ep.14 眠る劇場

 それから2日後、百瀬は夕暮れに赤く染まる下町を歩いていた。

 行政が何かと対応を後回しにする貧民街にも冬めく寒さは分け隔てなく訪れている。顔を撫でる寒気に、若紳士は凸凹の交差点を渡りながら帽子を目深につまみ寄せた。

 周囲の様子は相変わらずだ。道路は下品な落書きだらけ、塀は崩れて街灯も壊され、酒飲みの怒鳴り声とともに謎の破裂音がこだましてくる。

 このあたりの汚れた空気に一般人が溶け込むことは難しく、地味な外套を羽織ってなお知的な面構えの東洋人は周囲の景色から浮いてしまっていた。

 長い階段の果てに彼が訪れたのはとりわけ古びた住宅地、崖沿いの敷地に立つ幽霊屋敷のような洋館である。区の管理組合から預かった鍵で錆びた鉄門の錠を開け、枯れ草だらけの庭園を通り過ぎて館内まで。部屋の隅にかかった蜘蛛の巣は埃を被っており、人の出入りは全くないことが窺える。

 そんな洋館に足音を響かせて彼が向かったのは1階の最奥、乾いた空気に埃の舞う居室であった。百瀬は丸まっていた背筋を伸ばし、ゆっくり周囲を窺う。2LDKの荒れ果てた居室に特段着目すべきところはない。――が、彼が手袋を嵌めた手でぐいと戸棚を押し退けると、その裏に隠されていた扉が姿を現すのである。

「……」

 隠し通路を見つけた紳士の顔に驚きはなく、彼は躊躇うことなく身体を屈めて扉を潜り抜ける。

 扉の先にあったのは――、錬金術の実験道具が転がる工房であった。部屋の空気はひどく乾燥しており、部屋に散乱する金属類はあまねく錆付いている。ミルフィーユ状に堆積した埃を見るに、どうも長い年月放置されていたらしい。

 部屋を一通り見て回ったのち、ふと若紳士は錬金炉の前で立ち止まる。――彼はそこで眉を顰めた。炉の奥から冷たく湿った風が吹き出していたのだ。蜘蛛の巣を払い退けて炉の奥を覗き見ると、取っ手のついた鉄扉が見えた。そよぐ蜘蛛の糸と頬に当たる冷風の感触――。間違いない、湿気た空気はここから漏れ出ている。

 百瀬は煤だらけの炉に腕を突っ込み、鉄扉を力任せに引き開けた。軋み音を立てながら扉は観音開きとなる。中を覗き込むと――、その先は無限の暗黒。

 しかし彼はそこでも躊躇しなかった。胸ポケットから懐中電灯を取り出して、煤だらけの扉に頭から突っ込んでいく。意外にも扉の先は広々としており、彼の上半身は細長い空間へ出た。――壁面は剥き出しの岩肌。洞窟通路である。

 懐中電灯を振り回して人ひとり立てる広さがあるのを確かめると、百瀬は膝を胸元に抱え込んで立ち上がる。そして中腰になりながら息の詰まる暗黒の通路を進み始めた。

 岩肌を懐中電灯で照らすと、光沢が見える。壁のどこかから地下水が染み出しているのであろう。洞窟はやや上向きに傾斜がかっていたため、気を抜くと革靴の底がつるりと持っていかれそうになる。一歩一歩踏みしめて進んでいった。

 ――そうして洞窟通路を数キロばかり歩くと、今度は石の螺旋階段に突き当たる。

 懐中電灯で照らして石壁を探ったところによれば、かつて入社の儀式において入れられた地下室の外壁に似ていることが分かった。それを確かめて目を細めると、百瀬は砂利と埃に塗れた階段を上り始めるのである。

 一向に終わりの見えてこない螺旋階段――。けっきょく小一時間に渡って足を動かす羽目になったが、攣りそうになる前腿に力を入れるたび、その無限にも思える長さが彼の表情をじんわり明るくした。

