第四章 忌み火占い➁

 他の宮殿から隔離された御殿にさえ、緊迫した気配というのは伝わってくるものである。


 祝人殿から貴族臣下が祝皇殿の殿舎へと集まってくるのを、アソカは人目に付かぬよう気を配りつつ蔭から見守っていた。心なしか城の灯りが多いのもそのせいだ。


 積年の経験からして、軍部の者が多数を占めていたので、きっと高官となった父親はいないだろう。


 遠ざけられているアソカには、当然のごとく何も知らされない。善神の役目しか、求められていないから。


 アソカは興味を失い、踵を返して祝人殿の内裏へと向かう。しかし、少し歩いた先で脚を止めた。


(衛兵が少ない……?)


 いつも配置されているはずの場所に兵がいないのだ。ひょっとして、会議に人員が割かれているのだろうか。立ち並ぶ舎殿が重暗く鎮座しているだけで、人の息づかいは皆無なのが異様さを物語っていた。


 そう考えたところで、ぴりついた空気が背中をなで上げて、アソカは勘で地蹈鞴を踏んだ。


 アソカのいた石畳を硬質な何かが砕き抜いて、ひゅっと息を呑んだ。


 ゆらりと黒い外套を纏った人が、その隙間からアソカを射貫く。この時初めて、殺気という感覚がどういうものなのか、直感した。


 ゆっくりと振り下ろされる武器を前に、目を瞑ってしまう。それ以上に、身体が動かなかった。


 ぎぃんと金属の擦れる音がして、アソカは躊躇いがちに目を開いた。果たして眼前で直刀を受けている男の正体を見て、一瞬思考が止まった。


「オノファトさま⁉」


 名を呼ばれた張本人は返事をせず、刃を弾き返し、数度打ち合う。襲う連撃をすべて凌ぎきり、太刀筋が乱れた隙に懐に入り込んで心ノ臓を貫く。皇子の顔や衣に大量の血飛沫が降り注いだ。


 直刀を振って軽く血を振り払ってから鞘におさめる。


(こんなところにまで刺客が入り込んでいるとはな……)


 宮廷に刺客を送り込んだ人物を想像し、オノファトは深い息を吐いた。御前会議最中に祝人を狙うその大胆さに感服する。


 振頭の泊で副皇の独断で行われた祝皇派粛正の騒動が御前会議を開催するきっかけとなった。御前会議は祝皇と副皇をはじめ、甲五位より上位の高官が出席し、当然皇子も参加するはずだったのだが、自分含め副皇および榮卜官不在で行われている。


 実は御前会議前に副皇は貴族臣下たちから集めさせた意見書を祝皇に提出している。この騒動は罪人を擁護する者たちの粛正であり、処罰の対象にはならないと内申していた。祝皇は絶対権力者であるが、責任感があるゆえに、人の意志を尊重し無断で人を罰しない。オノファトの予想通り、副皇及びその私兵長は厳罰を免れた。


 国を混乱させるのは本意ではないとして穏便に済ますのと、野放しにするのは違う。新たな反乱の種を自ら撒く祝皇に疑念を抱いていたところに、此度の御前会議だった。


 副皇は無許可で各地に軍部を設置し、イルㇽ人を完全なる隷従民族とする動きを活発化させている。しまいには、副皇派の臣下に引きずられて挙兵までした。表向きは副皇率いる祝皇派による祝皇ファノイの打倒。だが、副皇の目的はファノイに代わって祝皇に即位することだ。


 副皇の挙兵が露見したのは、副皇派高官の密告があったからだと言う。


 祝皇は戦争の長期化を避けることと、善神派根絶に向けて禁軍を動かす御前会議を決定した。燻り続ける神璽国の治安の改善と、副皇の皇位剥奪を掲げて。だが、地中深くまで根付いてしまった雑草を根こそぎ抜くための空白の期間に、オノファトは異議を唱えたかった。その反面、神璽国の個人よりもより多くの民を優先した結果であるのも承知だった。こういう決断を迫れる点において、オノファトの思想は祝皇になるのには不向きだった。


