第2話「家にいる"誰か"」



午前3時17分。


沙織は再び、背筋を凍らせる音を聞いた。


カタ、カタ、カタ……


台所から響いてくる食器の音。誰かが資料をめくるような音。キーボードを打つ音。まるで、誰かが仕事をしているような物音が、深夜の静寂を破る。しかし、この部屋で暮らしているのは沙織一人のはずだ。


震える手で布団を握りしめる。デジタル時計の青白い光が、30歳の彼女の蒼白な顔を照らしていた。広告代理店のプロジェクトマネージャーとして、締め切り前の徹夜には慣れているはずだった。しかし、この二週間で起きている出来事は、仕事の疲れでは片付けられない何かだった。


最初は単なる違和感だった。


終電近くに帰宅して冷蔵庫を開けると、確かに買ったはずの惣菜が一つ減っている。デスクの上の企画書が、微妙に配置を変えられている。パソコンの画面が、スリープモードから復帰していた。


これらの出来事は、一つ一つを取り上げれば、単なる記憶違いや機械の誤作動として片付けられるものばかりだった。沙織も最初はそう考えていた。大型プロジェクトを抱え、過労気味なのだと。そう自分に言い聞かせていた。


しかし、その「気のせい」は、日に日にはっきりとした形を持ち始めていた。


一週間前の出来事。深夜のオフィスで資料をまとめていた時、突然メールの着信音が鳴った。差出人は「M・K」。しかし、そのメールアドレスは会社のドメインではなく、開封すると「手伝わせて」という一文だけが書かれていた。翌朝確認すると、そのメールは受信ボックスから消えていた。


三日前の夜。寝苦しさで目が覚めた時、リビングのデスクに人影が座っていた。スーツ姿の女性の後ろ姿。モニターの青白い光に照らされて、必死に何かを入力している。声をかけようとした瞬間、その姿は消えた。しかし、キーボードを打つ音だけは、しばらく鳴り続けていた。


そして昨夜。帰宅すると、デスクの上に見覚えのない企画書が置かれていた。「2022年度第3四半期広告戦略案」というタイトル。しかし、その内容は三年前の古いフォーマットで書かれており、提案内容も時代錯誤なものばかり。最後のページには、赤いペンで「締切厳守」と何度も書き込まれていた。


カタン——


突然、台所の音が止む。代わりに、ゆっくりとした足音が寝室に近づいてくる。ヒールの音。まるでオフィスを歩くような、規則正しい足音。


トン、トン、トン……


沙織は布団の中で目を閉じ、震える声で祈りを唱える。しかし今夜は、その祈りも通じなかった。


「沙織さん」


背後から、かすれた声で名前を呼ばれた。その声は、長時間の会議で疲れた声のように、枯れていた。


「沙織さん。私の、企画書、見てくれましたか?」


振り返る勇気はない。ただ、じっと目を閉じて、朝が来るのを待つ。それが、この二週間での彼女の日課となっていた。しかし今夜は、その日課が通用しない。


ベッドが軋む音がする。誰かが、沙織の横に腰を下ろした。ドライクリーニングされたスーツの生地が擦れる音。


「私にも、チャンスを、ください」


その懇願するような声に、沙織の理性が崩れた。


「いやっ!」


布団を振り払って飛び起きた沙織の目の前に、一つの顔が浮かんでいた。スーツ姿の女性。疲労で窪んだ目の下には、深いくまが刻まれている。それは、まるで鏡に映った自分の姿のようでいて、どこか決定的に違っていた。その瞳は既に生気を失い、灰色に濁っていたのだ。


「私にも、成功する、チャンスを……」


「あ、あ、あ……」


叫び声すら出ない。沙織は震える足でベッドから転がり落ち、必死に部屋の外へと逃げ出した。階段を駆け下りる間も、背後から「提出期限は明日です」という声が追いかけてくる。


気がつけば、沙織は夜の街を走っていた。スマートフォンを握りしめたまま、必死に街灯の明かりを追いかける。そして、友人から聞いた「幽世探偵事務所」の連絡先を探し始めた。普通では解決できない事件を扱うという、その事務所に、最後の望みを託した。





翌日、午後2時。

古い洋館の二階、幽世探偵事務所。


沙織は事務所の扉の前で深く息を吸った。胸元のネームプレートを正し、スーツの襟を整える。しかし、その仕草は日頃の凛とした佇まいとは異なり、どこか取り乱したような印象を与えていた。


「失礼します」


ドアを開けると、重厚な木の香りが鼻をつく。応接スペースには、年代物と思われる革張りのソファ。壁には不思議な模様の掛け軸。そして隅には、幕末期の物と思われる古い鏡台が置かれていた。


