ep.6 老紳士の捜査記録

 2週間後の日没直後――。モンターニャ・デラーゴの中腹、そのど真ん中に広大な温室を構える市営植物園【オッタビオ・ボタニコ】にて。

 ガラスの半球に覆われた閉園間近の広場にスーツを着た日本人がひっそりと佇んでいた。彼は鉄の手すりに腰を預け、広場中央に設られたガゼボへと視線をやっている。

 直径4メートルほどのガゼボの中にはグランドピアノがひとつ置かれており、今まさにそれがクラシックを奏でていた。奏者は美しい金髪の乙女だ。か細い五指が鍵盤で滑らかに踊るたび、まるで清流のような音色が新緑の間に流れる。――しかし秋夜の演奏に立ち会えた観客は彼ひとりだけ。奏者もまた周りに目もくれずピアノを弾き鳴らしていた。

 やがて楽曲は終幕を迎える。色白の手を鍵盤から離し、ふと背後を振り返る金髪乙女。――百瀬は盗み聞きに気付いて唇を尖らせる彼女をとぼけた微笑でやり過ごす。

「やぁ、奇遇にも」

「どうしてこちらに?」

「息抜きがてら散歩を。ここのところ仕事詰めで」

 鼻腔の奥から「そう」と息を漏らし、令嬢は椅子に座ったまま広場の小池を覗き見た。

 ――水面に映る夜空の月は青みを帯びている。暖かい温室の外には薄寒い秋の夜更けが広がっていた。広場を流れるせせらぎの音を聞きながら、彼女はそっと目を伏せる。

「でも、それでしたらもっと清涼なところがございますのに」

「ここも十分では?」

「ここの植物園は観葉植物がございませんの。霊薬に使われるような地味な植物ばかり」

「私のような異国者からすると余計に珍しい」

 令嬢が小さな咳払いとともに楽譜を閉じるのに、百瀬はうわずった声を重ねた。

「よくこちらにはいらっしゃるんですか?」

「ええ。定期的に寄付をしに。その見返りで苗を分けてもらっておりますの」

「苗。――そうか。妻から聞きました、貴方も錬金術師でいらっしゃると」

「数寄者の道楽ですわ」

 美しい異国語で会話を締め括り、令嬢の薄い身体は椅子から静かに立ち上がる。

「そろそろ閉園ですわね。わたくし、お暇いたします」

 背中越しにそう語ってから彼女は広場を振り返った。石造りのガゼボから出て若紳士の背後にある広場の出口へ向かい、目を釣り上げて広場を歩き出す。そして二回りほど小さな身体が百瀬の脇を足早に通り過ぎようとした――、その時だった。

「ひとつ。お伺いしたいことが」

 子鹿のような足がびたりと立ち止まる。彼女は金髪を指先に巻いて弄びながら、くいと顎を彼の方へ向けた。

 ――鋭い目つきから視線を逸らし、懐から紙切れを取り出す若紳士。

「前任者時代から残されていた資料一式に、他の支部が管轄となる契約書が混じっていました。どうも貴方の見ておられる支部のものも含まれているようでして」

「へえ。そうですの。それで、それが?」

「勉強のために中身をいくつか拝見させていただきました。それで気になるところが」

「……」

「実在しない社員の名前で結ばれた契約書が見受けられました。用途不明な高額機械を外部に製作させていたようです。この取引は会社の記録からも抜け落ちているようで」

 しばしの間を置き――、小柄な令嬢は不意に溢れ出た不服げな面持ちを横に背ける。胸元に下げた綺羅星のネックレスが音もなく揺れた。

「何も存じ上げませんわ」

「契約の取り交わしは内密に行われていたようです。よくご覧になられた方がいいかもしれません。こちらでざっと調べてみたところ取引先はペーパーカンパニー、機材の納入先となっていた事務所は下町の雑居ビルで、不自然なほど厳重に施錠されていました」

「実際に足を運ばれましたの? 随分とお暇ですのね」

「細かいことが気になる性分で」

 百瀬が差し出した資料を素早く奪い取り、小鹿の令嬢は眉を顰めて舌打ちする。彫りの深い顔に色濃く陰影が差した。

「……異国人に何が分かる」

 ヒールを鳴らして広場を後にする令嬢。十秒ほどかけて作り笑いを解き、百瀬も温室から退出する。ひとりで植物園の敷地を出て肌寒い大通りを抜け、タクシーを捕まえて丘の頂上まで。巨大な石階段を経て古塔に入ると、彼はまっすぐ自身の執務室へ戻った。

