ep.22 人魚姫の夢(後編)
ちらと視線を背後に転がす淑女の傍ら、百瀬は顰め面で薄い唇を噛んでゆっくりと客席の奥へ視線を伸ばす。
木の階段を革靴で踏み鳴らして舞台の逆側へ上ってきたのは、くたびれた背広を着た初老の紳士であった。奈落を挟んで夫婦たちから10メートルばかり離れたところで足を止めた彼は、手にしていた布鞄をそっと床へ投げ捨てる。
「……重役出勤じゃないか。人魚の城はもう干上がったそうだぞ」
「どうやらそうらしいな。結果的に手間が省けた」
「奴らと連んでいたレムニスカも始末した。もう親父の出る幕はない」
「いいや。まだ1匹、人魚は残っている」
まっすぐな目つきの新婦へ低い声でそう言い放つ老紳士。――彼は頑なに娘婿へ視線を合わそうとしなかった。百瀬は教会で彼と交わした言葉を思い起こし、背後の奈落へ静かに視線を逃がす。
「クリスティーヌ。最後に忠告する。この世界とは関係ないところで生きろ」
「今日の今日までその話か。何度も言うが、今さらそんなことできやしない。――できると思って言っているのか? この土地で人らしく生きてきた証を捨てるだなんて」
「クリス……」
「ゴーレムにとって使命は絶対だ。お前になら分かるだろう、錬金術師のお前になら」
「……ならば私が引導を渡す。それでいいのか」
「できるものならやってみろ」
老紳士が目を細めて口をつぐむや否や――、彼らの視界を突如塗り潰す鋭い閃光。丹碧の稲妻が夫婦の身体に長い影を象った。
――数秒置いて、百瀬は目元を覆っていた腕をそろりと引き剥がす。彼が客席へ視線を転がすと、2騎の
銀甲冑、狼の戦士、そして彼らの主人たち――。皆の視線が三角形を描く。沈黙の間を引き裂くようにして、騎士たちは手にしていた刀剣を振りかざした。
鎧の全身に生じた稲妻が腕を伝ってそれぞれの得物へ流れ込んでいき、ふたつの刃は溢れんばかりの雷を溜め込んで唸り出す。
いっぽう舞台に立つ錬金術師たちは一向に重い口を開くことができなかった。
――この場にいる誰もが理解していたのだ。勝負が一瞬で決まることを。次の瞬間にも空間が跳ね飛ぶように動き出し、その揺らぎのすえに誰かが死んでいることを。
このひとときは朽ち果てた劇場の中へ永遠のように長い濁りを残した。夫婦の意識も親父の意識も、瞬間の世界に溶け込んでいた。
そんななか――、老紳士は無言で正面を指さすのだ。
『!』
そして次の一瞬。銀甲冑が深く腰を落とす――、その一瞬を狼の瞳は捉えた。
人魚姫に向けて大剣を引き構える銀騎士――。いっぽう紅甲冑は電撃的な速度で劇場を駆け出した。框を伝って瞬時に若紳士たちの眼前へ飛び上がり、背後の客席通路をめがけて日本刀を振りかぶる。そして双方の刃に迸る丹碧の稲妻が大きく輝いた。
――その瞬間、目を見開いた淑女は夫の身体を強く突き飛ばす。
「クリスッ!」
背後にふわりと倒れながら、百瀬は意識の錯乱を自覚した。すべての認識が後手に回るのだ。痛みも衝撃も、自分が発した悲鳴さえ、何もかもが一足遅く脳に伝わってくる。
――彼らの目の前で激突するふたつの雷。
眼前で炸裂する閃光に百瀬は反射的に目を閉じてしまう。そしていちど目を閉じてしまったら、もうこの一瞬を追い切ることはできなかった。城の奥底に轟く爆音とともに瞼の裏は眩い閃光に包まれ――、ただ舞台の木床に背中から落下するのみである。
「……ぅ」
そのあとは翻って静寂が訪れた。
百瀬は痺れる上腕に鞭打って細長の身体を起こす。無意識に喉奥から呻き声が鳴った。思うように動かない身体がもどかしい。だが呑気にくたばっていることなど許せなかった。