 高官からの密告には、善神の殺害も含まれていた。オノファトは祝皇からの命で、祝人へ放たれた刺客を潰す任を背負っていた。


「お召し物に血が……」


 アソカが青い顔をして呟くも、鋭い悪寒が走り抜けてオノファトは無言で再び直刀を鞘から抜き放つ。


「まったく勘弁してくれよ」


 オノファトは苦言を呟いて敵と対峙した。随身のナイニャルはジュネク脱獄に向かっていていないため、彼抜きでアソカの護衛を遂行させられていた。信頼の置ける臣下はいるが、今回ばかりは随身の彼だけを伴って行うつもりだった。


 刺客全員と渡り終えたときには、オノファトも無傷とはいかなかった。


(傷は、そこまで深くはないか)


 オノファトは唾を嚥下し、乱れた呼吸を鎮める。そしてようやくアソカに向き直る。口を開きかけたとろこで、先に彼女のほうが声を発した。


「こちらへ」


 アソカはオノファトを大内裏へと案内した。


「傷を診せてください」


「たいした傷ではない。アソカ殿の気遣いは無用だ」


 オノファトが素っ気なく返すと、彼女の眉間の皺が深くなった。


「わたくしが嫌なのでございます。恩着せがましく助けてやったという雰囲気を醸し出している方に、借りは作りたくありません」


 オノファトは呆気にとられてから吹き出した。


「なぜそこで笑うのです」


「いや失礼。案外きつい性格しているな、と——待て待て、勝手に脱がしにかかるな。女は淑やかなのが気受けするぞ」


 むくれて半臂に手を掛けようとする手から逃れて、言われたとおり傷を晒す。


「かすっただけだ」


「傷を馬鹿にしていたら、痛い目見ますよ」


 アソカは腕の傷口に手を当てる。すると、青い炎が傷口から噴き出て来て、オノファトは思わず仰け反る。炎が収まると、傷は綺麗さっぱり消えていた。


「————なにが起こっているのか、教えていただけますか」


 オノファトが感心して腕を見詰めていると、不意に静かな問いを投げられた。真摯な瞳がこちらを見ている。


「人質としての価値がなくなったから、あなたを殺そうとする刺客があらわれた」


「人質としての価値?」


 アソカは鸚鵡返しに訊ねる。


「あなたの妹を戦士として祝皇政権に逆襲するために、副皇はあなたを望んだ。アソカ殿やその家族の生死を餌に、悪神に暴力的な神威を行使するようラムラに強制する。だが、彼女が死に、悪神の魂は再び人世を彷徨い、依り代を捜している。副皇の計画が頓挫した今、祝皇の武器になるあなたは邪魔な存在だ」


「いいえ、妹は生きています」


 アソカはかぶりを振って否定した。


「妹とわたくしは共鳴し合っています。ラムラが生きていると私は断言します。善神と悪神はそういう関係なのです」


 アソカはわざと虫唾が走る、善神悪神という表現を用いた。


「そうか……あの娘は生きている、そうか……」


 オノファトは安堵に眉を弓なりにした。そして宮廷榮卜官長が悪神の魂を迎えに行くと祝皇に言い残して、姿を消したわけを確信する。


 あの男はどこまでも不可解で、唐突に姿を消したと思えば、ぶらりと宮廷に戻ってくる。そんな面の皮が厚い男だ。祝皇も迂闊に逆らえる相手ではないからか、放念しているきらいがある。しかし、今ならば彼の行動が僅かばかり理解できた。


