冬から春へ
春の終わりに一斉に散りし花弁は陽光を浴び、キラキラと輝いていた。
儚くも壮大な花吹雪は、遺伝子に刻まれし幻想の風景だ。
僕にとっての美しさは桜の形をしていた。
たとえ何千年と時を超えたとしても、何度生まれ変わっても、同じ魂に魅入られる。
***
今もなお、光のような少女の影を、追いかける。
共に駆けた坂道、
薄っすらと晴れた冬空の下、
「
去年の夏祭りに彼女は桜柄の浴衣を着てきた。
「おかしいな。
僕は無言。
「だって、春になるとずっと見てんだもの」
「ねえ、あたしのこと、桜だって思ってよ」
「よせ、似合わない」
僕はすぐに目をそらした。
日が暮れて町も陰り、外は静かで肌寒い。
表情を消し、白紙の空を見据える
彼女がなにを考えていたか、今では知る由もない。
卒業後、僕は
「泣くなよ。二度と会えないわけじゃない」
当時は深く考えず、帰れば簡単に会えると楽観していた。
ある意味では彼女への信頼でもある。二人離れていてもきっと大丈夫。心はそばにいるし別れた感じもしなかった。
ところが実際に新しい環境に放逐されると、想像以上のギャップに戸惑う。
知らない人の群れ、無機質な教室。春なのに花の匂いがしなかった。
楽園での日々は終わった。
彩りを失った世界に唯一の希望があるのならそれは、三年A組で交わした約束。
一〇年後、桜の下でまた会おう。
今一人でも、輝く過去の思い出があるのなら、まだ頑張れる。
曇り空、灰色の雲の隙間、透ける日差しが肌を撫で、心は春を求めて歩く。
一年後の八月。
合宿中、教師からある記事を渡された。
新聞の角に載ったニュース、交通事故。
約束の日に向かって光を見出そうとした、その矢先に聞いた
突然に、あまりにもあっけなくて。
信じられない、信じたくない。
陰った地区。一軒家に暗雲が垂れ込める。
つや消しの黒服が並び立ち、沈痛な面持ちでうつむいた。
喪主の女性の両手に遺影が収まる。
色素が薄めな少女の、きれいな笑顔がぼやけて、くすんだ。
軋む胸に、水っぽい味が流れ込み、初めて彼女が死んだと感じた。
数日経っても、寮の自室で僕はこもるったままだった。
別れが済んでより一層、喪失感が押し寄せる。
真っ暗に電気を消し去り閉め切った部屋には無駄な家具がなくて、生活臭も無色透明。
食事をしても味がしないのは、鼻が詰まっているせいだ。
頭をよぎる、淡い追憶。
卒業式、打ち上げの後だった。
「いかないで」すがる少女に、「また会える」言い張って。
ギュッと掴んだ手がすっと、すり抜けた。
彼女の手、離さなければよかったなと。
後悔が胸に染み付く。
墨色の視界にチラチラと火花が見え隠れ。
彼女が灰になったときから、胸にたぎるものがある。
あの明るさが、あの笑顔が、頭から離れない。
内に秘めたままの想いが未練として残り続けるから。
薄暗い部屋のデスク、発光する液晶の前で、握りしめた拳。
まだ諦め切れない。
一年半後、スポーツ選手として活躍する未来を蹴って、VRとAI技術専門の大学へ進学する。首都にある桜ヶ丘大学だ。
最高級の環境で研究に没頭した。資料をかき集め、構築・実験の繰り返し。何度も何度も、何度でも。
ただ一つだけ、ただひたすらに、奇跡を求めた。灯火を追いかける蛾のように、春を待ちし鳥のように。
執念が実を結び出来上がった、バーチャル空間。
本当にこれでよかったのかとふと冷静になって、平らな地表に立ち尽くす。
夜明け前、しんとした
***
花見が終わりさらに一年が経ちそうな頃、僕はバーチャル空間へ介入した。
春前、静かな天気の明るい町にて。
「おひさー」
商店街の真ん中で黄色いポンチョ姿の
こちらはそれなりに勇気を振り絞り、内心覚悟を決めて赴いたというのに……。
立襟のコートを着た肩を上下させると、溜息は白い煙のようにたなびき、霧散した。
ふとフローラルな香りが
ひらっと布をなびかせながら迫る彼女は、落ち着いた態度だった。
「変わったこと? なにもないよ。いつも通りの同じ日常。でもこれはあたしが見てる夢なんだ。そうなんでしょう?」
冷静に現実を受け止める。
「ああ、君に残された
目を伏せ答える。
彼女の視線が追従。
「君はなにも変わらないな」