なんとか体を起こした彼が見たのは――、埃まみれの空気に砕け散る2騎の西洋甲冑たちと、力なく木床に膝をつく淑女の後ろ姿。――銀騎士の大剣は彼女の上着を貫いていた。
「……」
沈黙のなか、天井にぽっかり空いた大穴へと舞い上がる鴉たち――。
人魚姫の左胸を穿った剣が砂の渦となって消えていくなか、百瀬は咄嗟に身体を跳ね起こし、木床に転がり落ちる彼女の元へと走り寄った。砕け落ちた騎士像たちの亡骸、肌に触れればピリリと痛む煌めきの粒子を浴びながら。
「……クリス」
妻は肩を抱えて呼びかけても目を覚まさない――。
膝を折った若紳士の脳を得体の知れない感覚が重く揺さぶった。行き場のない感情は彼の手を震わせ、握りしめる物欲しさに彼は砕けた鎧の欠片を手繰り寄せる。
彼の見つめる先――、細長い掌の上で鎧の亡骸は砂となって消えていった。
「……ありがとう。私たちのために」
目を見開いて息をついたのち、百瀬は淑女の細長い身体を床にそっと寝かせる。そして無言で立ち上がると、コートを脱ぎ捨てながら正面へゆっくり視線を起こした。
――ゴーレムを失った錬金術師が真っ直ぐな目をして向かいに立っている。
「……」
ふたりの間に言葉はない。言葉は要らなかった。背広を着た錬金術師ふたりは、無言で互いに拳を構えるのみ。
筋肉質な老紳士は木床を踏み鳴らしながら徐々に相手側へ躙り寄ってくる。若紳士は硬い顔で拳を構えたまま、彼が接近してくるのを無言で待ち構えていた。
――そしてふたりの距離がわずか2メートルほどに近づいたとき、静寂は打ち破られる。
これまで慎重に足場を踏みしめていた親父が、大胆にも間合いを詰めに跳ね飛んだ。正面から打ち込んでくるのを察知した百瀬は彼の長身を十分に引きつけ、素早く上半身を水平線の下へ潜らせる。峻烈なブローをかわしながら、拳を振り切った老紳士の鳩尾にフックをぶち当てた。
「うッ」
彼が蹌踉めいた一瞬の隙を見逃さず、若紳士は一気にその懐へ入る。相手の右手首をすくい取り、思い切り捻り込んだ。
吹田の細長い身体は反射的に歪な姿勢で踏ん張るが、痩せた筋肉は踵を地面に突き刺すばかりで言うことを聞かない。――その隙を百瀬が見逃すはずがなかった。彼は親父の無防備な右足へたちまち革靴を引っ掛ける。
「ぐわッ!」
老体は瞬く間に背後へ薙ぎ倒された。――が、錬金術師は無防備に倒れ込まない。腐った木床を受け身で転がり、起き上がると同時に若紳士の
交差する視線――。靴底をきゅるりと鳴らし、彼らの身体は素早く反転した。そして互いを正面に捉えた瞬間、互いに拳を打ち放ち、同時に顎を殴り殴られる。
「ぬぅッ!」
脳が揺れる感覚に彼らは双方とも口もとを押さえながら後退りした。組み手は一瞬だったというのに、ふたりの額には脂ぎった汗が滲んでいる。
「……」
状況は最初に戻り、背広の紳士たちが拳を構え直した――、その時である。
ふと百瀬はそこで急に背筋を撫でる肌寒さを感じた。そして間髪入れず空気中に白い霧が漂い始めたのに気づく。
まるで早回しの映像を見ているかのようだった。見る見るうちに霧は氷塊となり、互いに結合を繰り返しながら次第に一個の形を成していく。――龍の形を。
「アイスゴーレム!」
反応は後手に回った。突如として観客席の真上に10メートル近い巨体を現した氷龍。赤く光る目を見開くと、ぐわりと長い首を動かして大きく周囲の空気を吸い込んだ。
『ゴガァアアアアッ!!』
大きく開かれた口に閃光が迸ったその瞬間――、ステージ中央から飛び出した赤い稲妻が氷龍の口元を蹴り上げる。
勢い余って天井に放たれた氷の光線は崩れかけの天井をたちまち氷漬けにし、すぐさま鋭く巨大な氷柱が雨のように劇場へ降り注ぎ始めた。