 真っ暗な石室には窓から月明かりがほんのり入ってきている。帽子と上着をハンガーポールにかけた若紳士は、壁掛けのガスランプに火をつけて机上の資料を眺め始めた。

 ――それから、しばらく。ふとノック音が聞こえて、薄暗い部屋で百瀬は顔を起こす。部屋の入り口に視線をやれば、古びた木扉から色黒の淑女が顔を覗かせていた。

「クリスですか」

「親切にも様子を見に来てやったぜ」

 若紳士が椅子に座り直す傍ら、彼女は暗黒の廊下から扉をくぐって部屋の中まで。

 今日の彼女は私服である。腰にリボンのあしらわれた白い厚手のワンピース。手元には同じデザインの女優帽を持っている。閉鎖的な教会建築に目が慣れてしまっていたのか、彼の目には彼女の世俗的な格好がかえって物珍しく映った。

「祭日に仕事なんてしているのはお前だけだぞ」

 背高の淑女はしゃなりしゃなりと絨毯の上を歩き、音もなくソファに腰掛ける。

 その眉元は得意げに八の字を描いていたが、彼女は夫を直視しようとしなかった。窓外の星空に視線をやろうとして、デスクの上に鴉の像が多数並べられているのに気づく。

「……ゴーレムか?」

「シラユキくんにお祝いで作ってもらったんです。元は瀕死の鴉だったそうで」

「お祝いか。気が利かなくて悪かったな。俺からも今度何か用意しよう」

「ありがとうございます。でも貴方から何か貰うなら、物より食事の機会の方が嬉しい」

 そう答えて机の上から小さな封筒をめくりあげる若紳士。彼の言葉が意外だったのか、淑女は石室の澱んだ空気に深呼吸した。

「……お安い御用だ。なんなら今から行くか? 下町の方に良い店を知ってる」

「ぜひ」

 百瀬は封筒を手に立ち上がり、淑女もそれに続く。夫がハンガーポールから上着を取るのを待ってから、彼女はそっと木扉を押し開けた。そして夫婦は暗く静寂な石廊下を進み、大理石のエレベーターホールへ。ボタンを押すとすぐにベルの音が鳴る。

「コッコは?」

「帰らせました。ここのところ働いてばかりでしたから」

 乗り込んだエレベータにて、淑女は腰元で両手を合わせてそっと俯いた。

「この2週間、ずっとふたりっきりだ。給仕人たちの間で噂になってた。――教義に基づく婚姻を蔑ろにする男だと」

「気楽なものですね。こちらは仕事詰めだったというのに」

 短かな会話の末に白い歯を見せる新婦。不意にその視線が上向きになる。

 程なくして地上階にエレベータが到着すると、百瀬は開のボタンを押して妻を先に通した。女優帽を目深に被った中東美女は外の階段を降りてすぐ手を掲げ、タクシーを呼び止める。――すらりと伸びたシルエットに雅やかな立ち振る舞いも相まって、映画女優のオフショットに立ち会ったかのような感覚を百瀬は覚えたものである。

「ミレニモ通り5番地まで」

 そうして乗り込んだ古い型のタクシーには煙草の匂いが染み付いていた。ラジオから流れるカンツォーネに合わせて、窓の枠に転がった虫の死骸がふるふると踊っている。

 ――小汚い車内で淑女は帽子を脱いで腰元に置いていた。純白のオペラグローブをつけた両手はぴたりと合わせて腿の上に置かれており、夫でさえ手の触れる余地を残していない。百瀬は肺の奥から深く息を吐き、彼女の視線を追って車窓の景色へと視線を置く。

