第33話鴉の襲撃

 車輪が石畳を叩く音が、一定のリズムを刻んでいる。けれど、その響きはどこか冷たく、張り詰めていた。


 グラウベン家を出てからしばらく、シグベルも私も口を開かなかった。

 それぞれの考えを整理していたからだろう。


「話を聞いて、確信は得られましたか?」


 沈黙を破ったのは、シグベルの方だった。私は少しだけ考えてから言葉を返す。


「ええ……グラウベン家は、裏の取引には関わっていないと思います」

「私も同じ意見ですね。当主様は、アルヴィン家の交易に不審感を覚えているようでした」

「やはり、アルヴィン家ですか……」


 ルカの警告が脳裏をよぎる。『アルヴィン家を敵に回せば、領主ですら無事では済まない。』……それでも、クレイヴのような闇の商人と繋がり、ダイダリーの腐敗を悪化させるような真似を許すわけにはいかない。目下のところアルヴィン家を戦うべき相手と見なす必要がありそうだ。


「アルヴィン家に手を入れるべきかしら」

「……まだ、時期尚早かと。他の貴族の方にも話を通さねば、領主の強権として非難されかねません」


シグベルの声は冷静だったが、どこか僅かに硬さがあった。彼の言葉に、私は小さく息を吐く。

 確かに、今すぐに動くのは拙速かもしれない。だが――


 パカ、パカ、パカ……。


 一定のリズムを刻んでいた馬車の音に、別の蹄の音が紛れ込んだ。

 最初は遠かったそれが、次第に近づいてくる。


 「……?」


 シグベルも気づいたのか、ちらりと窓の外に視線を向ける。

 霧がかった街路の向こう、馬上の影がこちらを目指しているのが見えた。


 「追手?」


 問いかけると同時に、ふいに首筋が冷たくなった。……何かがおかしい。


 ミシッ――


 その時、奇妙な音がした。

 最初は馬車のきしみかと思ったが、違う。地面が軋む音だ。


「……まずいですね」


 シグベルの低い声に、全身の毛が逆立つ。馬が不安げに鼻を鳴らし、御者が手綱を握り直した。


 そして――次の瞬間、地面が崩れた。


 轟音とともに馬車の前方が沈み込む。馬が悲鳴のようにいななき、御者が必死に手綱を引く。だが、車輪が土に呑まれ、傾いた馬車が大きく揺れる。


 私は即座に身を支え、シグベルは冷静に窓の外を見つめた。その手は無意識にか拳を握りしめている。


 敵が来る。


 そう確信したとき、馬蹄の音が周囲を取り囲むように響いた。馬車に剣が突き刺さり、ギラギラとした刀身が木片を弾き飛ばす。襲撃だ。


「……ずいぶんと手荒ですね」


 シグベルの声には、普段ならありえない僅かな乱れがあった。それに気を取られた瞬間再び馬車が大きく揺さぶられ、たまらずバランスを崩す。


「こちらに!」


 シグベルが低く、命じるように鋭く言う。その手で引き寄せてくれなければ、私は今頃槍に貫かれていただろう。彼の腕の中、私は覚悟を決める。


「……どうやら、話し合いの余地はなさそうね」


 私はスカートの中に忍ばせていた短剣を抜き、スクロールを取り出した。視界に黒い仮面の男たちの姿をとらえる。その四人の中で距離を取って控えているのが、地面を崩した魔術師だろう。

 今度こそ、戦いは避けられない。私は震える指を無理やり動かし、短剣の柄を強く握り直す。――逃げるわけには、いかない。


 まずは魔術式を編み、防壁を張る。淡い光が私とシグベルを包みこんだ。

 即興の魔術は得意ではないが、数撃なら耐えられるはずだ。


 (息を整えて――いくわよ!)


 私はこみ上げる恐怖を抑えるように大きく息を吸い、シグベルと共に壊れかけた馬車から飛び出した。

 その瞬間――


 キンッ!


 澄んだ音とともに、振りかぶられた剣が防壁に弾かれる。


(……鴉?)