その間、わずか数秒――。手負いの人間たちが逃げることは叶わず、紳士ふたりは降り注ぐ鋭い氷柱の雨をまともに浴びることとなる。
『ゴガォッ!』
そしてそれでもなお龍は止まらなかった。間髪入れず翼を開くと、あとはもう一瞬である。壁に向かって再び強烈なブレスを放ち、3階の客席に向かって突進する。
客席ごと劇場の壁面を突き破った巨影は崖の中腹から青空の中へ飛翔していった。
「……」
地響きの後、一転して静寂が訪れる。
「……う」
若紳士は額から垂れてくる血をジャケットの袖で拭い、氷の海でその細長い身体を起こした。氷の割れ目から這い出ると、目を凝らして周囲を窺う。
――周囲は氷の大洞穴となっていた。視界は巨大な氷柱にことごとく阻まれ、妻の姿は見つからない。いや――、氷柱が破いた
「……」
背広の若紳士が氷の舞台に立ち尽くすこと、数秒ほど。
「……悪運は強いらしい」
背後から聞こえた嗄れ声に百瀬は奥歯を噛み締めて振り返る。くたびれたスーツを鮮血に染めた親父がそこにいた。同じように氷の底から這い出てきて、そのままそこに尻餅をついている。――百瀬は手頃な氷柱をへし折り、右手に握りしめて氷の海を歩き出した。
「……」
氷柱を手にした彼が近づいてくるのを、親父は無言で受け入れている。やがて目の前に立って自分を見下ろす娘婿に向かって、髪の乱れた老紳士は肩を揺らしながら微笑んだ。
「君には謝らなければならないな。こんなことに巻き込んでしまった」
「謝る必要はありません。私は自分の意思で歩く道を決めたまでです」
「そうか。やはり君の教え子たちの見立ては間違っていなかったらしい」
百瀬は鼻で笑って返し、義父は皺だらけの顔から微笑をゆっくり引っ込める。彼は喉を萎縮させる冷気に咳き込みながら、氷の上に置いた細長い指をしきりに震わせた。
「捜査記録に忘れず書き足しておけよ。この事件の実態は単純犯罪ではなかったと」
「信じる者がいるでしょうか、こんな奇妙な結末を」
「いつだって奇妙なものだ。錬金術の犯罪は」
若紳士は嗄れた声からゆっくり顔を背ける。
「――まだ事件は終わっていません。ひとり、裁かれるべき犯罪者が残っている」
「……そうだな」
そう寂しげにつぶやいて、親父は腫れぼったい目を緩やかに閉じた。
百瀬は凍てつく冷気のなかで深く鼻奥で息をついたのち、氷柱を手にしたまま彼の元へ歩み寄る。――老紳士は喉仏に突き立てられる氷の刃を無言で受け入れていた。
「……親父」
喉仏にあてがった刃先が震える。氷柱を握りこむ手に強く力を込めた若紳士。
「意志は……受け取りました」
そう小さく呟いて――、彼は親父の首を掻き切った。
呻き声を漏らした老体はふわりと宙を漂い、娘婿の足元へと崩れ落ちる。地面にぶつかった膝の皿から氷の粒が弾け飛んだ。
――あとはもう、あっという間である。地面へと倒れ込む彼の上体はぴくりとも動かなくなる。赤く染まった氷柱を足元に捨て、百瀬はやんわりと顎を引いた。誰もいない劇場のなかで口を閉ざしてその場に立ち尽くす。
あるとき血に濡れた手で乱れた虹髪をかき上げた彼は、ステージの片隅に布鞄が落ちているのを見つけた。――鞄の中から鋼鉄の法典が転がり出ている。
徐に百瀬は歩き出し、凍った床から分厚い冊子を拾い上げた。そして革靴で氷を踏みしめながら親父の元へと歩み寄ると、手にしていた法典を屍の傍らへ力強く叩きつける。
――床に張った氷を薄く貫いて鉄の法典は墓標の如くその場に直立した。
「……」
白い煙の立ち込める劇場でしばし黙祷したのち、そろりと革靴を背後に翻した若紳士。凍りついた観客席を無言で進み、立て付けの悪い両開きの扉を押し開けた。