 やがて辿り着いた終点には鉄扉が一つ。百瀬は片手を扉に押し当てた。

「うっ」

 扉を押し開けた途端――、首もとを砂の感覚がぞわりと撫でる。彼は肩を怒らせながら頭上に懐中電灯をやった。わずかな振動で天井の梁から砂埃が落ちてきたらしい。眉を顰めて首元を払いながら、若紳士はそろりと鉄扉を潜った。

 その先に見えたのは埃っぽい一室である。覗き見た限り、生活感のある空間ではない。学校の体育館に似た内装だ。家具らしい家具は何も置かれておらず、同じ方向に幾重ものカーテンで仕切られている。――否、仕切られていたような痕跡があった。

 厚手のカーテンは埃を被り、ところどころ破れ、多くはぞんざいに床へ打ち捨てられていた。そのほかにも舞台装置や小道具の類があったが、いずれも本来あるべき位置にはない。まるで部屋全体を揺すってひっくり返したかのような有様で床に散らばっていた。

「……」

 腕時計の秒針が聞こえる気さえするほど静寂な空間――。

 周囲に生き物の気配がないことを確かめると、百瀬は絨毯のように分厚い垂れ幕に向かって進み始めた。そしてそれを潜り抜けた先で目を丸くする。

「これは……」

 目の前に広がるのは――、広大な劇場だったのである。

 客席はバルコニー付きで4階まである。照明は死んでいたが採光の設計が成されているらしく、天井が仄かな間接照明となっている。百瀬は暗い深海から海面を見上げているかのような気分になった。

 いっぽう内装はいわゆるオペラ劇場のそれで、特筆すべき違和感はない。――問題があるとすれば、客席に見えた無数の人影であった。

 千人は優に収容できるであろう客席が満席だったのだ。席に座っていたのはいずれも齢幾ばくもいかない幼女。いずれも壊れた玩具のようにぐったりと席で崩れていた。揃ってゆったりとした白ワンピースを着ている彼女らは、まるで深海に漂う海月のようだ。

「……ゴーレム?」

 海月の幼女に角がないことを確かめ、百瀬はそのまま天井を仰ぎ見る。採光された夕焼けの日光に照らされて、石彫りの天井画が見えた。金色のゴーレムに紛れ、女性の天使と戯れる神々しい美男子の姿が描かれている。その迫力に見惚れること、数秒ばかり――。

『あら、どなた?』

 百瀬は飛び上がった。この劇場には自分以外に気配など全くしなかった。なのに一瞬だけ視線を天井に集中させた瞬間、客席の片隅に小さな影が立っていたのだ。

『もしかして外からやってこられましたの?』

 そう言って眉間に皺を寄せるのは東洋人種の幼女。透き通った瞳は本物の人間のそれにしか見えなかったが、明らかに場違いな出会いはかえって彼女の姿を不気味に思わせる。

 ――背高の若紳士は努めて穏やかな顔を作って主舞台の下を覗いた。

「そうだ。外の人間だよ」

『まぁ、それは嬉しい。わたくし、困っておりましたの。こんなところに閉じ込められていては、使命を全うすることなんて叶いませんから』

 古風な言葉遣いでそう話したのち、1メートルの背丈もない彼女は困ったような顔を作る。――百瀬はしばし言葉を失った。彼女は見た目こそ何の変哲もない幼女。しかしその水風船のような頬に、明らかに年齢不相応な表情の機微が垣間見えたのである。

「……君たちはゴーレムなんだね。何の使命を与えられているんだい」

「人らしく生きる?」

『ええ。何かお気になることが?』

 目を丸くして首を傾ける彼女に他意は感じられない。幼いゴーレムは客席で朽ちた人形の元へ歩み寄ると、その手を優しく撫でた。長い睫毛の下に覗く瞳はアンバーのように上品な煌めきを秘めている。百瀬は眉を八の字にしてその仕草を傍観するよりなかった。