  その時、体勢を崩した剣士のベルトに、漆黒の鴉を象った装飾が見えた。

 だが、その意味を考える暇はない。


 風を切る音――飛来する弓矢。詠唱する時間はない。私は素早くスクロールを開き、書かれた魔術式に魔力を注ぐ。この一手だけで魔術が発動するのがスクロールの利点だ。

 途端に突風が巻き起こり、矢を軌道ごと叩き落とした。


 「後ろは私が!」

 「……頼みます!」


 シグベルと視線を交わし、同時に駆け出した。彼が儀式用にも見える華麗な細剣を抜くと、先ほどの剣士が立ち塞がる。互いに構えを取った次の瞬間に二人の距離は縮まっていた。


 甲高い金属音が響き、剣撃が交差する。

 細剣は斬り合う武器ではない。しかし、シグベルの剣さばきは舞うように滑らかで、敵の攻撃を軽やかにいなしながら、鋭い突きを放っていた。

 ほんの一瞬、彼が戦場にそぐわないほど美しく見えた。だが、私は――今はそんなことを考えている場合ではない。


 (シグベルは大丈夫。私は――)


 咄嗟に逃げ道がないか辺りを見渡す。しかし横転した馬車は無残に壊れ、馬の体も瓦礫に挟まれている。御者も怪我をして動けずにいるようだ。彼を見捨てる選択肢などない――ならば、ここで戦うしかない。そんな思考を巡らせた瞬間、背後から飛来する矢の気配。

 私は即座にスクロールを広げ、魔力を流す。再び風が唸りをあげ、弓使いの矢を吹き飛ばす。


 しかし、敵はそれすら織り込み済みだったかのように次々と矢を射かけてくる。私の動きでは、対応しきれない。


(このままじゃ……!)


 まずい、と思った瞬間地面が揺れた。敵の魔術だ。術式が足元に広がり、崩れた瓦礫が私めがけて飛んでくる。直撃は避けたが、衝撃でバランスを崩し膝をついた。


「お嬢様! ああもう、落ち着け!」


 瓦礫の隙間から出られなくなった馬が悲鳴を上げた。御者は馬を必死に宥めながらも、こちらを気にかけている。彼もダイダリーの民、守らなければ……!

 弓使いが御者に狙いを定めるのを見て私は咄嗟に彼の前に防壁を張った。その代わり、がら空きになった私に魔術師の操る石礫が降りかかる。


「くっ……」


 硬い衝撃が体を襲い、一瞬意識が飛びかける。裂けたドレスの隙間から鋭い痛みが走り、焦げた布の匂いが鼻を突いた。ひび割れた地面に血が飛ぶ。怯んだ隙を狙うように今度は弓矢が私に飛んできた。


(避けられない――!)


「させませんよ」


 シグベルが冷静な声と共に細剣で正確に矢を弾く。助かった、と思ったのもつかの間、彼の動きが止まった。敵の剣士と槍使いが連携してシグベルの剣を抑え込んだのだ。私を助けるための隙を突かれたようだった。すぐに彼の体を貫くべく、槍が突き出される。

 私にはそれが異常にゆっくりと見えた。でも体の動きは追い付かない。咄嗟にできたのは、やはりスクロールに魔力を通すことだけだった。手順通りに魔力を流せば迷わず発動できる、最も頼りになる武器。


「風よ、奔れ!!」


 それに短い詠唱を重ねる。突風で剥き出しの地面から土煙が舞い上がり、相手の視界を奪った。その一瞬の隙に、シグベルが私をちらりと見た。彼の瞳には、驚きと――どこか自分を責めるような影があった。


「詰めが甘いですね。私も……あなた方も」


 シグベルがまるで自嘲するように呟き、瓦礫を踏み台にして跳び上がる。敵の剣を紙一重でかわし、そのまま槍使いの喉元へ細剣を突き立てた。カラン、と音を立てて持ち主を失った槍が転がる。


 私は息を呑んだ。彼の自嘲的な言葉が頭を離れない。シグベルは…私の力を過小評価していたのだろうか? それとも、私を守ろうとして自分の動きが鈍ったことを悔やんでいる? どちらにせよ、私がもっとしっかりしていれば、彼をこんな目に遭わせなかったかもしれない。


(でも、今なら……!)


 槍使いが倒れたことで他の襲撃者も動揺している。私は違うスクロールを広げて弓使いの足元を揺らした。よろめいた男は、崩れた地面に飲み込まれていく。最後に放った苦し紛れの弓は、魔術の風に巻かれて私の近くに落ちた。息をするたびにじわりと痛みが広がるが、まだ立ち止まるわけにはいかない。


「はっ!」


 同じく体勢を崩した魔術師に、身体強化の術をかけた足で一気に間合いを詰める。短剣を突き刺し、確実に仕留めた。まだ一人、剣士が残っている――そう思った時には既に男の姿は消えていた。ボロボロになった地面の上に何かがキラリと光る。近付いてよく見ると、それは王冠をくわえた鴉の紋章だった。


「やはりアルヴィン家、なの……?」


 私の呟きを霧が吸い込み、辺りに静寂が広がる。不吉な、鴉の鳴き声が響く。そして、霧の向こうへ遠ざかる馬蹄の音。まだ終わりではない。

 手の震えが収まらなかった。鼓動がうるさいほど早い。息を整えながら、私はゆっくりと視線を巡らせる。


 倒れた襲撃者たちは動かない。槍使いは喉を貫かれ、弓使いは地面の裂け目に飲み込まれた。魔術師は倒れ伏し、残った剣士は姿を消している。


(……勝った、のよね?)