――そしてそこで彼は思いがけない出会いに足を止めることとなる。
「!」
とある人物がエレベータのボタンを押して彼のことを待っていた。――厚着をした東洋人の幼女がホームドアの前でばつの悪そうに微笑んでいたのだ。
「どうしてここに。孤児院のみんなと逃げたんじゃないのか」
『ごめんなさい、先生。わたくし、姉妹のことがどうしても気になってしまって』
「しかしここはもう危険だ」
『存じておりますわ。お姉様が城に火をつけている。直にここも窯のようになるでしょう』
恩人へ年不相応に真っ直ぐな瞳を返した彼女は、そっとエレベータを振り向いた。
『勝手なことを言ってしまってごめんなさい。恩返しもできていないというのに』
「いや、そんなことはいいんだ。君がここにきた理由――、きっと使命が君をそうさせたんだろう? だったら私が口を挟むことはできない」
『……ありがとう、先生。先生がわたくしを救ってくださったこと、姉妹たちも感謝していると思いますわ。お星様になってもわたくしは先生のことを見守っておりますから』
エレベータのベルが鳴ると、ゴーレムはそっと恩人の手を取った。目を閉じ、狭い額に押し当てる。肌に触れるのは作り物とは思えない温かさ――。百瀬は淡く眉を顰めた。
『どうか先生の使命が達せられますように』
「……ああ。ありがとう」
幼女は百瀬の手を離してエレベータの中に彼を導くと、深くお辞儀して送り出す。籠の中から彼女の最期を見届ける若紳士の面持ちは固かった――。
そしてエレベータは昇り出す。埃まみれの空気をかき分けて吹きさらしの籠はどんどん上層へ。地上階を昇り始めると、格子の隙間から丘の上空を旋回する龍の影が見えた。
――龍は何かを掴んでいた。だが百瀬が大空へ目を凝らそうとしたところでエレベータは最上階へ到着し、彼は喉を鳴らしてドアをくぐり抜ける。うっすらと白煙の立ち込める廊下を歩き出し、やがて背広の紳士は屋上へと続く室内階段の前に立った。
入社の儀式を終えてすぐ――、妻に連れられて上った石階段。その両脇の壁に連なるようにして設られたガスランプの上で、8羽の鴉が主人の到着を待っていた。
「……行こう」
ランプの飾りに1羽ずつ留まった鴉たちが、静かに鳴いて彼に応える。百瀬が前を通りすぎると、その背中を追うようにして順番に翼を広げて飛び上がった。――作り物の渡り鳥たちが頭上を舞うなか、スラックスを履いた長い脚はゆっくり階段を上っていく。
庭園へと続く木扉は彼が近づいてくるとひとりでに開き始めた。鴉たちは主人を追い越して陽光の中へ飛び込んでいき、彼らに続いて若紳士も扉の向こうへ足を踏み入れる。
――庭園は雲ひとつない澄んだ青空のもとにあった。
そして相変わらずの静寂。冷たい空気はしんと張り詰めている。遠くから聞こえる氷龍の羽ばたきに恐れをなしてか、小鳥はじっと声を潜め、植栽の花木も押し黙っていた。百瀬が慰霊碑の前で立ち止まると、この空間に聞こえるのは再び北風の音だけとなる。
――石碑に備えられた黄金の直刀サーベルには、今日も緑白色の炎が燃えていた。神秘的な揺めきを見つめながら彼は深く息を吸い込み、それから宙を漂う鴉たちを振り返る。
茶色の瞳に映る鴉たちは急旋回を始め、するりするりと主人の手元へ吸い込まれていった。百瀬の左手で変形し組み上がり――、やがて一張の長弓となるのだ。
若紳士は空いた右手で炎のサーベルを台座から持ち上げると、慰霊碑から庭園の中央へと踵を返した。真っ直ぐな刀身を地面に垂らし、無言で天を仰ぎ見る。
『シュルルル』