『――ねえ、お兄さま。わたくしをここから連れ出してくださいまし』

「私の力を借りずとも、ここから出ることぐらいできるだろう」

『独りでは……駄目。すぐに死んでしまうでしょうから』

「何故そう思う?」

『ある方から、そう忠告いただきましたの』

「……ある方?」

 目元を隠そうと額の上を弄ったとき、彼はどこかで帽子を落としたことに気づく。

「私の他にも誰かがここへ来ていたのかい?」

『ええ。わたくしがお会いしたのは、お兄様でふたりめ』

「来ていたのは、もしかして金髪の……小柄な白人女性かな?」

『そう。そうですわ。お兄さまとはお知り合いですの?』

「知り合い……まぁそうだ。あれは悪い大人なんだよ」

 機械の幼女は口をつぐみ、高鳴る心を押さえつけるように小さな手を鎖骨に当てた。

『いいえ。あの方は親身になって話を聞いてくださりました。まるで……わたくしたちの本当のお姉さまのように』

「……そう。しかし彼女はここに戻ってきて何を?」

『天井の大彫刻を見つめておられましたわ。ずっと』

 人間の方をちらと見てから、その視線を導くように頭上を見上げる幼女。彼女に続いて天井に広がる巨大な彫刻画を再び仰ぎ見て、百瀬は革手袋をそっと嵌め直した。

『この天井画は巨大なゴーレムだそうですの。こことどこか遠い所を結ぶ門であると』

「彼女はその力を借りようとしていたということか」

『ええ。でもお姉さまも断念して帰られました。どれだけ問いかけても、まったく聞く耳を持たないらしくて。――お兄さまもあれが気になられますの?』

「ああ。どうにかして動かしたい」

 海底を揺らめく魚が海面を見つめるかのように、天井に視線を置き続けるふたり。

『わたくしも力になれますかしら』

「力を貸してくれるのかい?」

『もちろんですわ。ただ――、』

 幼女は天を仰いだまま目を閉じ、主舞台に立つ人間の方へ視線を落とす。外套の若紳士は複雑な表情をしながら未だ天井を見つめていた。

『ねぇ、お兄さま。お兄さまはきっと錬金術師なのでしょう? 貴方の望み、わたくしでよければ叶えられるよう尽力いたします。ですから、どうぞわたくしの使命を――』

 ふとそこで甲高い声は途切れ、慌てて頭上から視線を下ろす百瀬。

『がッ』

 突如虚空から現れた銀甲冑の騎士に首元を掴んで持ち上げられ、幼いゴーレムは空中で激しくもがく。――が、白銀のガントレットから青い稲妻が迸った瞬間、小さな体は宙にびくんと跳ね打った。その後は締められた魚のように一直線に伸びて、動かなくなる。

