幽世探偵事務所
ソコニ
第1話「消えた友人」
夕暮れ時の古びた洋館。赤く染まった空を背景に、その建物はまるで血に濡れたように佇んでいた。
二階の片隅、「幽世探偵事務所」と記された真鍮の銘板が掛かるドアの向こうで、一台の古い置き時計が三時を告げる。しかし、その音色は何かが狂ったように、通常より一音多く鳴り響いた。
「失礼します……」
かすかに軋むドアの音と共に、制服姿の少女が姿を現した。紺のブレザーに身を包んだその姿は、一見すると普通の女子高生そのものだ。しかし、その目には普通の高校生とは異なる、何か深い影が宿っていた。
「ど、どちらが天城先生でしょうか?」
室内には二人の人物がいた。窓際の机に腰掛けた、漆黒のスーツに身を包んだ青年。その姿は夕陽に照らされ、まるで炎の中の人影のようにも見える。もう一人は応接用のソファに座り、ノートパソコンを操作していた、カジュアルな服装の女性。その指先は、何かを感じ取ったように、わずかに震えていた。
「私が天城だ」
青年は静かに顔を上げた。その瞳は深い闇のように、見る者の心を吸い込んでいきそうだ。
「こちらは助手の桐生玲奈」
「あ、はい。私、御影坂学園の美咲と申します」
少女——美咲は、やや落ち着かない様子で言葉を継ぐ。
「その、噂で聞いたんですが……この事務所なら、普通じゃない依頼も扱ってくれると」
「座ってください」
玲奈が微笑みながら、ソファに座るよう促す。しかし、その笑顔の裏には、何か不安げな影が見え隠れしていた。美咲はおそるおそる腰を下ろした。革張りのソファは、座る度に古い家具特有の音を立てる。
「お茶をお出ししますね」
玲奈が奥へ向かう間、天城は静かに美咲を観察していた。制服は清潔に保たれ、肩まで伸びた黒髪も丁寧に整えられている。しかし、目の下には深いくまが刻まれ、何日も十分な睡眠が取れていない様子が窺えた。その瞳の奥には、言いようのない恐怖と不安が渦巻いている。
「で、どんな御用件だろうか」
天城の低い声が、静かな事務所に響く。その声に、美咲は一瞬身を縮めた。しかし、すぐに決意を固めたように顔を上げる。
「私の親友が、消えてしまったんです」
その瞬間、室内の空気が凍りついたように感じた。窓から差し込む夕陽の光さえ、一瞬弱まったような錯覚を覚える。
玲奈が紅茶を運んでくる足音が、異様なまでに鮮明に響く。カップが受け皿に触れる音は、まるで遠い世界からの警告のようだった。
「警察には相談されたのか?」
「はい、でも……」
美咲は言葉を詰まらせる。その表情には、説明しがたい恐怖と戸惑いが浮かんでいた。
「警察の人は、そんな人物はいないと。戸籍も、学籍も、何もかも……まるで、最初から存在しなかったみたいに」
美咲の声は震えていた。玲奈は思わず、彼女の肩に手を置く。その手が、美咲の震えを感じ取っていた。
「これが……柚葉との最後のLINEです」
美咲はスマートフォンを取り出し、震える指で画面を操作する。表示された会話の最後には、「明日も学校でね!」という何気ないメッセージ。送信日時は一週間前の夜の11時11分。その数字の並びは、どこか不吉な印象を与えた。
「翌日、柚葉は学校に来ませんでした。でも、それだけじゃないんです」
美咲の声が、さらに震え始める。
「朝のホームルームで、先生は柚葉の名前を呼びませんでした。不思議に思って聞いてみると……『そんな生徒はいない』って」
天城は黙ってスマートフォンを受け取る。画面に表示された「柚葉」というアカウント名の横には、小さなアイコンが表示されているはずだった。しかし、その部分だけが異様にぼやけており、何が写っているのか判別できない。
「クラスメイトに聞いても、みんな『誰それ?』って。教室の柚葉の机も、別の子が使っていて。私の携帯の中の柚葉との写真も、全部……」
美咲は携帯の写真フォルダを開く。そこには確かに様々な写真が保存されているが、どの写真にも不自然な「欠け」があった。二人で写っているはずの写真には、美咲だけが一人で写っている。集合写真には、明らかに人と人の間に不自然な空白がある。
「私、おかしくなってるんじゃないかって……でも、このLINEの履歴だけは、消えていなくて」
震える声に、玲奈が優しく手を添えた。その手のぬくもりが、わずかに美咲の震えを和らげる。
「大丈夫よ。私たち、きっと力になれるから」