氷龍の気配が強くなった。――と思った瞬間、巨大な影が頭上をかすめ飛ぶ。
「っ!」
庭園を吹き抜ける突風。風に足を取られないよう姿勢を低くするのが精一杯で、広場の人間はただその後ろ姿へ顔を向けることしかできなかった。――埃を巻き上げる旋風に目もとを覆いながら、百瀬はあの巨大な手が掴んでいたのが棺桶であるのを垣間見る。
『ュルルルル……』
広場を通り抜けて冬空を旋回したのち、巨龍はひときわ強く翼を羽ばたかせてモンターニャ・デラーゴのはるか頭上へと舞い上がった。その影は太陽へ接するほどとなる。
巨龍が落とした影の中で百瀬は静かに長弓を構えた。黄金のサーベルを柄の端で拾い上げ、弓の中心へ充てがう。身体を捩って弓を構える先は――、頭上の天空である。
『ギュルルルルル!』
翼を閉じ加速をきかせて真っ直ぐ地表へ突っ込んでくる氷龍。彼はその口吻に向けて弦を引き絞り、真っ向から西洋剣を撃ち放った。オーロラの炎をまとった刀剣は初速にして実に時速300キロメートル近くに達し――、まっすぐ氷龍の喉元へと滑り込む。
――そしてふたつの光がぶつかったとき、一陣の衝撃波が天空を水平に揺らした。
「うっ」
若紳士は咄嗟に目元を腕で庇う。一瞬遅れて来た爆風が庭園の木々を揺さぶった。巨大な氷塊は水蒸気爆発によって瞬く間に青空の中へ霧散し、龍が掴み持っていた細長い影が白煙の中から庭園に落っこちてくる。
鉄の塊はそのまま――、床に激突。タイルを叩き割って浅くめり込んだのち、バランスを失って重力のままに倒れ落ちた。
「……」
百瀬はスーツの肩周りを上下させながら、ゆっくりと目元から腕を剥がす。彼の手に握られていた長弓は再び鴉へと姿を変え、ふわりと寒空の中へ飛び立っていった。
――いくつか広場へ舞い落ちた黒い羽が、床で沈黙していた棺桶の上にも零れ落ちる。そしてそれに呼応するかのように棺桶はひとりでに開き始めるのだ。
若紳士が見守る先でのそりと身を起こしたのは、見知った顔であった。背の高くふくよかな西洋娘――、よれよれのピナフォアをまとう銀髪のメイドである。
百瀬は冷風に身体を晒しながら、氷のように固まってその場に立ち尽くしていた。言葉を忘れて背高の彼女を見つめることしばらく、ふと我に返って口を開く。
「……コッコ?」
気だるげなメイドは棺の上に立ったまま、照れ臭そうにして小さく頷いた。
「また会えたねー。先生」
「どうして……」
「コッコはね、アイスゴーレムだったんだよ。人間の死骸に宿って生まれたの」
俄かに何も返せず、黙って額を手で覆う若紳士。
「……クリスは君の正体も知っていた?」
「もちろん。コッコもクリスの秘密は知ってた。黙っててごめんね、先生」
静かに息を吐く彼を見てコッコは薄く笑い、棺から足を出して庭園を歩き出す。百瀬はそのゆったりとした歩幅にどこか懐かしさを感じ、自身の革靴へそっと視線を落とした。
「……クリスから聞いたよ。君たちはこの城で出会ったんだってね」
「もうずっと昔の話。クリスは他に何か言ってた?」
「君から聞いた生き方をずっと夢見て生きてきたと」
「そっか。……ねぇ、先生。クリスは今――」
大の大人の濁った目つきを盗み見て、西洋娘は言葉の先を言い淀む。彼女は冷たい風でピナフォアの裾を揺らしながら、眼下に広がる冬枯れの大地へと視線を逃した。
「……可哀想なことしちゃったな」
「いや。コッコ。クリスのことで君に頼みがあるんだ」
「え?」
答える代わり、若紳士は身を翻して背後を振り返る。銀髪のメイドは口を一文字にして目を大きく見開き――、大扉を見つめる彼の視線を青い瞳で追いかけた。
「卓越した錬金術師は数多のゴーレムとの絆によって奇跡を起こすらしい」