 北の裾へ降りていくにつれ、次第に街の景観はくすんでいった。下品な落書きが多くなり、崩れた煉瓦とゴミが道路に散乱する貧民街へとタクシーは突っ込んでいく。

「やはり北の方は随分な雰囲気ですね」

「そうだな。俺はここらで育ったから、こっちの方が慣れてるが」

「秘密結社に――、メゾン・ド・カルネに入る前の話ですか?」

「そうだ。貧民街で仕立て屋をやっていてな。親父はその時の客だった」

 百瀬が顎に手を当てる傍ら、彼女は運転席を小さく叩いて車を停めさせた。夫婦はチップを含めた運賃を運転手へ手渡し、タクシーを降りて露店の並ぶ広場へと向かう。

 人通りはそれなり。どうも奥に見える教会らしき建物の敷地のようだ。石畳の円形広場へ怪しげな商人がテントを貼ってひしめきあっている。

 ――物騒な空気の漂う闇市場において、夫の手を引く淑女の足取りは軽かった。

 ふたつの集合ビルに挟まれた裏路地で足を止め、彼女は夫の顔を覗き上げる。ちらとその琥珀色の視線を覗き返し、それから百瀬は人っ気の少ない暗がりへ視線をやった。

「ここだ」

 日中も日陰になっているらしく、じめじめして通路の隅が苔むしているような一角だ。気温も表より1、2度低く感じられる。とうてい飲食店など構えられている雰囲気ではなかったが、淑女が錆だらけのドアノブを引いたら確かにバーらしき風景がそこにあった。

「おお、クリスか。隣にいるのは旦那か?」

「ああ。仕事ばっかりしてるんで、連れてくるのが遅れちまった」

 暗くて暖かな店内――。スピーカーの音の通りの良さから、中が混んでいないことはすぐ分かった。それでか屈強な体つきのマスターも余裕があったのだろう、酒瓶や食器でごちゃついた棚から背後を振り返って、淑女の隣に立つひょろりとした男を覗く。

「旦那、痩せてるな。今にも倒れそうだ。ちゃんと飯、食ってるか?」

「ありがとうございます。ここで腹一杯にして帰ることにします」

 作り笑いとともに疲れ顔を伏せ、百瀬はぎゅっと眉間をつまんだ。

 そんな彼を流し目で見つめていたクリスはマスターにピザをお任せで何枚か焼いてくれと頼むと、ビールの小瓶を2本受け取って薄暗いカウンターの奥へ百瀬を案内する。

 カウンターにはボロの木椅子もあることにはあったが、客は皆まばらに散らばって立ち飲みしていた。いずれも錬金術師や商人の格好。決して目は合わせようとしない。

 彼女は瓶ビールをふたりの間に置いて壁際のカウンターテーブルに寄り掛かった。そこらに転がっていた栓抜きを拾い上げ、手袋をつけたまましゅぽりと栓を開ける。

 帽子を脱いでテーブルに置く百瀬へ瓶を手渡す際、彼女は薄く微笑んでいた。ランプに照らされて闇中に仄見えたのは、喉に魚の小骨でも刺さったかのような表情――。

「乾杯」

 瓶の肩をコツリと当てて、正装の夫婦は温いビールを口に流し込む。

「ここのところ、ずっとあの狭っ苦しい部屋にいたのか」

「まぁ、ほとんどは。でもついさっき散歩に行っていました。近くの植物園へ」

「植物園? ああ、あの何もないところか」

「変わった植物ばかりでしたが、気晴らしにはなりました」

 ビール瓶をカウンターに置くと、一足遅れて彼女も思い出したように女優帽を取った。

「就任早々、大変だったな。にはつくづく苦労させられる」

「いいえ。親父には感謝していますよ。拾ってもらった恩は忘れていません」

 親父――。その言葉に彼女は紅潮した頬をぴくりと動かし、琥珀色の瞳を夫に向ける。

「お前も奴を親父と呼ぶのか。犯罪者のことなど毛嫌いしていると思っていた」

 ガスランプの下で百瀬は淡く口角を上げたのち、ビールの酒気を咳払いで転がした。

「彼はただの犯罪者ではありませんから」

「どういう意味だ?」

 訝しげな視線を受け、すらりとした手が懐から小封筒を取り出す。その中から引っ張り出されてテーブルに並べられたのは、写真や手書きのメモの数々。淑女が視界の悪い手元に目を凝らしてみれば――、ある写真には監禁の痕跡が窺い知れる牢屋が映っていた。