『……』

 騎士像の怪物はぞんざいにゴーレムの死骸を客席の薄闇へ投げ捨てると、百瀬の方には一瞥もくれず、青い稲妻とともに虚空へ消えていった。

「生きてる奴もいたのね」

 百瀬が振り返った先には私服のギャルがひとり。今風のコンビネゾンゆえに彼女の強ばった顔はことさら目立った。ゴーレムの亡骸を睨みつける彼女の視線はひどく鋭い。

「……なぜ破壊したんだ」

「なぜ? それは人類の敵よ。寝ぼけないで」

 決して客席から視線を逸らさずに、彼女は鋭い口調で反論を封殺した。

「無事に辿り着けたみたいで何よりね」

 この状況では彼女の愛らしい化粧も殺伐として見える。何ら悪びれる様子もなく会話を紡ぐ彼女に、若紳士は頭を小さく横に振り払いながら浅いため息を吐き出した。

「……君の教えてくれた道はかなり骨が折れた」

「ごめんね。こっそり忍び込むにはあの地下道ぐらいしかなかったの」

 平坦な声色だ。人形の死骸を冷酷に見下ろす目つきを見るに、彼女には何ら迷いがないように見えた。比して若紳士はどこか慈しみを含んだ目をして彼女の仕草を手繰る。

「ついさっき秘書役から知らせがあったわ。昨日の会議から行方が分からなくなってたおばさん、ようやく身柄を確保できたって。逮捕されてそのまま留置場行きだそうよ」

「それは何よりだけど……」

 異様な劇場を前にして飄々とした佇まいのギャルを百瀬はそっと覗き込んだ。

「――ここのゴーレムたちはいったい?」

「さぁ? こいつらが成長したら人魚たちになるんじゃないかしら」

「みな人間そのものの見た目をしているが……いずれ半人半獣となるのか」

「入社の儀式で身体が変わるみたいなものじゃないのかしら」

「新たな身体に生まれ変わって外の世界に出ると?」

 背高の美女は「まさに人魚姫ね」と埃っぽい空気に嘲って、天井に視線をやる。同胞の死を目の当たりにしても、荘厳な天井画は依然として沈黙したままであった。

「話は陰で聞いていたけど。あれは雑居ビルにあった泉と同じもの?」

「どうもそういうことらしい。だが察するにこれは……」

「人魚の本拠地に通じる正門ってわけ」

「ああ。でも動かすのは一筋縄ではいかなさそうだ」

「あたしも力になれそうにないわ。ゴーレムと話をするのは苦手だから」

 真っ赤な唇を歪めて腕を組むギャルに、百瀬は静かなため息を返す。自分を覗く訝しげな目つきから視線を逸らし、彼は客席の足元に転がる幼女を見下ろした。

「その子を治療しよう。力を借してもらうんだ」

「馬鹿言わないでよ」

 悲鳴のような声だった。薄暗い劇場に美女の裏声が反響する。

「人の言葉を喋れるゴーレムがいたら意思疎通も捗るはずだ」

「そういう問題じゃない。こいつらは敵なんだってば」

「どうもこの子たちの使命は普通の人魚とは違うらしい」

「そんなの信用できないわ。本心なんて確かめる術はない」

「人の心と一緒だろう」

「奥さんを放ったらかしにしてる零くんの言葉とは思えないわね」

 オッドアイの美女が浅い呼吸で肩を揺らすのに、百瀬はゆっくりと顎を引っ込めた。彼女は長い睫毛を伏せ、若紳士も行き場をなくした視線を劇場の客席へ逸らす。――ふたりは互いに視線を返さなかった。

「……何かあれば私が責任持って解決する。それなら文句ないだろう?」

「零くんの方がゴーレムより寿命は短いの、分かってる?」

「数十年もあれば心を通わせるには十分だ」

「この世界でそんなに長生きできればいいけど」

 そう揶揄して背を見せる彼女の肩首に、百瀬は恐る恐る視線を伸ばす。彼には異国の美女を怒らせた前科がある。要らぬ言葉を挟み込まないよう、ことさら気を遣った。

「――もういいわ、好きにしたら」

「ありがとう。ここはなんとかしてみせる」

 彼の声に渋々頷いて返し、彼女は徐に片頬を上げる。

「あたしは円卓の準備をしとく。動きがあったら連絡ちょうだい」

「任せてしまってもいいのかい」

「しのごの言ってられないわ。あまり時間もないし」

「助かる」

 百瀬は薄笑いとともに外套に溜まった砂埃をはたき落とし、舞台から客席へと飛び降りた。革靴を鳴らして幼女の元まで歩み寄り、聞こえるはずもないのに一声かけてその身体を担ぎ上げる。凛々しい眉を顰めた美女も彼のまっすぐな視線には噛み付けなかった。

「私もいったん引き上げるとしよう。ここじゃ治療もしようがない」

「治療って言ったって、どうするのよ。これだけ話して悪いけど、多分もう手遅れよ」

「クリスに診てもらう。工房なら何かしら薬も置いてあるだろう」

 子供を抱えたまま舞台端の階段からステージへ上ってくる若紳士。逞しく汚れた外套から彼女はちらと視線を逸らした。そして深いため息とともに靴底をパタパタと鳴らす。

「零くん、錬金術師になるつもりなの?」

「狂ったゴーレムたちを鎮めることは錬金術師にしか務まらない。そうだろう?」

「……そうかもね」

 真面目な顔の彼に作り笑いの残滓を擦り付け、彼女はくるりと舞台を歩き出した。

「笑えない物語ファンタジーになりそう」

 そう言い残して舞台裏のカーテンの先に消えていく美女――。すらりと伸びたその背中を、百瀬は幼い人魚を抱きかかえながら無言で見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る