「ワールドゴーレム……」
淡い太陽光の下に霊薬の染みた前髪を揺らしながら、百瀬は小さく頷いてみせる。
「私ははぐれの風来人だ。真の錬金術師に成ることなんて望むべくもない。だがもし私が
低い声で綴られる言葉を聞きながら、コッコは視線を天に泳がせた。――透明な空に悠々と浮かぶ鴉たちを遠い目で眺めたのち、彼女は丘の裾に広がる平野を俯瞰する。
「……コッコができるのは、仲間をこの城に喚び寄せることだけ。死骸を見つけたアイスゴーレムは死者の真似事をするだろうけど、そのあとは先生次第だよ」
「ああ。任せてくれ」
西洋娘は目尻に皺を寄せて平野を見つめていたが――、やがて小さく頷いた。正面へ視線を戻し、若紳士の隣に向かって西洋庭園を歩き出す。ローファーの足音が隣に近づいてくると、百瀬は開け放たれた大扉を見つめながら静かに口を開いた。
「じゃあ、頼む」
「分かった」
彼女が扉に向かって手を翳すや否や、庭園の草木が揺らめいた。
紳士たちの髪を撫でるのは冷たい北風――。花壇を超えて塀の向こうに視線を移した百瀬は、モンターニャ・デラーゴの外に広がる田園地帯に白い光の波が走るのを見る。
――
そしてそう思ったのも束の間、白い輝きを帯びた木枯らしはたちまち錬金術師の丘に到着する。――むろん、この城にも。西洋庭園を駆け巡り、白い風は大扉の中へ流れこむ。
「!」
冷気の渦は大扉を強く叩き閉めた。庭園に雪が降り出すなか、彼らは霜つく扉を睨みながらそろって大唾を飲み込む。
――ふたりの頭をかすめたのは、あの古代劇場の情景であった。
客席に打ち捨てられた発条仕掛けの幼女たち――。その朽ち果てた身体に冷たい氷が根を張り、欠けた肉体を埋め、次第に生前の姿かたちを取り戻していく光景――。
「……先生」
「……ああ」
粉雪が吹き荒ぶなか、若紳士は瞼を閉じた。そして――、そっと喉仏を揺らす。
「……聞いてくれ。みんな」
その時だった、何の変哲もない大扉が淡く光を帯び始めたのは。胸元に置いた拳を握りしめる西洋娘の傍ら、百瀬は冷たい風にスーツを揺らしながらゆっくり目を見開いた。
「錬金術師の掟に従い、私は君たちの妹を娶った。彼女の使命は君たちと同じ。人らしく生きること。私は夫としてその使命の半分を受け持つ誓いを立てた。あの子の夢が泡となって消えないよう、最後まで見守る義理がある。だから今、君たちの力を借りたい。もし私の声が届いているのなら――、」
沈黙を続けていた扉を前に、彼は冷たくなった拳を握りしめる。
「人魚姫に……私の妻に今いちど光を与えてもらえないか」
雪の積もった肩を揺らして百瀬が語り終え――、数秒の空白。
コッコははっと息を呑んだ。扉の向こうから仄かに漏れ聞こえた幼子たちの声――。扉から漏れ出る白い光が彼女の脳裏に古い記憶を呼び覚ます。刹那、彼女はこの城で何が起ころうとしているのかを理解した。
――地下の古代劇場が、まるでフラスコのようにゴーレムたちを循環させている。そして朽ち果てた肉体に宿る記憶から無秩序に蘇った幼い人魚たちの氷像が、各々の力を繋ぎ合わせて現世と死の世界とを結び始めているのだ。
硬い面持ちを保つ若紳士の傍ら、とうの昔に死んだ若メイドの細胞が打ち震える。彼女には、隣の男がゴーレムたちの心を動かせた理由が判らなかった。だが目の前で確かに奇跡は形作られているのだ。多種多様の出自を持つ海月たちが丸フラスコの中で暖かな光の水となって生命の揺り籠を作り、氷の奥底に埋もれていた人魚姫の命は祝福の水に揺られながら確かな形を取り戻していく――。
「……」
息を呑む給仕人の傍ら、あるとき百瀬は小さく肩を震わせた。
