第二十六話 流れ着く記憶
この奇妙なる逸話は、ある夏の日の出来事である。私はその日の早朝、旅の目的地であるベノブル島の港に到着した。これは想定通りだが、辺り一帯は観光客であふれかえっていた。浮かれた若者たちの口笛が辺りに響き渡っていた。彼らは一様に幸福そうな笑顔を浮かべ、差し当たっての食事や、これからの旅程について楽しそうに語り合っていた。私としては彼らの動向について何の興味もなく、それらはずいぶん遠い声として聴こえてきた。港の女性係員に今回の来訪の目的について尋ねられた。私は仕事でここを訪れたことを正直に伝える。係員はその仕事内容を聞くと幾分狼狽した。私は目的を果たすことができれば、すぐにでもこの地から立ち去ると明言した。仕事の前にはいつも思うことだが、自分がこれから成さねばならぬことを考えると、気分は憂鬱になった。タクシーに乗ると、ロンド氏の自宅まで行くように運転手に告げた。運転手から彼がこの島でも有数の富豪であることを教えられる。訪問の理由を尋ねられた。
「率直に言えば、彼にもその時が来たということです」
自分の仕事内容をそう告げると、運転手に非常に驚かれる。私の仕事とは、人間が決して目を背けることのできない現実でもある。仕事というものは天から与えられるものであり、私は誰に知られても恥じることなくそれに没頭できる。もう少し言わせてもらえれば、自分が選ばれたのだから仕方がないだろう。タクシーは海岸沿いの立派な道路を三十分ほどかけて走った。車が邸宅に着くと、ロンド氏は外まで出てきて出迎えてくれた。
「まさか、このようなタイミングで貴方が訪ねて来るとは……。この私にもついにその時が来たのですな」
「その通りです。色々な準備をなさっていましたか?」
私は冷静な態度でそのように切り返した。
「そうですか……。しかし、深く考えると、これは良いことなのかもしれませんな……」
彼は私の目的を悟ると、落ち着いた口調でそう述べたが、しばらくは放心状態の様子であった。過去には私の来訪を知ると、必要以上に混乱したり悪態をついたりする人間が多くいたので、ロンド氏のこの落ち着いた反応には好感を持った。彼の豪奢な邸宅の居間に案内され、そこでアイスティーをご馳走になる。私の目は天井から吊るされたラスビット社製の巨大なシャンデリアや、赤絹ばりの大きなソファーや、十人が同時に着席できる巨大なダイニングテーブルなどの家具をつぶさに観察した。ロンド氏はこれらの高価な品について必要以上にひけらかすことはしなかった。
午後になると、我々は青緑色の海に囲まれた美しい海岸を散策した。多くのカモメが空を舞っていた。彼にどのようにして多くの資産を築いたのかを尋ねると、女性ものの衣類のデザイナーとして名を馳せていた過去があることを話した。
「今は海岸に流れ着く芸術品の回収をしている」とロンド氏は話してくれた。私がその言葉を不可解に思っていると、「ほら、貴方の足元にも輝ける宝がありますよ」
そう言ってロンド氏は私の足元を指さした。そこには金色に輝く物体が流れ着いていた。拾い上げてからハンカチで表面にこびりついた砂をぬぐうと、黄金製の見事なバングルが姿を現した。彼の話によると、この辺り一帯の浅瀬は複雑な形状をしていて、十九世紀の初頭までは、豪華客船や海賊船などが、この地でたびたび座礁していたために、今になっても、それらの船から流出した値打ち品などが流れ着くのだという。彼はそれを海の記憶と名づけて、この島の北部に存在する美術館に寄付しているのだという。はじめ、私の目には彼が嘘をつくような人間には見えなかった。世の正直者を代表するような人物に思えた。しかし、人間とは嘘と共に人生を歩む生物である……。私はすべての人間の自己主張を疑ってかかるように教育を受けていた。
私の見たところ、ロンド氏は優しく丁寧で人格を兼ね備えた人物であった。この私を特別な客として迎えてくれた。人間の生活において、もっとも重要なのは神々への祈りであると彼は説いた。すべての人間に向けて、感謝と尊敬の念を持っていれば、必ず幸せに迎えられるとも述べていた。もちろん、それらの有難い説教が、私の心の奥にまで届くことはないのだが……。
邸宅の居間や寝室にはいくつもの美しい女性の写真や絵が飾られていた。綺麗な黒髪は肩まで伸ばし、どの写真においても控えめな笑顔を浮かべていた。私はその人物について尋ねないわけにはいかなかった。ロンド氏の話によると、彼女は彼の義理の娘(妻の連れ子)であった。別れた妻が数年前に遠地で亡くなったために、ある日、彼を慕って突然訪ねて来たのだという。彼自身も自分にそのような可愛らしい娘がいるとは、実際に会ってみるまで、まったく知らなかったらしい。
数年の間、ふたりは幸せに暮らしていた。ロンド氏は資産を削ってまで、娘にたくさんのアクセサリーをプレゼントした。彼女は分別をわきまえた人であったから、それらの贈り物について手放しで喜んだわけではなかったけれど、装飾品を身に付けることで、ますます美しくなったという。その娘さんは今現在はどこで暮らしているのかと私は尋ねてみた。すると、ロンド氏の顔が途端に曇りだした。彼女は三年前に恋人を見つけ、ここを去っていったのだとロンド氏は告白した。彼は以後不機嫌になり、その後の詳しい話は避けた。ただ、今でも時折夢に見る忘れられない存在であるとは述べた。私はこのロンド氏の邸宅にしばらく留まることにした。もちろん、重要な仕事のためである。
二日目の夜、夕食後に私のリクエストしたモーツァルトのレコードを聴きながら、しばし語り合った。都会とは違いこの島の夜は実に静かである。騒音は一切なく、波の音だけが海岸から響いてきた。それは時に眠気を誘った。この静けさは永遠に続くようにも感じられた。私はこの地方の海の美しい景観を引き合いにだして、「もし、サーフィン同士のいさかいが発生して、殺人事件でも起こり、ひとりが海に沈んだとしても、その遺体は誰にも見つけられないでしょうね」などと話しかけた。すると、彼は突然憤り、「この美しい島においては、人を殺すなどという乱暴な仮定を持ち出さないで欲しい」と怒鳴りつけられる羽目になった。彼はかなり錯乱した様子であったが、すぐに平静に戻った。ロンド氏の突然の激怒は、私の心に強い印象を残した。
三日目の早朝、私はひとりで海岸を散策中に女性ものの複数のアクセサリーを発見した。どれもが傷ひとつない逸品であり、その手の店に持っていけば、相当な値段がつくものと思われる。かつて沈没した船からの流出品があると言っていた彼の言葉は、これで裏付けられた。しかし、その装飾品を彼に見せると、ひどく困惑したような様子を見せる。これは私にとって意外な反応であった。
「まさか、こんな時期に私のもとへ流れ着くとは……。まるで、貴方にそれを見て欲しいかのようですな……」
彼はそんな風に感想を述べた。その辺りから、ロンド氏の様子に変化が生まれる。不自然によそよそしくなったり、時折、「誰かに見張られているような気がする」と身の危険を訴えたりした。その夜、ふたりでチェスをしていると、彼は体調不良を訴えて、ゲームを途中で打ち切り、その姿は寝室に消えていった。しばらくすると、猛獣のような叫び声が居間まで響いてきた。これはただ事ではない。彼の寝室のドアを強くノックしてみたが内部からの反応はなかった。ドアの内側からは不可解な寝言が明け方まで断続的に響き渡っていた。彼が目に見えない何者かを意識して叫んでいることは明白であった。しかしながら、私はそれを当たり前のことのように受け止めていた。
四日目の朝、海はざわついている。昨日は多数見かけた若いサーファーたちの姿は、どこにも見られなくなっていた。ロンド氏に昨夜の異常な出来事について尋ねてみると、実際には、娘とは辛い別れがあったことを述懐する。彼女がこの地から去ってしまったことで、深く愛していた娘の記憶を失うことになるとの恐怖に取り憑かれていたことなどを話してくれた。その上で、昨日、私が海岸で発見した装飾品は、娘が当時、好んで身に付けていた物と非常によく似ていると告白する。
「時間の流れは思い出を少しずつ削っていく……。あの頃のことは、今では夢物語のようにも思えるけれど、私はとてつもない間違いを犯したのかもしれない」
「私は多くの敗北者を見てきたから分かりますが、人は老年を迎えると、自分の人生に後悔する瞬間が必ずあります。貴方のような立派な方でも、そのように思われますか?」私は言葉を選び、なるべく丁寧な口調でそう尋ねた。
「今ではあの一連の出来事が夢であってくれたらと思うし、記憶の中では当時の画は次第に薄らいできている。すべては孤独が生み出した幻覚であり、本当は寂しさが創り出した夢だったのかもしれない……」
「さあ、よく考えてみてください。娘さんが海の方角から、手を振りながら戻ってきてくれるとは思いませんか? 彼女はちょっとの間、旅に出ていただけなのかもしれませんよ」
「そんな風には思わないね。私には分かるんだ……」
ロンド氏は窓から遠くの海域を眺めながら、その目には涙を浮かべていた。彼はその頃から体調がすぐれなくなり、日中でもベッドで横になるようになった。午後になると、突然ベッドから起き出し、何やら胸騒ぎがするから、海岸を見てきて欲しいと私に告げた。その表情はひどく強張っていた。どうやら、悪い夢を見たらしい。人は自分の過去に弱みを持つとき、その行動が悪夢やある種の予感によって、大きく左右されるようになる。
海は荒れ始めていた。波は早朝よりずいぶん高くなり、風がいくぶん強まっていた。海岸では観光客の姿もまばらだった。ただ、その中に麦わら帽子を被った美しい女性と中年の男性の姿が見られた。かつてふたりで睦まじく暮らしていた頃のロンド氏とその娘さんの幻影を見たような気がした。運命が何を意図しているのかは分からないけれど、この日も収穫があった。波打ち際にて、運命の手によって流されてきたと思われる、装飾の施された立派な短剣を拾った。その品からは何らかの意志を感じた。ロンド氏がこの美しい品について何かを知っているかもしれない。私はそれを邸宅に持ち帰ることにした。
ところが、その短剣をベッドで横になっているロンド氏に見せると、彼は錯乱して比較的安静だった容体は一変することになる。彼は興奮のあまり呼吸困難にまで陥った。時間の経過とともに、高い熱や意識の混濁までが見られるようになった。夕方近くになると、病状はますます悪くなる。うわ言のようにこれまでの人生についての後悔の念を語りだす。私は否応なくその悲しいうわ言の聞き手となった。
「今からちょうど三年前、義理の娘はここを気まぐれに訪れた、若い旅行者と懇意になってしまった……。結婚してふたりで暮らすために、この地を去るとまで言い出した。私はひとりでここに置いていかれることになりそうだった。娘と対話をする他には何の楽しみもない私にとって、唯一の宝である彼女を何としても引き留めたかった」
そのようなことを述懐する。彼の声は非常に弱々しかった。話している間にもロンド氏の意識はさらに薄くなり危篤状態にまで陥る。
「その男と縁を切るように、そして……、ここを去って欲しくないと……、私は何度も訴えた……。彼女がいなくなったら……、私の人生には無為だけが残ることになる……」
錯乱状態の中でそのようなことを途切れ途切れに語りだす。熱は非常に高くなり、危険な状態に陥る。私の手もロンド氏の介護に追われるようになっていた。その頃、窓の外はついに嵐になっていた。轟轟という強い風が窓に打ち付けた。窓から外を眺めると海では多数の雷光が輝いていた。私は経験によって分かるのだが、おそらく、ロンド氏の命運は今夜までだろう。そう思って、気になっていた短剣のことについて尋ねることにした。それがかえって彼を救うことになるかもしれないと考えたからだ。ロンド氏は狂乱の中で、その武器をなるべく遠くに捨てて欲しいと強く訴えた。
「ああ、その剣が私を狂わせるのだ! 私を辱める! そして、殺そうとする!」
彼は大きな声でそう叫んだ。私は承知しかねた。今のこの貴重な時間は、彼の握る過去の出来事と直接繋がっているように思えた。
「なぜ、この短剣をそれほど怖れるのですか? 貴方の過去にどのように関わっているのですか?」
私はそのように尋ねてみることにした。すべてを知ることも私の役割だからだ……。ロンド氏はついに別人のような形相になり、無意識のうちに過去の過ちについて荒々しく供述し始めた。そして、今から三年前の深夜、彼を置いてここを出て行こうとしたふたりに対して、背後から襲いかかり、狂乱の中でその短剣を用いて殺害してしまったことを供述した。
「それはほとんど一瞬の出来事だった。脳の内部に白い光が走ったように、何も考えられなかった。この大人しい自分にそんな残酷なことができようとは夢にも思わなかった……」
ふたつの血塗れの遺体については、そのまま海に流したと彼は涙ながらに語った。
「海は遺体を返すことはなかったが、彼女に与えたアクセサリー類だけは、それ以後幾度となく私の足元に流れ着くようになった……。それはまるで私への嘲りだった。私はそれを人目から隠すために、拾い続けるしかなかったんだ……。彼女の装飾品は毎年この時期になると必ず海岸に打ち上げられるようになった……。殺人行為の目撃者はいないはずだった。だが、天に住まう神々は、私の黒い犯罪をしっかりと見ていたのだ。二人もの人間を殺害したという重苦しい現実からは、決して逃れることはできなかった……。」
そこまで話してしまうと、彼の様子は少し穏やかになる。私は介抱を続けたが、生命の持つ力が次第に弱々しくなっていくのが分かった。日付が変わる頃、私の手を強く握りしめつつ、最後の礼を述べてからロンド氏は静かに息絶えた。これまでの私の態度は冷酷であっただろうか? いや、ロンド氏が誰にも事件を告白することなく亡くなっていた方が、末路にある彼にとって、どれほど残酷であったろうか。私はそう結論を出して、気を取り直すことにした。
翌朝、波と風はすっかり落ち着いていた。身軽な装備の観光客たちも海岸に戻ってきた。彼らは罪のない人生を謳歌するのだろう。私はまずロンド氏の死を村の役場に告げた。その後、彼の遺体を海岸近くの墓地に埋葬してから、この地を去ることにした。
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