【女性外交官短編小説】世界を変える女性たち - Fourth Diplomacy -(約2万字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話『リオの朝焼け』

 朝霧凛子は、リオデジャネイロの空港に降り立った瞬間、異様な熱気に包まれた。7月とはいえ南半球の冬。それでも東京を出発した時とは比べものにならない暑さだった。スーツの襟元が少しだけ重たく感じる。


「お気をつけて、朝霧さん」


 見送りに来てくれた先輩外交官の言葉が、まだ耳の中で響いている。


「あなたの任務は観察です。余計な行動は慎んでください」


 それは警告というより、まるで呪いのように聞こえた。その言葉の裏には、若い女性外交官への根深い不信感が潜んでいることを、凛子は痛いほど感じ取っていた。


 凛子は深いため息をつきながら、スーツケースを引いて到着ロビーに向かった。29歳。外務省で最年少の女性公使として、ブラジルに派遣されることになった彼女の心は、期待と不安で揺れていた。


 その期待と不安は、単なる仕事への思いだけではない。女性として、人生の岐路に立っているという自覚もあった。同期の女性たちの多くは、すでに結婚し、中には出産を経験している者もいる。毎年増える同窓会の案内状には、必ず出席者の近況が記されていた。


 凛子は違う道を選んだ。外交官という仕事に全てを賭けた。それは、単なるキャリアの選択以上の意味を持っていた。女性が、自分の意思で人生を切り開いていくための挑戦でもあった。


「朝霧さん! こちらです!」


 ロビーで待っていたのは、現地大使館の秘書官・榊原美咲だった。凛子より2つ年上だが、キャリアは逆に2年後輩になる。美咲の笑顔には、同じ女性外交官としての連帯感が滲んでいた。


「お疲れ様です。フライトはいかがでしたか?」


「ありがとうございます。長かったですね……」


 凛子は微笑みを返しながら、内心で苦笑した。美咲の話し方には、やけに英語が混ざる。現地に長く住んでいる日本人によく見られる症候だ。それでも、その話し方の中に、美咲なりの国際性への憧れを感じ取ることができた。


「車を用意してありますので、まずはホテルまでご案内します」


 美咲は手際よく凛子のスーツケースを受け取ると、外に停めてある黒塗りの車へと導いた。その仕草には、長年の経験で培われた優雅さがあった。


 車窓から見えるリオの街並みは、凛子の想像以上に近代的だった。高層ビルが建ち並び、道路を埋め尽くす車の列。一見すると東京やニューヨークと変わらない。


 しかし、その合間に見える古い建物や、道端で踊るように歩く人々の姿。そこには確かに、南米特有の空気が漂っていた。その自由な雰囲気は、凛子の心の中の何かを揺さぶった。


「……気になることがありまして」


 美咲が運転しながら、少し言いにくそうに切り出した。その声には、女性官僚特有の慎重さが混じっていた。


「はい?」


「明日から始まる南米経済会議のことです。中国とインドの代表も来ることになったんです」


 凛子は眉をひそめた。当初の予定では、南米諸国だけの経済会議のはずだった。この展開は、彼女のキャリアにとって重要な転機になるかもしれない。


「急な話なんです。でも、これは偶然じゃないと思います」


 美咲の声には、明らかな警戒感が滲んでいた。


「分かりました。様子を見てみましょう」


 凛子は淡々と返事をしたが、内心では複雑な思いが渦巻いていた。中国とインド。アジアの新興大国が、なぜこのタイミングで南米に進出してくるのか。そして、なぜ自分がこのタイミングで派遣されることになったのか。


 車は高級ホテル街に入っていった。凛子が滞在するコパカバーナパレスホテルは、真っ白な外壁が特徴的な老舗の高級ホテルだ。その威容は、外交官としての責任の重さを改めて実感させた。


「明日の会議は10時からです。その前に、大使とブリーフィングの時間を設けてあります」


 美咲から予定を告げられ、凛子は静かに頷いた。


 部屋に案内された後、凛子はベッドに腰を下ろして深いため息をついた。窓の外には、コパカバーナビーチが広がっている。白い砂浜と青い海。まるで絵葉書のような風景だった。


 その美しい光景を前に、凛子は自分の選択について考えを巡らせた。外交官という道を選び、そのために多くのものを後回しにしてきた。それは時として、周囲の理解を得られない選択でもあった。


「ここから、何が見えるのかしら……」


 呟きながら、凛子は持参したタブレットを開いた。画面には、明日の会議に参加する各国代表のプロフィールが並んでいる。


 中でも目を引いたのは、中国代表の李麗(リー・ユエ)だった。31歳。凛子と同じく、異例の若さでの抜擢という。その写真からは、凛寒な美しさを持つ女性の姿が浮かび上がっていた。彼女もまた、自分と同じような道を歩んでいるのだろうか。


「明日が、どんな日になるのかしら」


 凛子は静かに立ち上がると、スーツケースを開けて明日着る服を選び始めた。ネイビーのパンツスーツに、薄いブルーのシルクシャツ。控えめながら、品格は忘れない。それが、彼女のポリシーだった。


 女性外交官として、服装一つとっても気を配らなければならない。派手すぎず、かといって存在感を消すわけにもいかない。その微妙なバランスを取ることも、仕事の一部なのだ。


 夜が更けていく。窓の外では、サンバの遠い音が響いていた。その自由な律動は、凛子の心の中の何かを揺さぶった。ここリオで、彼女は外交官として、そして一人の女性として、新しい一歩を踏み出そうとしていた。

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