「親父が残した捜査資料です」

「捜査資料?」

「ええ。例の犯罪者を親父が尋問した際の――、記録の全て」

 クリスティーヌは写真を一枚めくり上げ、灯りに照らして目を細める。――ガスランプの温かい光は、同時に彼女の呆れたような顔を闇の中へ彫り出した。

「奴は娘の仇をただ嬲り殺しただけだろう?」

「いいえ。彼はひとりで捜査を続けていたんです。秘密結社でそれができなかったから」

「それが犯罪だというんだ。奴はただ違法な尋問をしただけだ」

 そう言って淑女は写真をテーブルに戻す。彼女が手にしていた写真には、引いたアングルで銀髪の女性が映り込んでいた。――頭にユニコーンのような角を持つ白人の娘だ。

「で、尋問の結果は?」

「秘密結社の監視網を把握していたことを死ぬ直前にゲロったようです。ゴーレムに闇取引を命じた錬金術師は秘密結社の関係者である可能性が高い」

 夫の言葉にぴくりと眉を震わせ、淑女は味のない表情で瓶を大きく傾ける。ジャズの重低音とともにその足元を大きな虫が駆け抜けたが、彼女はてんで気がつかなかった。

「馬鹿馬鹿しい……」

「親父から何も聞いていなかったのですか?」

「何も知らなかったね。言っただろ、親父とまともに喋ってないって」

 革靴の爪先で腐った木床を軽く叩きながら、彼女は口元に山谷を作ってみせる。百瀬は彼女の細長い指がそわそわと何度も帽子に触れるのを見た。

「――犯人のことは何も聞き出せなかったのか」

「残念ながら。ただし親父は死体からもうひとつ興味深い情報を引き出していた」

「ゲノム解析か」

「ええ。それでゴーレムが数百年前の人物から作られていることを突き止めたのです」

 呆れ顔で話をやり過ごそうとしていた淑女の表情がそのまま凍りつく。

「……何? なんだって?」

「どうやらあのゴーレムは数百年前に生きていた人間から造られたらしい」

「数百年前……」

「正確には380年前に失踪した人物です。名前はフランソワ・K・カノッサ。生前は西欧の大学で植物を研究していた学者でした」

「当時のゴーレムが現代まで残っていると? そんなことがあり得るのか?」

「貴方の方が詳しいのでは? ゴーレムは壊されぬ限り永遠の命を持つのでしょう?」

 淑女はビール瓶をボロテーブルに置きながら「信じられん」と吐き捨てた。

「親父はモンターニャ・デラーゴに在住する彼女の子孫の協力を得て、彼らが代々受け継いできた書庫を調べたそうです。そして彼女が当時ゴーレムにされた経緯を調べた」

「……」

「彼女は人魚と呼ばれる修道女たちと会うために、家族を連れて南欧のこの土地まで移り住んできたそうです。そしてあるとき突然、夫や子供を残して行方不明となった」

「古代の修道女が人間でゴーレムを作っていたと言いたいのか」

「そう。そしてそのゴーレムが現代まで生き延びて犯罪行為に使われている――。人間をゴーレムにするという不可解な裏取引の意味も、この謎と絡んでいるのかもしれません」

 虚ろな目の淑女を尻目に麦酒の瓶を揺らす若紳士。

「もともと親父は日本で起きた裏取引が単純な犯罪ではないと睨んでいました。より深い犯罪の根を洗い出すために、きっと今も世界のどこかで調べを進めていることでしょう」

「……」

「娘の命が奪われた事件の真相を探ろうと彼は躍起になっていたんです。ひとりの親として――、また世界の監視者として。だから私は彼を親父と呼ぶのです」

 人差し指で上頬を掻いて、新婦はしばし黙り込んだ。その傍らで若紳士は前傾していた上体を起こし、暇そうにしたマスターがピザ窯の様子を窺っている様子をそっと盗み見る。

「お前……奴と何か話したな?」

「……ええ」

 彼の言葉は雑然としたダイニングバーの騒音にたちまちかき消された。

 薄暗いガスランプのもと、夫婦はふたりとも破れた壁紙についたワインの染みを眺め続ける。彼らは小声で話していたから、彼らに漂う不穏な空気に気付く者もいなかった。

「やっぱり幹部の席を志願したのは訳ありだったか」

「……騙していてすみません。これは潜入任務なのです」

「演技で幹部の仕事が務まるんだったら、もうお前が幹部でいいだろ」

「いえ。実は……この2週間、幹部としての仕事は全くしていませんでした」

「なんだと?」

「支部にいるのは親父の息が掛かった人間ばかり。命令がなくとも問題なく動けるように、あらゆる準備が進められていました。私はただ円卓で涼しい顔をして座っているだけです」