「オノファトさまは、妹の無事を願ってくれるのですね」


 悪神はとことん嫌われ者だ。だが、この皇子は他の皇族たちが向ける驕慢な風格がなかった。


「みくびられたものだな」


 オノファトは卑下の笑みで吐き捨てる。


「犠牲ばかりで成り立つ奇跡の神の国など、私たちは持つべきではない。そんな国の頂点に我が物顔で君臨する我ら皇族など、血塗られた人の上に立つ咎人だ。そもそも今この地に生きるすべての人間が、神世の虚伝を盲信し、うつつに腰掛ける頑愚者だ。私は掛け値を捨て、あの娘と渡り合う。……だから、あの娘の無事に胸のつかえが下りたのだ」


 アソカはほっと胸をなで下ろした。妹を妹として見てくれる人間が多少なりともいるという事実だけで、こんなにも満たされる。


「オノファトさまは皇族らしからぬお方ですね」


「立場があやふやだからだろう。皇族にしては混ざり血で、祝皇の息子だから誰よりも祝皇学への薫陶を受けている。……秘密がそうさせるのだ」


 オノファトが言い終えると、遠くから複数の足音が聞こえてきた。真っ直ぐにこちらへと向かってくる。二人はさっと身を硬くしたが、襖を開けた人物に警戒を解いた。


「オノファトさま、ご無事でなによりです」


「ご苦労だったな、ナイニャル。ジュネクを連れ出してくれて感謝する」


 ここで、オノファトは言葉を区切った。彼らの後ろには意外な人物が控えていたから。


「……ムレイ祝皇妃? なぜここに?」


「このお妃さまはぼくを助けに来たらしい。案外図太いお方だよ」


 ジュネクは代わりに飄々とこたえた。


「オノファト、この者はカリルゼッナの息子なのですよ」


「いや、まぁ……」


 知っているが、という返答を直前で呑み込む。兄弟の奇跡の再会だと言わんばかりに、意気揚々と主張してくるムレイに対し、オノファトは気まずくなった。


「それより急ぎましょう。内裏への道すがら副皇の放った刺客を五人斬り伏せましたが、これ以上に潜んでいるはずです。アソカさまは生きています、もうこの内裏に追手が忍んでいてもおかしくはない」


 ナイニャルは辺りを見回し、警戒心を強めた。


「悠長にしている場合ではないな。——ジュネク、ラムラは生きている。アソカ殿が保証する。この意味がわかるな」


 ジュネクは頷いた。やはり彼女は悪運が強い。信じて正解だった。


「一刻もはやくトラーシィたちにところへ行くよ」


 ラムラを失ったことで祝皇は集落に目を付けた。弾圧は悪神の代役となる戦士を求めるがゆえの変遷のひとつであり、ラムラの生死を分ける行為に及んだのはジュネクだ。目論見通りラムラが助かったのなら、今度は後先考えず衝動的に行ったジュネク自身が、最悪な方向へと方向転換した咎は負わなければならない。


 安全圏で卑怯にも高みの見物をするつもりはない。守りたいものを守るために、ジュネクは覚悟を決めた。


「言っておくが、間違ってもおまえのせいばかりではないからな。結果的に、副皇の行動が予定よりはやまっただけのことだ」


 ジュネクは神妙に首肯した。


「私も日和っている場合ではないな」


 そんなジュネクを見て、オノファトも覚悟を決める。


「アソカ殿に頼みがある」


 そう言ってオノファトは腰巾着から小さな苗木を取り出して、アソカの眼前に掲げた。


「権現樹の苗木をそなたに託す。そなたの神威なら、この樹木を育てられる。これはサウエ御前たっての願いだ。イルㇽ人の民を救う神の雫で使命から解放したいと願う御前のために、私の代りに集落まで届けてくれ」


「わたくしが……?」


「そうだ。私はそなたを解放する。ラムラを受け入れたあの集落ならば、アソカ殿は人として自由になれる。何を望んたっていい。この城で絶望せずに済む」


 ラムラを受け入れてくれた集落。人としての自由。諦めていたものを手に入れろと皇子は言った。


「皇子らしく、宮廷へ留まっていただく慎みをもっていただけたようで、何よりでございます。皇子まで一緒に行くと言い出したら、どう止めようかと考えあぐねていたところでございました」


