すりガラスの上の世界
木穴加工
すりガラスの上の世界
小さな金属蓋を跳ね上げ、視線を降ろす。
ファインダーを覗き込む瞬間、世界は静寂に包まれる。
すりガラスの上に形作られた左右反転の宇宙は、ピントダイヤルを回すごとに徐々に輪郭を帯び、それとともに少しずつ世界に音が戻ってくる。
息を止め、静かにレリーズを押し込む。
その一呼吸の間だけ、俺は神になれる。時間が止まった世界の神に。
俺はクランクを巻き上げながら、そそくさとその場を離れる。
神はネズミに戻る。闇に紛れ、法の目をかいくぐって走り回るドブネズミに。
コートの下にローライフレックスを隠し、帽子を深めに被って、人混みに溶け込む。
写真撮影が違法になって、四半世紀が経過した。
表向きはプライバシーの保護と、フェイク画像による中傷への対策。そんなものは政府が映像を独占するための方便だ。奴らの見せる映像が本物かどうか、誰も検証できないのだから。
あらゆる電子データが国の監視対象となった今、俺たち闇カメラマンは20世紀に作られたフィルムカメラを武器に、当局の目をかいくぐって細々と活動している。
行きつけのバーはいつものように安酒とタバコの匂いでごった返している。カウンターに肘をつくと、マスターが無表情のまま近づいてくる。
いつものを、と言ってから小声で頼んでいたフジの400が入ったか尋ねる。
奴は俺の質問を無視し、ただこう言う。
「あんたにお客さんだ」
マスターの顎が指す先を見る。
暗がりに一人の女が座っている。場末のバーにおよそ似つかわしくない深紅のワンピースを着て、けばけばしい指輪が嵌った手でグラスを傾けている。
「奢るわ」
カチャリ、という氷の音と共に女が言う。
女はユナと名乗った。
近くで見ると、薄明かりの中でも女の美貌は際立つ。透き通るような肌に整いすぎた輪郭。銀幕の世界から抜け出してきた、作り物のような女。
聞くと元女優で、根津恭介の愛人だという。
俺は表情をこわばらせる。
根津恭介。映像局長。すべての映像を独占する影の支配者。
「友人伝手で調べたの。局のデータベースにあなたの名前は載ってないから安心して」
信用できねえな、と俺はいう。そもそもそんなセレブが闇カメラマンに何の用だ。
「写真を撮ってほしいの。私の写真を」
廃校に夕日が差し込み、茜色の光がひび割れたコンクリートの壁を染めあげる。
「あいつ、私の映像を全部消したのよ。まるで最初からこの世界に存在しなかったみたいに」
女は半分崩れた塀に腰掛けながら、誰にともなく言う。
俺は答えない。
黙々とローライフレックスを構え、女の姿を左右反転したすりガラス上の世界に収める。
風が女の長い髪を揺らし、影がゆっくりと伸びていく。
世界に音が戻る。
その瞬間、俺はシャッターを切る。
小気味いい機械音ともに、女の姿を永遠の中に閉じ込める。
女が何か口を開きかける。
が、それをかき消すような轟音が空気を切り裂いた。
見上げると、青い機体が上空から迫ってくる。
砂埃が舞い上がり、廃墟全体がざわめく。
はめられた。
俺が詰め寄るよりも前に、女が叫ぶ。
「逃げて!」
カメラを抱え、踵を返す。
俺の背後で機体のモーター音が徐々に大きくなる。女も逃げたのだろうか、確かめる余裕はない。
家に入り、鍵を四重にかける。
やつらが追ってきている様子はない。女が目当てだったのだろうか。
暗室に潜り込む。
フィルムを抜き出し、慣れた手つきで現像液に浸す。
やはり女は捕まったのか。根津の野郎に俺のことを話したのかもしれない。
タイマーが鳴る。
ネガを取り出し、光にかざす。
白黒反転した小さな世界に、誰もいない廃墟だけが映っている。
俺は小さなため息をつくと、「ユナ」を書かれた引き出しを開け、びっしり詰められたネガの山の一番上にそれをしまう。
そして棚から新しいフィルムを取り出し、カメラに装填する。
クランクを引き出し、ゆっくりと巻きあげる。
――カチリ
暗室に小さな音が響く。
「ねぇ」
妻の呼びかけに、俺はようやくファインダーから目を上げる。
「あなた、まだ撮らないの?」
ユナは訝しげに言った。
すりガラスの上の世界 木穴加工 @medea
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