二日目:晴れ

1.雨上がりの濁流


 雨があがると、いつもの日常が戻ってきた気がする。


 教室の窓越しに、澄んだ青空をぼんやり見上げながら、私――黒川ツバメはそんなことを考えた。


 朝のホームルーム前の、にぎやかな教室の中。

 自分の席でつっぷしていた私は、腕の隙間すきまから窓の外を見ていた。

 

 たぶん、もうすぐ梅雨あけなんだろう。

 くすんだ窓ガラス越しに見えるのは、初夏の陽気が漂う、まぶしい青空。

 

 こんなピカピカに晴れ渡る空を見ていると、昨日の雨がウソみたいに思えてくる。

 いや、雨だけじゃない。


 例えば、白髪赤目はくはつあかめの男子と一緒に、川嶋河かわしまがわへ不本意なダイブをしたり。

 例えば、化け物にとりかれて、体を乗っ取られたり。

 友達が謎の黒い水たまりに落ちてしまったり。


 そういうことも、全部丸ごと、私の空想だったんじゃないか? 

 ……なんて思えてくるのだ。


「……ねぇ、カンダチはどう思う?」

 自分のこめかみをトントン、とつつきながら、私はポツリと問いかける。


 返事はない。

 聞こえてくるのは、教室の真ん中の方から響く「キャハハハ」という甲高い笑い声だけだ。


「……やっぱり、私の空想だったのかな……?」

 小さくつぶやきながら、私は再び机に突っ伏した。


 昨日、おりまりに落ちたチヅルをひっぱりあげてから、カンダチは無言をつらぬいている。

 気を失ったチヅルを抱えて、半泣きになった私が保健室の先生を呼んだ時も。

 学校に到着した救急車で運ばれるチヅルを、私が見送った時も。

 ふらふらになりながら自宅の玄関先にたどり着いたとたん、「どうしたのツバメ! びしょ濡れじゃない!」と母さんが悲鳴を上げた時も。

 カンダチは文句ひとつ言わなかった。

 迷惑なくらいにしゃべっていたカンダチの声は、すっかり消えていた。


 いや、声どころか。

 カンダチの存在そのものが、すっかり消えてしまったようなのだ。


 無駄に目立っていた白髪赤目も、いつもの黒髪黒目に戻ったし。自分の意思と関係なく、体が勝手に動きだしたり、人外じんがいパワーのジャンプを披露ひろうすることもないし。白いうろこが浮き上がってくることもない。


 私は、いつも通りの黒川ツバメに戻っていた。


 これが昔話だったら、「こうして私は、運動オンチで、ぼんやりしがちな普通の女子中学生に、戻れたのでした。めでたし、めでたし……」となっているはずだ。


 それなのに。なぜか私の気分はモヤついていた。

 雨はあがって、いつもの日常が戻ってきたはずなのに。

 体を乗っ取る迷惑な妖怪は、空想のように消えたのに。

 元通りの黒川ツバメになれたのに。

 どうして私は、「めでたし、めでたし」と言い切れないんだろう?


 ――人間の心には、もやもやとしたモノや、つかみどころのないモノや、にごったモノがまることがあるだろう? ――

 記憶のすみで、カンダチの声がよみがえる。


 ……私の黒い目じゃあ、見えないけれど。カンダチの赤い目なら、今の私の心の中は、おりまみれに見えるんだろうか? 

 いや、全然見たくないんだけども。

 私は机にうつぶせになったまま、黒髪ポニーテールをぐしゃぐしゃにかきむしった。


 実は、「めでたし、めでたし」にならない理由の心当たりが、一つだけ分かってる。

 チヅルだ。


 私はうつぶせのまま、だらりと首だけ動かしてななめ後ろのチヅルの席をのぞき見る。

 あと数分で予鈴よれいが鳴るけど、チヅルの席は空っぽだった。いつものチヅルなら予鈴の十分前には必ず着席しているのに。今日はお休みなのだろうか? 

 ……だとしたら、どうして?


 私は机にうつぶせになったまま、ポケットからスマホを取り出す。

 学校でスマホを出すのは、校則違反。先生に見つかったらそく没収ぼっしゅうだし、チヅルに見つかったら「スマホは校内使用禁止でしょ」っていつもの真顔で注意されてしまうだろう。

 空っぽのチヅルの席に向かって、「すいません」と小さくつぶやいてから、私は机の影でメッセージの通知をチェックする。


 新着メッセージはゼロだった。既読も無し。

 昨晩、チヅルに「体調はどう?」と送っておいたけど、どうやら、チヅルはメッセージを見てもいないらしい。

 いつものチヅルなら、メッセージに気づいたら、すぐ返信してくれるのだけど。


「チヅルってば、今日もウルトラレアなの? ……こんなに連発されちゃあ、もうレアでも何でもないよ……」


 ため息交じりに、スマホをポケットに戻そうとした時だ。

 軽快な着信音とともに、私の手の中でスマホがねた。


 がばっと起き上がった私は、スマホをキャッチすると慌てて画面をチェックする。


 ――私はまだ笠臣かさおみ総合病院に入院中だけど、もう大丈夫。

 それよりもあなた、ほんとに黒川ツバメよね?――


 スマホの画面に表示された、チヅルからのメッセージを見た瞬間。

 ぶわっ、と私の体中から汗が噴き出した。


 これ、どういう意味?

 もしかして、チヅルは、昨日のことを覚えている? でも、どこまで?

 やっぱり、昨日のことは、私の空想じゃなくて――現実の事なのだろうか?


 頭の中に、次々と疑問がわきあがってくる。

 とめどなくわきあがる疑問は、どんどん重なり、量を増し、勢い増していく。

 まるで昨日の――雨で増水した川嶋河かわしまがわの濁流ように。


 ふくれあがった疑問の濁流は、とある衝動になり、私を飲み込もうと暴れ出す。


 チヅルに会いたい。話がしたい。それも、今すぐに。

 あと五分で一時間目の授業が始まるけど、どうでも良い。頭の中でこんな濁流と押し合いをしながら、大人しく着席して大嫌いな数学の授業を受ける自分の姿なんて、とても想像できない。


 ――あぁ、もう。居ても立っても居られない!

 疑問の濁流が大波を立て、私を飲み込み、押し流した。


 にぎやかな教室の片隅で、私はがばっと立ち上がる。

 でも、クラスの誰も気にしていない。声をかける人すらいない。

 いつもぼんやりと、うわの空を飛ぶツバメがどこへ行くのかなんて、気にする人は、ここにいないのだから。


 スマホ一つだけ握りしめ、教室を飛び出した私の背後で、間延びした予鈴が鳴っていた。





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