 ナイニャルは研ぎ澄まされた決意に感心を示す。


「馬鹿言え、本心ならばまさに私が行こうとしていたさ。だが、私には祝皇に代わり軍を率いる役目がある。皇子として、まだ、やらねばならぬことがある。自由や幸せを求める過程に、困難や試練を待つ必要はない。そういう国にしたいのだ」


 言い返すオノファトを尻目に、アソカも決断した。


「約束します。この苗木は必ずや妹に心尽くしてくれた集落の人々へと届けます」

 悪神と顔をしかめられ、孤独だった妹が過ごした集落に興味がある。希望を与えてくれたその場所に行けば、きっとアソカ自身もなにかが変わる、そんな気がしたのだ。


 そして妹に会えたら言おう。今まで辛かったね、もう私たちは自由に生きよう、と。


 アソカはおもむろに燭台に灯された蝋燭を倒した。燃え所を得た炎は、行き場を見つけ出し、縦横無尽に燃え広がる。


「おい」


「腹いせついでに混乱を引き起こしただけです。敵を攪乱させましょう」


 オノファトの指摘に、アソカは微笑んだ。大それた悪戯は格別に質が悪く、呆気にとられてしまう。


「鎮火の指示は私とオノファトで指揮を執ります。お三方は、疾くこの城をお出になさって」


 ムレイの言葉にジュネクとナイニャル、アソカの三名はそれぞれ頷いて、踵を返す。


「……オノファトさま。このご恩は忘れません、どうかお健やかに」


 アソカは悩んだ末振り返り、皇子に声を掛ける。


「今まで済まなかった。……よろしく頼む」


 オノファトは頭を下げて見送った。


 アソカはもう振り返ることなく、二人の後を追う。視界の端にうつる燃え盛る炎のなかに一瞬、妹の姿があったような気がしたが、すぐに足踏みしそうになる脚を動かした。眼前に広がる炎は、内裏を焼くだけの脅威にしか見えなくなったから。


 厩舎に向かうまでの道中、四回の襲撃に遭った。


 ジュネクとナイニャルは絶妙な呼吸で察しを付け、見事な連携で撃退した。


「怪我をしているはずなのに、お見事ですね、ジュネクさま」


「現人神の神威にあてられて、常識外れに元気なのさ」


「ご冗談を」


 冗談ではないのだが。いくら反論したってこの男にはわかるまい。


 イオの目の前で驚異的な治癒力を見せつけてしまったジュネクは、イオによって神威が及ばない宮廷地下牢へと投げ込まれ、皇子たちと合流を果たせたのだから、ある意味はからいに感謝せねばなるまい。殺すよりも生かしたほうが、イオの計画のためになると思わせられただけ僥倖だ。


 家事に宮中がざわめきはじめるのを肌で感じながら、ジュネクは黙々と馬に鞍や手綱と馬具を装着していく。支度を終えてから、まずジュネクが馬に跨がり、それからアソカを後ろに乗せるべく、差し出した手を取った彼女を引っ張り乗せる。


「ジュネクさま、ご武運を。私はオノファトさまの傍に仕えます随身でございますので、お供するのはここまででございます」


「別に構やしないさ。……ところで、」


 ジュネクはいよいよ我慢出来なくなり、肩を落としてナイニャルを見下ろした。


「さっきから言おうと思っていたんだけどさ。————ぼくに敬称は不必要だ」


 ジュネクはそれだけ言うと、ナイニャルの返事を待たず手綱を引いた。馬が嘶き、疾走をはじめ、宵闇を駆け抜ける。


 ナイニャルは馬の足音が遠ざかり、聞こえなくなるまで、深く立礼を続けるのだった。

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