流れるようにこぼしかけ、いや……と、首を横に振るった。
形こそ同じでも、本当の彼女とは別物だ。なぜなら
罪悪感。眉を寄せた。
「僕は君の魂を歪め、
いっそ気づかなければよかっただろうに、などと思っても今更だ。
あまりにも身勝手だった。
「そんな顔、しないでよ」
ふわり溶ける声が僕を包む。
「あたしはまだバーチャル世界で生きてる。叶えられた約束は、
弾む声で歌うように伝える。
あったかい想いが響いた。
それでもこちらの気持ちは欠片も晴れない。
僕は重たい口を開く。
「終点は花見」
声は薄くかすれ、消えた。
「先はない。終わるんだ」
彼女が抱いた幻想を切り捨てるように。
「また来る」
か細い声を残し背を向ける。
足取り重たく、伸びた影。
花の香りをかすかに感じた。
***
春が来る。刻が来る。
立ち寄ったのは河川敷の近くにある、桜並木。
ふんわりとしたシフォンワンピース、短い丈からすらっと脚が伸びる。
色白の艶のある肌、丸みを帯びた頬にはさくらんぼ色の血色がぽっと滲む。
陽光を浴び亜麻色に輝いたショートヘアが、さらさらと揺れていた。そよ風に吹かれつつ目線を送る、パッチリと大きな目。
互いに顔を合わせながらも、なにも言わない。一枚絵のような雰囲気だった。
かすかな沈黙の後、彼女は潤いのある唇を開いた。
「知ってるよ。あなたがあたしを桜と思いたくなかった理由」
鈴を鳴らすような可憐な声だった。
クリアな瞳に映った青年はひどく繊細な顔になっていた。
「散ってほしくなかったからよね。春が来て終わりは嫌と、恐れたの」
まっすぐな指摘がやってきた瞬間心が波立ち、鼓動が加速。
彼女は正しい。
僕は怖かった。少女が遠くへ行ってしまうことを。消えて、しまうことを。
「実は縁起がいいんだよ、桜柄」
澄んだ空、柔らかな日差しの下で、微笑みかける。
「芽吹き、門出、、繁栄、輝く未来……」
ささやくような声が染み込む。
「もちろんあたしは
誰かにとっての
花蜜を集めとろかしたような、甘やかな声で。
陸にいるはずなのに海の香りを感じ、心の内に立つ波の音。乾いた風が肌をかすめた。
「
こらえきれずに少女の名を呼ぶ。
震える唇。
言葉が出ない。
代わりに少女が告げた。
「ずっとそばにいたかった。ずっと一緒にいられると思ってたよ」
声音が沈む。
彼女にも同じ気持ちを抱かせてしまったのだと、気付いたから。
「僕もだ」
やっとのことで一言だけ、振り絞った。
いつか会えると信じていた。
仮に会えなくなっても同じ世界で無事に過ごしていると知るだけでもよかった。
彼女が幸せでいてくれるだけで、よかった。
ほかにはなにもいらなかったのに。
すり減った心は空洞のようで、肌にまとった衣服だけが妙に重く感じられた。
「だったら」
暗闇の脳内に透き通った声が通る。
少女が真剣な顔でこちらをとらえる。
「あたしを、桜と呼んでよ」
切実な想いをぶつける。
まっすぐな眼差し。
「春が来たとき、また会える。みんなの記憶に生きている限り、あたしは何度だって咲き誇る」
今も生きていたいと、覚えていてほしいと。
僕はしっかりと
「ああ」
「よかった」と笑った、かすかな声を聞いた。
ゆるやかな静寂に、さらりと吹く風。
巻き上げられた花弁を連れ
僕の手前で少し背伸びし顔を近づけると、淡く甘い匂いが包む。唇を重ねると、ふわっと溶けた。
少女はすっと顔を離して、口元に花を咲かせる。踵を下ろし足を引いて、並木道の向こう側へ歩き出した。
見送る僕に振り向き笑いかけた。卒業式の日のように、今にも新しい時代に旅立つ構えで、あの頃と同じ姿で。
色褪せていた情景が鮮やかに蘇ってきた。昔に戻ったかのようなビジョンが浮かび、息を呑む。
強烈な風が吹き、舞い上がった花びらは、花霞。晴れやかな笑顔が、薄桃色の向こうへ消える。彼女の気配はなくなった。
空を貫くまぶしい光。
心に降りた淡い感情。
胸をかき乱す衝動に、熱く
これほどまでに潔く美しい散り方が、あるなんて……。
つくづく思う。
ああやっぱり――
彼女は桜だ。
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