「……つくづく馬鹿にしていやがる」

 くぐもった声で罵りながらも、彼女は視界の端で新郎の仕草を窺っていたようだ。ランプの暖かな明かりを振り払うように頭を振ったのち、俯きがちに彼の手元を覗く。

「任務の内容は?」

「結社に潜む錬金術師の犯罪者を始末すること」

「……親父も無茶を言う。幹部のポストだけ与えて、あとは会社を洗えと?」

「文句は言えません。あちらは地位まで捨てて裏社会へ潜り込んでいるのですから」

たちだ」

 ジャズのリズムが跋扈ばっこするなかでも彼に聞こえるよう、不快げに喉を鳴らす淑女。

「――そう簡単な話じゃないぞ。勝手な行動は円卓が許さないだろう」

「承知しています。あの会議体は頭数多数決ですから。裏切り者が混じっているとなれば、都合の悪い議案は潰されるのがオチでしょう。それで親父も苦労をしていた」

「じゃあどうするっていうんだよ」

「聞きますか?」

 クリスティーヌは瞳を伏せ、行き場のなくなった手を女優帽に漂着させた。

「……いいや。この話は何も聞かなかったことにしておく」

「私たちが目を背ければ、ひとりで動き出している親父は野垂れ死です」

「犯罪者にはお似合いの末路だ」

 彼女は横暴な声色を作って目を逸らし、ピザ窯の方を振り返る。

「いい匂いがする。もうすぐ出来上がるぞ」

「クリス」

 幼い西洋婦人は何も答えなかった。浅く呼吸を重ねたのち、天井の染みを見つめながらビール瓶に口をつける。――だがしかし生真面目な男はあきらめなかった。

「私は必ずこの一件を解決してみせる。嫌なら貴方も円卓から降りてもらいます」

 彼がそう口にした途端、淑女の態度が翻る。

 飲んでいた瓶を机に叩き置いたのだ。鋭い音に客たちはびくりと肩を揺らし、お祝いのケーキを準備していたマスターも手を止める。――皆、けしてこちらに視線を向けてこようとはしなかった。沈黙のバーではジャズミュージックだけが不気味に鳴り響いている。

「いい加減にしろ。結婚をパーにするつもりか」

 百瀬を睨む琥珀色の瞳は暗がりの中で殺気を放っていた。――同僚の体育教師に殴られた光景が元教師の脳裏によぎる。夫婦は互いに空気混じりの唾をごくりと飲み込んだ。

「何故こんなことを俺に話した? 協力しろと言うのか? 結婚生活を保留にして?」

 彼女の鋭い視線から目を逸らし、よれたワイシャツの襟を引っ張る百瀬。

「やるしかありません。親父は私たちを信頼して会社のことを任せたんです」

「俺たちじゃない。お前だけだ」

 言葉を返す代わりに彼は机を手で弄り、机上の写真を一枚めくりとった。

 ピンボケの写真には彼の教え子が写っている。学校の門前に貼り出された入学式の看板前に、正装をした親父と制服姿の娘が並んでいる。――若紳士は目を伏せた。

「彼を信じることのできる家族は、もう私たちしか残っていません」

 心が冷めて微温湯のような態度になった淑女は、眉を顰めて薄茶色の唇を引き絞り、薄暗いカウンターで静かに目を瞑った。百瀬は固唾を飲んでその様子を見つめている。

「親父にはこんな仕事から足を洗えとすら言われていたんだぞ」

 ぶつぶつと独り言を並べたのち、彼女はほっそりした肩をぎゅっと縮こめた。

「俺の協力が欲しいなら、約束しろ。決着がついたら婚姻を認知することを」

「クリス。私は結婚を認めています。別に嫌なわけではないのです」

「とてもそうは見えない」

 彼は首を絞められたような表情をして前髪をかきあげる。霊薬の染みた髪がガスランプの鈍い光を受けて暖かな虹色に輝いた。

「正直……あの事件のことで頭が一杯なんです。今は」

「では教え子たちの死が報われれば、お前も過去を清算できるわけだ」

 淑女は奥歯を噛み締める。――その瞳には鋭い光があった。

「……協力はしてやる。だが見返りにお前は結婚を実なるものとすることを約束しろ。約束しなけりゃこんな馬鹿げたことに俺の命は差し出さない」

 しばらく間を置き、小さく頷く若紳士を見て彼女は深呼吸する。――なんとか踏ん切りをつけたらしい。観念したような顔つきをした淑女は手袋を脱いで、百瀬にそっと握手の手を差し出してくるに至る。彼女が引っ込めないうちに百瀬はその手を取った。

「約束します。逃げはしません」

「ああ、そうだ。お前に逃げる場所なんてもうどこにもない」

 喉奥でため息を籠らせる異国の男に、秘密宗教の花嫁は薄ら笑いを浮かべる。

「ようこそ。これから血まみれになる錬金術師の世界へ」

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