、私は手で直した。


「あ、あの……」


「邪魔? だった?」


「あ……いや……あ……」


 周囲にチョコレートのふわりと甘い香りが広がる中、おおとりさんが私をじっとこちらを見ている。


「な、何か?」


「あー、ちょっと動かないで」


 え? と思った瞬間、またおおとりさんは指を動かして――――そのまま、私の鼻先に触れた。


「……チョコついてる」


「えっ……?」


 不意打ちすぎて、私は固まる。

 おおとりさんは指先についたチョコを、私の目の前で軽く眺めると——。


「ねぇ、ほら、あーんして?」


「えええええっ!!?」


 私の頭の中で、何かが爆発した。

 あーん!?

 何で!?

 どうして!?


「えっ、ちょっ、そんな、無理……!」


 私は慌てて後ず去った。おおとりさんはニヤリと微笑んで、肩をすくめる。


「ふふ、もうしょうがないなぁ。じゃあ、このチョコは私がもらうね?」


 そして——。


 私の目の前で、おおとりさんは自分の指先をゆっくりと唇に運び、まるでスローモーションみたいに、舌を、ぬるりと滑らせるように出して……指先に触れる。


 そこから、ゆっくりと。

 まるで、味わうように、絡めるように、先端を—— 舐め上げた。


 チョコの甘さを楽しむように、わざとらしく、指先を吸い込む。

 ぬるりと濡れた指を唇から離し、満足そうに微笑んだおおとりさんは、ふっと私を見た。


「ん……甘い」


 その瞬間、心臓が跳ねた。


 ただの冗談のはずなのに。

 ただの仕草のはずなのに。


 私がチョコレートを舐めたわけでもないのに、その「甘い」という感覚が、喉の奥までせり上がってくる。


「……っっ!!???」


 先ほどよりも全く比ではない、電流みたいな感覚が私の中を走った。一瞬で手が、顔が、身体が、熱くなる。

 もう、熱いどころじゃない。確実に顔は真っ赤になっているのが自分でも分かる。


「……な、な、なにしてるんですかぁっ!!?」


 壁際にゆっくりと後ずさる私を見て、おおとりさんはくすっと笑った。

 その笑顔が、すごく、ずるい。


 ——この瞬間、私の日常は、完全に狂い始めた。

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