第32話慈善の狭間(2)
話を終えた私は、孤児院の中庭を抜け、門へと足を進めた。石畳に差し込む陽の光は柔らかいが、吹き抜ける風にはまだ冬の名残がある。背後では、院長と子どもたちが門のそばに集まり、名残惜しそうにこちらを見送っていた。中でも小さな男の子がぎゅっと院長の服の裾を掴みながら、じっと私を見つめている。彼の瞳に浮かぶ微かな期待と不安に、思わず足を止めた。
何か声をかけようかと考えたが、今の私には無責任な言葉しか出せそうにない。そっと微笑んでみせると、少年は少し安心したように院長の影に隠れた。
――また来よう。
そう心に決め、私は門をくぐる。
「次はどうなさいますか?」
傍らを歩くヒルダが問いかける。
「そうね……グラウベン家を調べようと思うわ。教会に行けば何か分かるかもしれない。それから……」
私は少し考え込み、ヒルダへと視線を向けた。
「あなたにはエルンスト家へ先触れを頼みたいの。私がそちらへ伺う前に、訪問の意図を伝えてほしいわ」
ヒルダは静かに頷く。
「かしこまりました。どのように伝えますか?」
「ダイダリーの食糧供給について話がしたいと。ヴィオラ様についても詳細を知りたいし、それに対する私の考えも伝える必要があるわ」
「なるほど。エルンスト家の反応も探ってみますね」
「ええ。無理のない範囲でお願いね」
ヒルダと別れ、私は教会へと向かう。石造りの街並みを抜け、階段を上がると、目の前に荘厳な教会の門が現れた。聖堂の尖塔が高くそびえ、空を切り裂くように鋭く伸びている。その下、ちょうど門から出てきた男の姿に目を留めた。
「シグベル様!」
呼びかけると、シグベルはゆっくりと顔を上げた。普段と変わらない端正な顔立ちだが、どこか陰がある。まるで先延ばしにしていた課題にようやく手を付ける子どものような、憂鬱な色が浮かんでいた。
「おや、ロゼリア様……こんなところで、どうされました?」
静かに微笑むものの、その声に張りがない。私は彼の表情を伺いながら答えた。
「今、グラウベン家について調べているの。聞くところによると、教会とも関係が深いとか。シグベル様は何かご存知かしら?」
シグベルの口元がわずかに引きつる。それはほんの一瞬のことだったが、彼がこの話題を避けたがっているのは明らかだった。
「グラウベン家、ですか……。ちょうど今から向かうところなのですが、ご一緒されますか?」
その誘い方も、どこかよそよそしい。何かがある。そう確信しながら、私は穏やかに微笑んだ。
「ええ、ぜひお願いします」
シグベルは軽く頷き、門の前に停められていた馬車へと向かう。私は彼の後ろ姿を見つめながらふと気づく。彼の歩調が、いつもよりわずかに重い。一体何を隠しているのか。
それを確かめるため、私は彼と共に馬車へと乗り込んだ。
少しの間馬車に揺られ、グラウベン家の邸宅に到着する。すると、門が開ききるよりも先に大型犬が飛び出してきた。黄金色の毛並みを揺らしながら勢いよく駆けてくる。
「シグベル様!」
叫ぶと同時に、犬が跳躍した。シグベルが何かを言う間もなく、彼の胸元へ飛び込み、その勢いで彼は一歩よろめいた。
「うわっ……やめなさい、服が……」
しかし犬はやめない。嬉しそうにシグベルの顔を舐め回し、前足を彼の肩にかけて尻尾を全力で振る。美しく編み込まれた髪が乱れ、聖職者らしい清潔な法衣にも犬の毛がまとわりついていく。
「……なるほど。あなたがグラウベン家に行きたくない理由が分かりましたわ」
私は思わず口元を押さえて笑った。シグベルがこんな風に振り回される姿は初めて見る。
「……どうぞお笑いください、ロゼリア様。この家の犬が異常に私に懐く理由が、私にも分からないのです」
シグベルは困惑しつつも、犬を押しのけようとする。しかし犬はそれを楽しんでいるかのように、ますますじゃれつくばかりだ。
「敬虔な神士様でも、犬の愛からは逃れられないのですね」
使用人が慌てた様子で飛び出してくるまで、私は微笑ましくその様子を見守った。
「申し訳ありません、神士様……この子は本当に神士様が大好きなようでして」
「どうやらそのようね」
「りょ、領主様!? 何か御用でしょうか!?」
謝ったり驚いたりと忙しない使用人だ。彼に「少し当主様とお話がしたくて」と微笑みかける。使用人は戸惑った様子だったが、そのまま中へと案内された。犬の毛を払うシグベルと共に邸宅に向かう。
屋敷の扉が開かれると、ひんやりとした静謐な空気が流れ込んできた。使用人に促され、私はシグベルとともに館の中へと足を踏み入れる。内装は洗練されているが、豪奢というよりは控えめな印象を受けた。金や宝石で飾り立てるのではなく、職人の手仕事を感じさせる家具や落ち着いた色合いの装飾が目立つ。慈善活動を掲げる家らしいと、私は内心で納得した。
玄関先で私たちの到着を報せに行っていた別の使用人が戻り、丁寧に頭を下げる。
「シグベル様、当主様がお待ちです。書斎へご案内いたします」
当然のようにそう告げると、彼は私へと視線を向けた。
「領主様は、こちらの客間でお待ちいただきたく存じます。当主夫人がお相手いたしますので、どうぞご安心を」
私は微笑を返し、シグベルが先に案内されるのを見送った。彼が書斎へと姿を消すのを確認した後、私も使用人の後について別の廊下を歩く。