天城は黙って立ち上がると、部屋の隅に置かれた古い鏡台の前に立つ。その鏡は、幕末期の物と思われる骨董品で、表面には細かな傷が無数に刻まれていた。よく見ると、その傷の一つ一つが、何かの文字のようにも見える。
「玲奈、光を」
玲奈は頷くと、部屋の明かりを落とした。薄暗くなった室内で、鏡面だけが不自然な輝きを放っている。天城は鏡に手を触れる。その指先が、鏡面に触れた瞬間、かすかに青白い光が走った。
「失礼します」
そう呟くと、天城の目の色が変化した。漆黒の瞳が、幽かな青い光を帯びる。その瞳は、もはや人間のものとは思えない輝きを放っていた。
「……見えますね。因果の糸が」
天城は美咲のスマートフォンに触れ、目を閉じる。その瞬間、室内の温度が一気に下がったように感じた。
「柚葉さんは、確かにこの学校の生徒でした。しかし、何者かが彼女の『存在』を消した。まるで、最初から存在しなかったかのように」
その言葉に、美咲の顔が青ざめる。
「そんなこと、できるんですか?」
「できますとも」
天城の声は、どこか虚ろに響く。
「ただし、それには代償が必要です。そして、それを行使できる『場所』が」
天城は鏡から離れ、再び机に向かう。その動作に合わせ、室内の温度が徐々に戻っていく。
「美咲さん。柚葉さんは最近、何か変わったことを口にしませんでしたか?」
美咲は眉を寄せ、必死に記憶を辿る。その表情には、思い出すことへの恐怖が浮かんでいた。
「そういえば……『人生やり直せたらいいのに』って。でも、その時の柚葉、なんだか変でした」
「変、というと?」
「目が……。柚葉の目が、まるで別人のようでした」
玲奈が小さく息を呑む。天城は静かに頷いた。
「御影坂の近くに、『願いの神社』という場所があるはずです。地図には載っていない、人知れない神社です」
その言葉に、美咲の顔が更に青ざめる。
「ああ!柚葉が言ってました。SNSで見つけたって。でも、その投稿……今見ると消えているんです」
「その神社には、『願いを叶える』力があると噂されています。ただし——」
天城は一瞬言葉を切る。その間、室内に重い沈黙が流れる。
「それには『代償』が必要だと。そして、その代償は決して軽いものではない」
天城は立ち上がり、コートを手に取る。その黒いコートは、まるで闇そのもののように深い色をしていた。
「調査に行きましょう。ただし——」
振り返った天城の表情は、いつになく厳しかった。その目には、何か言いようのない暗い予感が宿っていた。
「もし柚葉さんが自らの意思で『存在を消す』ことを選んだのだとしたら、私たちには干渉する権利はありません。そして、その場合——」
天城の言葉が、重く室内に響く。
「彼女を取り戻そうとすれば、代わりに誰かが消えることになる」
美咲は必死に首を振る。その動作は、まるで悪夢から逃れようとするかのようだった。
「違います!柚葉は、そんなこと……!」
「わかりました。では、行きましょう」
夕暮れ時の御影坂。空は既に深い赤に染まり、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。天城、玲奈、そして美咲の三人は、人気のない路地を進んでいく。その道は、通常の地図には載っていない。
古い石段を上がると、うっそうとした木々の間に、朽ちかけた鳥居が姿を現した。その姿は、まるで人を拒むかのように歪んでいる。
「ここです」
天城が足を止める。玲奈が思わず美咲の手を握った。その手は冷たく、震えていた。
「気をつけてね。何か、いる……」
境内に足を踏み入れた瞬間、風が止んだ。まるで時間が凍りついたかのような静けさが辺りを包む。木々のざわめきも、鳥の声も、一切聞こえない。
「天城先生、これ……」
玲奈の声が震える。境内の地面には、無数の足跡が刻まれていた。しかし、それらはすべて境内に向かうものばかりで、帰り道の足跡は一つもない。まるで、この場所を訪れた者が誰一人として帰れなかったかのようだ。
「誰も帰れなかった、ということですね」
天城は静かに拝殿に向かう。その扉は半開きで、中は漆黒の闇に包まれていた。その闇は、まるで生きているかのように蠢いている。
「美咲さん、そのスマートフォンを」
差し出されたスマートフォンを手に、天城は目を閉じる。幽かな青い光が、再び瞳を彩る。その光は、周囲の闇をかき消すように輝いている。
