第2話『イパネマの誘惑』

 南米経済会議が開かれるのは、イパネマ地区にある近代的なコンファレンスセンターだった。


 凛子は会場に向かうタクシーの中で、母から届いていたメッセージを開いた。


「そろそろ結婚のことも考えたら?」


 いつもの心配だ。29歳。日本では確かにその年齢は、女性にとって一つの分岐点かもしれない。でも――。


 凛子は窓の外に流れるリオの街並みを見つめながら、自分の選択を静かに確認していた。結婚も出産も、確かに大切な選択肢だ。しかし、今の彼女には別の使命がある。


 タクシーが会場に到着する。鏡で最後に身だしなみを確認する凛子の目は、凛然としていた。ネイビーのパンツスーツに、薄いブルーのシルクシャツ。控えめでありながら、女性としての品格を失わない装い。それは彼女の外交官としての矜持の表れでもあった。


「朝霧さん、こちらです」


 美咲に導かれて会場に入ると、まず目に入ったのは、鮮やかな赤いチャイナドレスに身を包んだ女性の姿だった。


 李麗だ。写真で見た通りの凛とした美しさを持つ女性は、周囲の男性外交官たちと流暢な英語とポルトガル語を使い分けながら会話を交わしていた。その姿には、女性であることを武器として使いこなす洗練された外交官の風格があった。


「あら、日本からいらした方?」


 李麗は凛子に気づくと、にこやかに近づいてきた。その笑顔には、どこか計算された温かみがあった。しかし、それは決して非難されるべきものではない。外交の場で、女性であることは時として不利に働く。それを逆手に取る技術もまた、必要な武器なのだ。


「朝霧凛子です。お目にかかれて光栄です」


 凛子が丁寧に挨拶すると、李麗は親しげに肩に手を置いてきた。


「私も若い同僚に会えて嬉しいわ。この会議、堅苦しい年配の男性ばかりでしょう?」


 その仕草には、まるで長年の友人のような親密さがあった。しかし、凛子は李麗の瞳の奥に、鋭い観察の光を見逃さなかった。それは同じ女性として、相手の本質を見抜こうとする眼差しでもあった。


「そうですね。でも、経験豊富な方々から学べることも多いはずです」


 凛子は柔らかく返しながら、自然に李麗の手を避けた。彼女なりの境界線の引き方だ。外交官として、女性として、自分の芯は曲げない。


「あら、警戒されてしまったかしら」


 李麗は小さく笑った。その笑みには、どこか猫のような妖艶さがあった。しかし、それは単なる誘惑ではない。相手の反応を試すための、慎重な探り合いの一部なのだ。


 会議が始まり、各国の代表が次々と演壇に立った。男性が大半を占める中、女性代表の発言には異なる重みがあった。それは単なるジェンダーバランスの問題ではない。多様な視点、特に女性の視点が、いかに国際関係に新しい可能性をもたらすかを示す機会でもあった。


 凛子は静かにメモを取りながら、各国の代表の表情を観察していた。特に印象的だったのは、インド代表のプリヤ・シャルマ。30代半ばの知的な雰囲気を持つ女性は、終始穏やかな表情を保っていたが、その発言の端々には鋭い指摘が含まれていた。そこには、男性中心の外交界で自分の道を切り開いてきた自信と、同時に常に完璧を求められる重圧が垣間見えた。


「休憩時間ですね」


 2時間ほどが経過し、小休止が告げられた。凛子が席を立とうとすると、李麗が近づいてきた。


「お茶でもご一緒しませんか?」


 断る理由は見当たらない。凛子は小さく頷いた。


 会場に併設されたカフェテリアで、二人は向かい合って座った。李麗は紅茶を、凛子はブラジルコーヒーを注文する。二人の選択の違いが、それぞれの個性を表しているようでもあった。


「実は、朝霧さんのことは存じ上げていましたのよ」


 李麗は優雅にカップを持ちながら切り出した。


「私のことを?」


「ええ。最年少での公使昇進。しかも女性で。中国でも話題になりました」


 その言葉には、明らかな探り入れの意図が感じられた。しかし、それは単なる情報収集以上の意味を持っていた。同じ立場の女性として、どのようにしてその地位を勝ち取ったのか、興味があるのだろう。