通された客間は、予想していたよりも簡素なものだった。だが、それは決して質素という意味ではなく、装飾を抑えながらも気品を保ったものだとわかる。白を基調とした壁に、繊細な刺繍の施されたカーテン。磨かれた木製のテーブルには、控えめに花が飾られている。過度な装飾を廃しながらも、訪れた客を粗略に扱うわけではないという意図が感じられた。
「領主様、お待たせいたしました」
優雅な声とともに、部屋の扉が開かれる。現れたのは、品のある微笑をたたえた女性だった。グラウベン家の当主夫人――マリア・グラウベン。
彼女は柔らかく会釈しながら、私の向かいに腰を下ろす。
「急な訪問となり、申し訳ありません」
「いえ、こうしてお話できる機会をいただけて嬉しく思います」
落ち着いた雰囲気と、穏やかな口調。敵意や警戒心は感じられない。少なくとも、こちらの動きを探るために何か隠しているという印象は受けなかった。
「領主様がこのような場に足を運ばれるとは、正直少し驚きました」
「私は領主になって日が浅いので、できるだけ町の様子を知りたいと思いまして。グラウベン家は慈善活動を多くなさっていると聞き、ぜひお話を伺いたく」
「慈善活動など、大袈裟なものではありませんわ。貧しい者を助けるのは当然のことです」
それは心の底から言っているように見えた。貧しい者を助ける。それだけなら聞こえは良いが、どういう助け方をしているのかが問題だ。
「孤児院の子どもたちの働く先を斡旋していただいているとお聞きしました」
「ええ。やはり働いて自分の手で生活することが大切ですもの。それができずに犯罪者区域に送られる者の多いこと……」
どうやら彼女は本当に子どもたちの未来を憂いているようだ。ただ、今寒さに震える子よりも、将来働き手となる子の方に意識が向いている。それを批判することは私にはできなかった。少なくとも、何もできていない私よりは子どもの力になっているのだから。
「そうですね、マリア様のお考えも当然のことかと思います。最近は物資の流通も不安定で、世相も心配になりますものね」
「不安定? 物資に関しては前より早くなって安定したと商人から聞いていましたが……違うのですか?」
「アルヴィン家の商隊が襲われた話はお聞きになられましたか?」
「まぁ、そんなことが……」と驚く彼女の顔に嘘はなかった。
「それに孤児院でも物資の支援が減っていると」
「え……? それは……」
一瞬、マリアの表情が揺らぐ。言葉に詰まり、視線を落とした。
「アルヴィン家の報告では、商隊の出荷量は変わりないと聞いていますわ。それなら、なぜ……?」
彼女は眉を寄せ、指先を軽く組み直す。その仕草には、確かに迷いがあった。
「どこかで滞っているのかもしれません」
「……」
マリアは考え込む。その姿は明らかに動揺していた。答えを知っている人間の仕草ではない。
「代わりに別の市場で物資が潤っているという噂もあるのですが……」
「別の市場?」
……影の市についても、詳しくはないらしい。話を進めるうちに、私は確信を得ていった。この家が裏取引に関わっているとは考えにくい。少なくとも、彼女の態度に偽りはないように思える。
だとすれば、問題の流通経路には別の影が潜んでいるのかもしれない。彼女への報告がアルヴィン家からもたらされているものなら、やはり怪しいのはそこだろう。
(シグベルの方は、どんな話をしているのかしら)
書斎の方角にちらりと目を向け、慎重に言葉を選んだ。
「詳しい話は、私も引き続き調査してまいります。マリア様、本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
私は穏やかに微笑みながら席を立ち、深く礼をする。マリアも立ち上がり、優雅に会釈を返した。
「お力になれることがあれば、いつでもお知らせください。グラウベン家は領主様の調査を支援しますわ」
「感謝いたします」
そう告げて部屋を辞し、案内されるままに廊下を進む。途中、ちょうど書斎から出てきたシグベルと視線が合った。
「終わったようですね」
「ええ、そちらは?」
「収穫はありました」
彼の冷静な声に、思わず目を細める。どうやら私と同じく、何らかの手応えを得たようだ。後で詳しく話を聞く必要がある。
やがて、屋敷の正面ホールに出ると、そこにはグラウベン家の当主が待っていた。
「本日は突然の訪問にもかかわらず、お時間を割いていただき、ありがとうございます」
私は丁寧に礼を述べる。当主は落ち着いた面持ちで頷いた。
「領主殿が我が家を訪れるとは、光栄の至り。何かお力になれることがあれば申しつけください」
「ありがたくお言葉を頂戴いたします。では、これにて失礼いたします」
形式的な挨拶を交わし、シグベルと共に屋敷の外へ出る。澄んだ冬の空気が頬を撫で、息が白く溶けていく。
「さて、お話はどこで?」
「まずは馬車の中で整理しましょう」
シグベルと共に馬車へ乗り込む。屋敷の門が閉ざされるのを横目に、私は静かに目を閉じた。遠くから、馬蹄の音が聞こえる。
ここで得た情報をどう活かすか――それを考えるのは、これからだ。
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