「——見えました」
天城の声が、闇に響く。その声は、どこか別の世界からのものように聞こえた。
「柚葉さんは確かにここに来た。そして、『願い』を告げた。しかし、それは彼女の本心ではなかった」
「どういうことですか?」
「彼女は『消えたい』と願った。しかし、それは現実から『逃げたい』という気持ちの表れに過ぎない。本当は、誰かに気づいてほしかった。誰かに止めてほしかった」
天城は美咲に向き直る。その瞳に宿る青い光が、美咲の心の奥まで見通すように輝いている。
「そして、それに気づいていたのは、美咲さんだけだった」
美咲の目に、大粒の涙が溢れる。その涙は、青白い光を反射して、幻想的な輝きを放っていた。
「私、気づいていたの。柚葉が辛そうにしてるって。でも、声をかけられなくて……」
その告白と共に、拝殿の闇が更に濃くなる。まるで、美咲の後悔の念が実体化したかのように、黒い靄が渦を巻き始めた。
「まだ間に合います」
天城は拝殿の闇に向かって歩き出す。その足取りは確かで、迷いのない意志を感じさせた。
「この神社の力は、『願いの強さ』で決まる。柚葉さんが本当に消えたいと願っていないのなら、私たちの想いで彼女を取り戻せる」
闇の中で、何かが蠢く。影のような存在が、天城たちを取り囲んでいく。その姿は人の形を模しているようでいて、どこか決定的に異なっている。まるで、人の形を理解できない何かが、必死に人の姿を真似ようとしているかのようだ。
「約束を破った者は還さない——」
不気味な声が響く。その声は一つではなく、無数の声が重なり合っているように聞こえる。しかし、天城は毅然として立ち続ける。その姿は、闇の中で青く輝き、まるで光の柱のようだった。
「彼女は約束を破ってなどいません。最初から、これは誤った契約だった」
天城は手を広げ、青い光を放つ。その光は、周囲の影たちを押し返すように広がっていく。
「美咲さん。柚葉さんに、あなたの想いを伝えてください」
美咲は一歩前に出る。彼女の体は震えているが、その目には強い意志の光が宿っていた。
「柚葉!私、ごめんね。気づいていたのに、声をかけられなくて。でも、もう逃げないで。一緒に帰ろう? 私たちの教室に、私たちの日常に、戻ってきて!」
一瞬、境内が青い光に包まれる。その光は、まるで世界そのものを洗い流すように、すべてを包み込んでいった。そして、闇の中から一つの声が響いた。
「……美咲?」
かすかな姿が、闇の中から浮かび上がる。制服姿の少女が、涙を流しながら立っていた。その姿は最初、霧のように曖昧だったが、徐々にはっきりとした形を取り始める。
「ごめんね、私……怖くなって、逃げ出そうとして」
「柚葉!」
美咲が駆け寄り、柚葉を抱きしめる。二人の周りの闇が、まるで砂が崩れるように、少しずつ消えていく。残された影たちは、不満げな唸り声を上げながら、拝殿の奥深くへと消えていった。
後日、事務所にて。
夕暮れ時の柔らかな光が、再び事務所の中を優しく照らしている。
「不思議ですね。学校でも、みんな普通に柚葉のことを覚えているみたいで」
美咲が笑顔で報告する。隣には柚葉の姿もあった。二人の表情は明るく、あの日の恐怖が嘘のようだ。
「ご依頼、ありがとうございました」
天城が静かに頭を下げる。その仕草には、いつもの厳かさが戻っていた。
「いいえ、こちらこそ。これ、お礼の気持ちです」
美咲が差し出したのは、小さな封筒。中には、二人で撮った写真が入っていた。その写真には、確かに二人の笑顔が、鮮明に写し出されている。
「思い出の証ですね」
玲奈が微笑む。天城もまた、珍しく柔らかな表情を見せた。
事務所のドアが閉まった後、玲奈が天城に尋ねる。その声には、まだ僅かな不安が残っていた。
「先生、あの神社は?」
「調査しておきましょう。ただし——」
天城は窓の外、夕暮れの空を見つめる。その瞳に、再び青い光が一瞬だけ宿る。
「人の想いは、時として神よりも強い。それを、今回も学びましたね」
夕陽に照らされた古い洋館に、優しい風が吹き抜けていった。しかし、その風の中に、かすかに「また会いましょう」という声が混ざっていたような気がした。
(第1話 完)
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