事務所内には二人の人物がいた。窓際のアンティークデスクに座る黒服の男性と、ノートパソコンを操作する若い女性。二人とも、沙織の様子を静かに観察している。


「沙織様でいらっしゃいますね」


デスクから立ち上がった男性——天城が、沙織の方へ歩み寄る。その足音は、昨夜聞いたものとは違い、静かで確かなものだった。


「はい。急な相談で申し訳ありません」


「お電話で伺った件、詳しくお聞かせいただけますでしょうか」


応接スペースに案内された沙織は、昨夜までの出来事を説明し始めた。食器の音から始まり、不可解なメール、深夜のデスクに現れた人影、そして昨夜の恐ろしい出来事まで。


話し終えると、天城は深い思索に沈んだような表情を見せる。


「その物件について、家主から何か聞いていますか?」


「ええ、以前の入居者が突然いなくなったと。家賃が安かったので、特に深く考えずに」


その言葉に、天城の表情が変化する。彼は立ち上がり、鏡台の前に立った。


「玲奈、光を」


助手が部屋の明かりを落とすと、鏡台だけが不思議な輝きを放ち始める。天城が鏡に触れると、その瞳が幽かな青色に染まった。


「……見えます」


天城の声が、遠い場所からのように響く。


「三年前の秋。広告代理店K社で、一つの不幸な出来事がありました」


沙織の背筋が凍る。K社とは、彼女が今勤めている会社の最大のライバル企業だった。


「森川香織。28歳。プロジェクトマネージャー」


天城は淡々と語り続ける。


「大型案件を任されましたが、度重なる修正要求と予算削減で、プロジェクトは迷走。最終的に、クライアントから企画を却下され、責任を問われました」


鏡の表面が、まるで波打つように揺れ始める。


「彼女は自宅で必死に企画の練り直しを続けましたが、次第に周囲との連絡も絶え、ある日突然、姿を消した。しかし実際は——」


天城の声が重くなる。


「彼女は自室で亡くなっていた。過労死です。発見されたのは、一ヶ月後」


沙織の顔から血の気が引く。自分も何度か、過酷な締め切りと戦ってきた。あの深夜のオフィスで、もし自分が倒れていたら、誰が気付いてくれただろう。


「そして、その物件があなたの目に留まった。広告業界で活躍する、自分と同い年のプロジェクトマネージャー。彼女の魂は、あなたの中に『自分が叶えられなかった未来』を見たのでしょう」


天城は鏡から離れ、沙織の方を向く。


「今夜、調査に伺います。ただし——」


その表情には、深い同情と警戒が混ざっていた。


「彼女はあなたに『成功』を見出しました。しかし、その執着は次第に『憎しみ』に変わるかもしれない。そうなれば、あなたを自分の世界に引きずり込もうとするでしょう」


夜の集合住宅。沙織の部屋の前で、天城と玲奈が待機している。時計は、午後11時を指していた。


「感じますか?」


天城の問いに、玲奈が小さく頷く。


「はい。でも、敵意は……まだ薄いように思います。どちらかというと、憧れと、羨望が」


「そうですね。ただ、それは諸刃の剣です」


天城がドアノブに手を掛ける。その瞬間、廊下の温度が一気に下がった。







「失礼します」


部屋の中は、異様な静けさに包まれていた。しかし、デスクの上には無数の書類が散らばり、パソコンの画面はスリープモードから復帰していた。まるで、たった今まで誰かが必死に仕事をしていたかのように。


「先生」


玲奈がデスクを指さす。モニターには、エクセルの表が表示されている。それは広告出稿スケジュールのようだったが、日付は全て三年前のものだった。


「この部屋の主は、まだ『あの日』から抜け出せないようですね」


天城が部屋の中央に立つ。


「森川さん、いらっしゃいますか?」


その呼びかけに応えるように、室温が更に下がる。プリンターが突然作動し、企画書らしき用紙を吐き出し始める。


「もう、締め切りには間に合いません」


天城の声は静かだが、力強かった。





「あなたの企画は、中止されてしまいました。しかし、それは——」


「違います」


か細い声が闇の中から響く。デスクの前に、スーツ姿の女性の姿が浮かび上がる。モニターの青白い光に照らされた顔は、疲労で歪んでいた。


「まだ、間に合います。私なら、もっと良い企画が……沙織さんのように、私も成功できるはず」


「もう十分です」


天城の声が、優しく部屋に満ちる。


「あなたは、全力を尽くした。誰も、あなたを責めてはいない」


「でも、私は失敗して……。こんな私が、憧れの人のように、なれるはずが」


森川の姿が揺らぐ。その周りを、企画書の紙が舞い始める。


「沙織さんを見てください」


天城は静かに告げる。


「彼女も、幾度となく失敗を重ねてきた。しかし、その経験が今の彼女を作っている。成功とは、完璧な人間になることではありません」


森川の動きが止まる。


「あなたは、ただ疲れているだけなのです。もう、休んでいいのですよ」


天城の瞳が青く輝き、その光が森川を包み込む。


「本当に、いいのでしょうか」


「ええ。もう誰も、締め切りを急かしたりはしません」


森川の姿が、少しずつ透明になっていく。その顔に、何年ぶりかの安らぎの表情が浮かぶ。


「ありがとう。そして、ごめんなさい。沙織さん、私、あなたに憧れていたんです。でも、それが嫉妬に変わって……」


「私も、たくさんの人に支えられて、ここまで来ました」


沙織が静かに答える。


「あなたは、一人で抱え込みすぎていたのかもしれません」


その言葉に、森川は小さく微笑んだ。


「そうですね。私も、少し休んでみます」


光は徐々に強くなり、そして、ふっと消えた。部屋の空気が、静かに動き出す。デスクの上の書類も、プリンターから出た用紙も、跡形もなく消えていた。


後日、事務所にて。


「不思議なもので」


沙織が報告する。その顔には、健康的な色が戻っていた。


「最近は夜もぐっすり眠れるようになりました。ただ——」


「ただ?」


「たまに、締め切り前の深夜に、誰かが応援してくれているような。そんな、温かい気配を感じるんです」


天城はわずかに微笑む。


「それは、きっと」


窓の外では、春の柔らかな風が吹いていた。オフィス街の喧騒の中に、優しい風が吹き抜けていく。どこかで誰かが、穏やかな笑顔を向けているような、そんな気がした。


(第2話 完)

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