夏
花見があった年の、八月一日は、うだるように暑かった。
ドオォン!
足元から突き上げる重たい音が実体もなく聞こえた。
まぶたの裏にチラついたのはこの世とは思えない光景。
白線の内側で立ち尽くす私。
うっすらと紗がかかった視界。
目をつぶり幻を振り払うと、肩の上で水平に切り揃えた髪が激しく揺れる。
心ここにあらずな成人女性Kをよそに、鮮やかに晴れた空とモクモクと膨らんだ入道雲へ向かって、青少年の一団が元気よく坂道を駆けていった。普段は制服を着ているであろう彼らの半袖の私服姿に夏休みを実感する、青春を引きずったおばさん、二五歳。名前は
夏は休みをいただいたので実家に戻ってきたのはいいのだが、やることもないので、外に出ていた。ある意味では巡礼、おのれの過去と向き合う儀式でもある。
十分後、目的の地点に辿り着いた。左右から道が合流する十字路じみたところ。
ぼんやりと
九年前の夏は今でも生々しく思い出せる。
「
「なんで私が」
「だって
伸ばした腕を後ろで組んで、明るい顔で語りかける
「覚えてる? 保育園でやった夏祭り。みんな着飾ってきたけど、
「きれいだったのは私じゃなくて、衣装だろう」
同じ高校に進学した
「
秘密のいたずらの打ち合わせをするように、顔を近づける。
「ね、あたしを信じて」
真剣な目。
「あたしを信じて」か。
もちろん、最初から分かっていたし、信じてもいる。
希望の言葉は薄闇に染まった精神を明るく照らし、熱気を含んだ風が背中を押す。
ニコリと微笑みかけてくれた彼女に、口角を上げて返す。
「じゃあ準備する」
「本当?
照れくさそうに眉を寄せた私に、笑顔で頷く
手を取り合い足を踏み出したときだった。
ピリリとした危機感が鋭い風と一緒に、肌をかすめた。
二人だけのふわふわとした世界から一転、研ぎ澄まされクリアになった感覚。
横断歩道のない十字の道、反対側へ渡る手前に留まった少女。後ろを向いて歩いていた咲良は真ん中に身を
ブーン、ブォォォォン!
勢いのある走行音、ガスの不快な臭い。
「危ない!」
迫真の響きをかき消すように、黒い固まりが目の前を通過した。
ドオォン!
小柄な体が宙を舞う。
絶望に染まった私の顔。見開かれた目。
薄墨色のアスファルトに真新しい血がじわじわと流れ込み、
村ができたころからある見慣れた道は、異空間へ変わり果てた。まさしく世界が終わったように。
普段暖かな日差しが降り注ぎ、買い物客や学生が談笑しながらすれ違うにぎやかな通りは、人払いを受けたように閑散と。
道路は無彩色に塗り替えられ、散らばった血も肉も、握った拳の感覚すら消える。
時間すら停まったかのようだった。
蒼ざめた空から降り注ぐ生白い光が、人形のような姿を浮かび上がらせる。
ビー玉のような瞳と目が合ったが、彼女は微笑んでくれなかった。
同じ場所にいるのに。
彼女はまだ、そこにいるのに。
こみ上げてくる激情に唇を噛んだ。
***
ふと我に返り、隅に追いやられた電信柱の手前に、淡い青色の花が供えてあるのに気づいた。誰からだろう。近年では珍しい。
瑞々しい勿忘草をこっそりと見つつ、踵を返した。
代わり映えのしない町並みは時の流れに取り残されている。
放課後によく寄った商店は健在ながら商品の列が縮小し、三〇円くらい値上げしていた。反対側の公園は遊具が撤去され、枝垂れる柳がポツンと残る。
子どもとしての私たちが帰る場所はどこにもなかった。
葵の通りをあのころと同じ気持ちで歩くことはできない、もう二度と。
祭りにも行かなくていいだろう。浴衣を見せる相手はいないのだから。
立ち止まって隣町のある方角を見つめる。
村を取り囲む山々、青く澄み渡った空の向こうに、少女の影を探す。
夏に散った彼女。灼熱の暑い日にならひょっこり現れるのではないかと、少し期待した。
……。
無音のまま吹く風にワンレングスがなびき、柔らかな黒の一房を耳にかける。
夏の匂いはしなかった。
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