「あ」
扉の開く音に、我に返った給仕人も思わず声を漏らす。――ひとりでに開いた大扉から覚束ない足取りで姿を現したのは、困惑の眼差しをした淑女であった。
彼女が白いワンピースを着ていたのは、彼女にそれを着せた人魚たちがそれ以外の衣服を知らなかったからであろうか。そのほっそりとした身体からは一切の傷跡が消えていた。
――やがて雪は止み、光の扉はたちまち輝きを失ってただの扉に戻る。
扉の前で棒立ちになった人魚姫はまだ状況を飲み込めていなかったらしく、目覚めたばかりのような曖昧な表情で眼前のふたりを見つめていた。
「……ここは、死後の世界か?」
朦朧とする意識のなかで自分を看取っていた夫が白い歯を見せて笑い、死んだはずの友人がその隣で微笑んでいる――。淑女は冬の庭園を裸足のままひたひた歩き出した。細長い足が冷たい石床を踏み進めるたび、琥珀色の瞳は大きく見開かれていく。
「死んだはずの姉妹たちが……俺をここに導いてくれた」
「先生がアイスゴーレムたちにお願いしたんだよ」
「零士郎が? それはつまり――」
ふたりの前に立ち止まった淑女は旧友から夫へと視線を零した。
「私も少しは親父の背中に近づけたでしょうか」
ほぐれた顔つきをする異国の男に、新妻は歯を見せながら額をそっと足元へ傾ける。
「ああ、そうだな」
目を細めるふたりに小さく「ありがとう」と添え、雪を被った位牌に目をやる淑女。
――そんな彼女を黙って見守る紳士の傍ら、コッコは眉を八の字にして友人の瞳を覗き込む。長い銀髪を風に揺らしながら、彼女は喉奥に詰まっていた言葉を声に漏らした。
「ねぇ、クリス。コッコがずっと前に言ったことなんだけど」
「うん? ずっと前?」
「人らしく生きるってこと。コッコ、何も考えないで喋っちゃってた」
申し訳なさげな物言いに、クリスティーヌは小さく笑って瞼を伏せる。
「……いいんだ。あのとき俺は外の世界を何も知らなかった。お前の言葉は人生の道標になっていたんだ。ただ、俺が人らしい生き方を真似ようとするあまり、かえって人形に近づいていっていたというだけの話さ」
「クリス……」
言葉の途切れる友人に肩をすくめて返し、遠くの景色へ視線を置く人魚姫――。困り顔のメイドを見かねて、百瀬は妻の細い背中へそっと顔を傾ける。
「クリス。たとえ貴方がどんな使命のために生きていたとしても、貴方が歩んできた人生の道筋は
「煮え切らない助言だな。人間であるお前にも、どうすれば人らしく生きられるのか分からないのか?」
「ええ、残念ながら。だから、それについてはこれから一緒に答えを探すとしましょう」
「……」
広場に響く風の音を聞きながら、人魚姫は静かに瞳を左右に動かした。しばし黙り込んだのち、彼女は冬空を仰ぎ見て小さく何度か頷くに至る。
「……ああ。そうだな」
そうして再び静寂に戻る庭園――。真っ直ぐな目つきの淑女へ微笑みを返したコッコが、ふと大扉から黒煙が漏れ出ているのを見つけて裏返った声を上げる。
「そろそろまずいかもー」
クリスティーヌは百瀬に視線を合わせると、すかさず茶色の唇に指を押し当てた。たちまち鳥のさえずりのような指笛が凍空を駆け巡る。
『キューーールィ!』
誰の差配で控えていたのか、ゴーレムの大鷲が古城の屋上に舞い上がるまで十数秒もかからなかった。脚に飛車を抱えながら巨大な翼で青空に悠々と滞空する大怪鳥――。彼女の視線に頷いて返し、それから人魚姫は背後のふたりを振り返った。
「帰ろう。秘密結社が待っている」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます