第二十五話 虚無との対話
人類の最終戦争により完全に破壊されたある都市における逸話である。ひとりの男がその足を引きずりながらも、名も知らぬ巨大建造物にたどり着いていた。その建物の外部はこれまでの戦闘によってすっかり荒廃していたが、その内部に入ると、一階の最奥に地下へと通じる鉄製の梯子を見つけた。男は分厚い防護服をそこで脱ぎ、地下へと降りていくことにした。
地下一階は薄暗く、コンクリートでできた細く長い通路が、どこまでも続いていた。空調は効いていて、温度は一定に保たれていた。梯子のすぐ横には『ダブルヘヴン』という金赤文字の看板が掛けられていた。その横に設置された電光掲示板による受付案内メッセージの説明によると、この施設は地下に拡がる旧型のアパートメントであり、避難民数千人規模の居住が可能であるらしい。地上の汚染された大気がまったく入ってこない頑丈な構造になっているという。ただ、この救済システムが今も機能しているかどうかについては分からなかった。音声システムの誘導に従って、男は地下二階の二〇二号室にその身を預けることにした。
男はベッドに身を横たえて毛布を被った。あっという間に半日が過ぎた。部屋は狭かったが居心地は悪くない。食事はパックに包まれた保存食がどこからか自動で運ばれてくる。ラジオはすでに過ぎ去った日々の天気予報や株価の情報を延々と流していた。退屈ではあるが、空気がすっかり汚染された外部に比べれば、ここは天国同然だ。部屋の内部の壁には羽の付いた小型の虫がとまっていた。各部屋の壁は薄いらしく、隣の部屋の生活音が生々しく聴こえてくる。どうやら、この世界には自分の他にも生き残りがいる。男はそう考えると嬉しくなった。
西側の隣室の住民は、その咳やくしゃみの音から判断するに女性であるらしい。上の部屋の住民はどうやらがさつな男性であり、何やらどたどたと騒がしい。東側の隣室の住民は昼間はずっと音楽を聴いているようだ。ビートルズの同じ曲だけを延々と流しているが、それだって生存者がいる証拠には違いない。
規則によって他人との会話は禁止されているため、男は他の住民とはコミュニケーションを取らずに、部屋に引きこもることにした。壁際に置かれた本棚には百年以上前の、つまり、あの忌まわしい大戦が引き起こされる以前に売られていた雑誌や漫画が隙間なく並べられていた。誰が集めたものかは分からない。退屈すると時々それらをめくってみた。しかし、あまりの人恋しさに時折廊下に出て、他の住民の部屋のドアの前まで進んでしまう。いや、衝動に突き動かされ、ドアノブを掴んで開けようとしたことさえあった。しかし、どの部屋のドアも堅く閉ざされていて、他の部屋のドアたちは決して開くことはない。外から声をかけてみても、中の人間の反応はなかった。男は悪いこととは知りつつドアに耳をつけて中の様子を伺った。どの部屋も中では人が動いて生活を営んでいる気配があり、男は人間の温かさを感じて、さらに安心した。人間とは一時の幸福を感じると、それをさらに肥大させていきたいと思うものだ。
「外の世界は完全に終わっているが、我々が生きている意味は?」
この施設に入ってから一週間ほど経ったある日、男は意を決して、壁向こうに対してそのように問いかけてみた。返事はしばらく来なかった。やがて、静かで落ち着いた口調で、「それでも、私たちは生きるのよ」というよく徹る女性の声が返って来た。これらの行動はもちろん規則違反だが、孤独には耐えられなかった。
「返事をくれてありがとう、数年ぶりに他人の声を聞いたよ」
「最近になって、外の世界からやって来たの?」と女性の声が返す。
「もちろん、その通りだ。ここへ入ってまだ七日目。ここに住めば命の危険はないようだが、少々退屈気味だ。できれば、君の姿も見てみたい」
「ダメよ、私たちは絶対に会うことはできないわ」
「それはなぜだい?」
「ここの規則でそうなっているもの。他人との関係を完全に断ち切ることで個人を救うシステム『ヘヴン』は、そうして成り立っているの」
「それは残念だ。でも、いつか外の戦争が終わって、死の灰から逃れる必要のない未来がやって来たら、そのドアを開いて、君の姿を見ることができるのかな?」
「ええ」
「ひとりが寂しくなったら、また、君に話しかけてもいいかな?」
「ええ……」
少しの間があって、女性はそのようなそっけない返事をくれた。とりあえず会話を打ち切ることにした。彼はしばらくの間、自分と会話をしてくれた女性の想像を膨らませながら悶々としていた。
他の人間とのコミュニケーションの楽しさを知らされると、この建物の規則など、今さらどうでもいいことのように思えてくる。この身に太陽の光を浴びることが、この男にとって最大の願望であったが、他の人間との出会いや交流がその次の願望である。翌日、男は孤独に耐え切れなくなり、今度は東側に住む男性に話しかけてみた。
「突然話しかけてすまない。もし、よかったら聴かせてくれ。この集合住宅は、どのような構造になっているのかな?」
「この地下施設には、数万という角型の狭い個室が、縦にあるいは横に並び、まるで、アリの巣のように地下空間に張り巡らされているらしい。ほとんどの個人部屋は生存者で埋まっているらしい。みんな独力で生き延びている。もちろん、実際にそれを見たわけではないがね」
「それだけ多くの人が本当に存在するのなら、誰でもいい、他の人間に直に会ってみたいんだ。どうにかならないかな?」
「それは無理だ。ここは自由を許された地上の世界ではない。行動や判断のすべてが、居住者の自由になるわけではない。我々はシステムが生み出した厳格な規則に縛られつつ生活をしている。この世界では何人も規則に則って生きなければならない」
「外の世界のシステムがまったく機能していないのに、今さら規則なんてくそくらえだ。あの戦争が始まって以来、もう二十年以上、生身の人間と出会ったことがないんだ。君たちは壁の向こうに本当に存在しているのかい? ああ、どうしても血の通った人に会ってみたい。このままでは気が狂いそうだ」
「ヘブンのシステムを信じることだ……」
その回答によって、東側の部屋の人間とのその日の対話は途絶えた。男は日にちが経つとともに、他の住民とも様々な会話を楽しむようになっていった。対話や接触の禁止というこの世界でのルールは、もはやまったく守られていなかった。いくつかの対話によって得られた情報を組み合わせると、どうやら、自分の隣室には悪い人間は住んでいないようだ。住民の中には、若い女性や元兵士なども含まれるという。男はそういう結論を得ると、ますます他人との接触を願うようになった。
ひと月ほど経ったある日、男は意を決して、他人との接触を試みるために部屋の外へと踏み出してみた。碁盤の目のように存在している細い廊下を自由に歩き回ってみた。奥への通路は延々と続いているように見えた。この施設には、まだ見ぬ仲間が大勢暮らしているのかもしれないと思うようにもなった。
その日に限っていえば、廊下はどこもかしこも静まり返っている。いつものような雑多な生活音は聴こえてこない。その場で大声出して誰かに呼びかけてみる。上下左右、誰からも返事はない。
地下空間の内部は、先日までとは打って変わり、まるで霊界のようにすっかり静まりかえっていた。それが当然であるかのように……。その静寂を半ば受け入れながらも、すでに精神は耐え切れなくなっていた。
彼はやがて完全なる混乱状態に陥り、所持していた唯一の武器を用いて、各部屋のドアを乱暴にこじ開けていった。男は他の住民の部屋に飛びこんでいった。部屋の内部には、かつての住民たちの白骨化した遺体がバラバラになって存在していた。すべての部屋にひとつの、あるいは複数の遺体が放置されていた。これらの部屋で生存しているのは、どこからか入り込み、死体に噛り付いた蛆蝿(うじばえ)だけだった。
詳しく調べていくと、どの遺体も数十年以上前に亡くなったものばかりだった。彼はその冷徹な現実が当たり前のことであるかのように受け入れるしかなかった。
もはや、自分以外にはこの施設に生存者はいない。そのことに気づかされたとき、地下空間一帯に大音量のブザーが鳴り響いた。違反を取り締まる防衛システムは、まだ生きていたのだ。規則違反を何重にも犯した男は、もはや、このヘヴンに住むことはできない。コンピュータによる迅速な審議の結果、彼はルール違反の過度で、このヘヴンから追い出されることになった。男は防護服を着こんで梯子を登り、再び放射能に汚染された地上へと歩み出ていく……。そのとき、かつて隣室の女性が話した「私たちは生きるのよ」という台詞が、幻聴のように聴こえてきた。彼の死の旅はまた始まるのだ。次のヘヴンを求めて……。
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