 自分にそう言い聞かせながら、シグベルの方へと目を向ける。彼はわずかに肩で息をしていたが、大きな怪我はなさそうだった。


「大丈夫?」

「ええ。ロゼリア様こそ、傷が深いのでは?」


 そう言われて初めて、腕や肩に鈍い痛みが広がっていることに気づいた。戦闘中は気が張っていたせいか、傷の感覚が麻痺していたらしい。ドレスの袖が裂け、血が滲んでいる。でもそんなことは後回しで良い。


 私はふらつく足で馬車の残骸へ向かい、御者の様子を確かめた。


「……御者さん!」


 馬の側にうずくまっていた男が、顔を上げる。彼は血の気の引いた顔で馬を撫でていた。


「お、お嬢様……。こいつが、動けなくなっちまって……」


 見ると、馬の足が崩れた木材に挟まれていた。苦しそうに息をする様子が痛ましい。


「大丈夫、まずはあなたの怪我を見せて」

「俺は……平気です。けど、こいつが……」


 御者は馬の足をどうにかしようと力を込めるが、重い木材はびくともしない。私は膝をつき、ゆっくりと魔術式を組み上げた。先ほどの戦闘で手持ちのスクロールは使い切ってしまったのだ。


「風よ、穏やかに舞え」


 詠唱と共に静かな風が巻き起こり、木材を押し上げる。御者はすぐさま馬の足を引き抜き、優しく撫でた。


「ありがとう、お嬢様……!」


 私は小さく頷き、今度は自分の怪我の処置に取り掛かる。傷口に触れると、鋭い痛みが走った。


「傷ができてしまいましたね。跡にならないと良いのですが」


 シグベルが近寄り、腰のポーチから包帯を取り出した。


「あなたが手当てを?」

「神士ですので」

「法術は使われないのですか?」

「癒しの術を使うには……私の手は血に汚れすぎています」


 そう言ってシグベルは軽く目を伏せる。その影に、触れてはいけない部分に触れてしまったかもしれない、という不安がこみ上げた。しかしそれは彼の容赦のない消毒で霧散してしまう。傷口に沁みる痛みに思わず息を呑んだ。


「……痛みますか?」

「ええ、でも我慢できるわ」


 涙が滲むくらいには痛いが、唇を噛んでなんとか耐える。シグベルは静かに頷くと、慣れた手つきで包帯を巻いていった。


「戦闘はお見事でしたが、もう少しご自分の身を大事にしてください」

「……余裕がなかったのよ」


 私は自嘲気味に笑った。彼が矢を弾いた瞬間を思い出す。あのとき、彼は私を守ろうとして隙を作り、危うく槍に貫かれるところだった。


「あなたがいなければ、私は今ここにいないかもしれないわね」

「そうならずに済んでよかったです」


 シグベルは穏やかに微笑んだが、その瞳には複雑な色が混じっていた。


(……やっぱり、私を守ることで動きを制限されたことを気にしているの?)


 だが、それを問う前に彼は別の話題を口にする。


「ロゼリア様。これを」


 彼が差し出したのは、王冠をくわえた鴉の紋章だった。


「……クレイヴと繋がる、貴族の印ね」


 私は小さく息をのむ。先ほどの剣士の装飾にも、同じ鴉の紋章があった。


「やはり、紋章の貴族が背後にいると考えるべきですね。そして、それがアルヴィン家である可能性は高い……」

「でも、なぜ今?」


 アルヴィン家のことを本格的に調べる前に、先手を打たれた形だ。


「考えられる理由は二つ。ロゼリア様が何か重要な情報に近づいたか、それとも……」

「私の存在自体が邪魔になったか、ね」


 私は苦く笑った。まだ何も掴めていないつもりだったが、向こうはすでに動き始めている。


「このままでは終わらせないわ」


 立ち上がり、視線を霧の向こうへ向ける。鴉の鳴き声が遠くで響く。


「ロゼリア様の怪我もありますし、これ以上の追撃に備えるべきでしょう」

「ええ……でも、次は私の方から仕掛けます」


 私は決意と共に手の中の紋章を強く握りしめた。

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