「李麗さんも、相当若くして重要なポストに就かれていますよね」


「ふふ、そうですね。でも私の場合は……少し事情が違うかもしれません」


 李麗は意味ありげな笑みを浮かべた。その言葉の裏には、中国における女性官僚としての複雑な立場が垣間見えた。


 李麗は紅茶に口をつけ、カップを優雅に置いた。その仕草には、長年の修練が感じられた。


「私の場合は……」


 彼女は言葉を選ぶように間を置いた。その表情には、これまでの完璧な外交官の仮面とは異なる、何か個人的な色合いが浮かんでいた。


「中国の女性官僚というのは、ある意味で特別な存在なんです」


 李麗の声は少し低くなった。周囲に誰もいないことを確認してから、彼女は続けた。


「表向きは、男女平等が進んでいる中国。でも実際は??」


 彼女は軽く首を傾げた。その仕草には、システムへの微妙な抵抗が込められていた。


「昇進は早かったわ。でも、それは私が有能だからというより……」


 李麗は意味ありげな笑みを浮かべた。その笑みには、皮肉と達観が混ざっていた。


「若くて、独身で、見た目も悪くなくて、そして何より??扱いやすそうに見えたから」


 凛子は相手の言葉の重みを感じ取った。李麗の美しい横顔には、一瞬の苦みが走った。


「でも、私はその期待を裏切り続けてきた。扱いやすい駒ではないことを、一つ一つの決定で示してきた」


 彼女の瞳が鋭く光った。


「だから今では、私のことを『毒蛇』と呼ぶ人もいるみたい」


 李麗は小さく笑った。その笑いには、自嘲と誇りが同居していた。


「女性官僚として出世するには、相応の代償を払わなければならない。あなたにも、その経験があるでしょう?」


 凛子は黙って相手の言葉を受け止めた。確かに、日本でも似たような状況はある。しかし、李麗の場合は更に複雑だ。社会主義国家における建前と本音、伝統的な価値観と近代化の狭間で、彼女は自分の道を切り開いてきたのだ。


「でも」


 李麗は姿勢を正した。その表情は再び、完璧な外交官の仮面に戻っていた。


「それも、私たちの世代が変えていけることかもしれない」


 その言葉には、確かな希望と決意が込められていた。しかし同時に、そこには長い闘いを覚悟する者の冷徹さも感じられた。


「私たちは、似ているようで違う。そう思いませんか?」


「どういう意味でしょうか?」


「見た目は、私たちはどちらも洗練された『モダンな東アジアの女性』を演じています。でも、その中身は……」


 李麗は言葉を濁した。その瞳には、どこか挑発的な光が宿っていた。しかし、それは単なる対立を煽るものではない。同じ境遇にある者として、互いの本音を引き出そうとする試みでもあった。


「私は自分の役割を果たしているだけです」


 凛子は冷静に返した。それは逃げの言葉ではない。むしろ、女性として、外交官として、自分の信念を貫く意思の表明だった。


「ええ、その通りです。でも、その『役割』が何なのか……それが問題ですよね」


 李麗の言葉には、明らかな重みがあった。女性であることは時として制約となり、時として武器となる。しかし、本当の課題は、その先にある。自分たちは何を成し遂げようとしているのか。単に男性社会に適応するだけでなく、どのような変化をもたらすことができるのか。


 休憩時間が終わりに近づき、二人は会場に戻る。その途中、李麗が突然立ち止まった。


「今夜、イパネマビーチの近くのレストランで、非公式な夕食会があるんです。朝霧さんもいらっしゃいませんか?」


 凛子は一瞬躊躇したが、これも仕事の一部だと判断して頷いた。しかし、それは単なる社交辞令への応答ではない。女性外交官同士の複雑な駆け引きの中に、新しい可能性を見出す機会かもしれないという判断でもあった。


「ありがとうございます。お伺いさせていただきます」


「楽しみにしていますわ」


 李麗の笑顔の下に、何か企みが隠されているような気がした。しかし、それこそが外交の現場なのだと、凛子は自分に言い聞かせた。同時に、女性であることの複雑さと可能性を、改めて実感していた。


 午後の会議も、朝と同じような調子で進む。しかし、凛子の心の中では、今夜の夕食会への警戒感が少しずつ大きくなっていった。それは単なる外交的な緊張感だけでなく、女性として、キャリアを重ねる者として、何を選択すべきかという問いでもあった。


 会議場の窓から差し込む夕陽が、女性外交官たちの姿を優しく照らしていた。それは新しい時代の幕開けを予感させるような、象徴的な光景だった。

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