第22話 (「幸福な人形」)
気がついた時には木の天井を眺めていた。窓からは柔らかな光が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。隣の部屋から、柔らかく人の話し声がする。しばらくぼうっとして、そして次の瞬間、頭痛と共に記憶が蘇ってきた。
研究室でクリスが暴れて。エリアスはイヴを守るのに必死で。セレナとエミーリオは逃げなかった。
僕は逃げ出してきた。あの研究室から。主人を裏切って。
僕はベッドに横たえられていた。布団をめくって、手足を確認すると、「壊れて」いたはずの部分は全て清潔な包帯で覆われていた。胴体も無事だった。ということはコアも無事だろう。自分が自分として動いている時点で分かってはいたが。
「損傷部分」を手当した者は、僕がただの人間ではないと分かったはずだ。それなのにこんなに無防備に僕を家の中に寝かせている。どんな変わった人間だろう。まさかエリアスと通じている者だろうか。それにしてはのどかな雰囲気が漂っている。
確認するために起き上がったとき、部屋の戸が開いて、
あ!
と、小さな小さな女の子が目と口をあんぐりあけて立っていた。
あ、あ!ラーシュ!あ!
とたとたと、おぼつかない足取りで一生懸命に走って元の部屋に戻って行った。どうした、と、低い声が答えている。おちた!と元気な声が訴える。落ちた?低い声が聞き返し、少し慌てたようにこちらへ向かってくる足音がした。
ああ、起きた、か。
背の高い男が、女の子を抱き上げて部屋に入ってきた。女の子は喜色満面で、おちた、おちた、と、体を揺らしながら歌っている。
男はサイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと、差し出してきた。
水を飲むといい。痛むところは?
落ち着いた空気に、警戒心が少し薄れて、素直に水を受け取って、どこも、と答えた。男は、そうか、と頷くと、床を指差して、あ、あ、と主張する女の子をそっと下ろした。女の子はベッドの脇で爪先立ちをして、ばすばすと勢いよく布団をたたいた。
いたいいたいないない。
こら、とすぐに男に回収される。
病み上がりだ、優しくしろ。
やみや、やり、って、なに?
まだ、元気、ない。
男は苦労して女の子に分かりそうな単語を絞り出した。女の子は、ない、げんち、ない、と、今度は部屋の隅の方を見つめながら手を振っている。何かいるのだろうか。少しヒヤリとしたものを感じながら、僕は男に頭を下げた。
助けていただいたんですよね。ありがとうございます。
男は、うん、と頷いて、食事は取れそうか、と尋ねてくれた。僕は遠慮して、食べなくて平気です、ほら、あの、と言葉を濁し、巻かれた包帯をさすった。男は少し間を置いた後、ああ、と、僕が普通の人間でないことをやっと思い出したように頷いた。
ラースという。これはトゥーリ。
己と女の子を手で示して自己紹介をした。ラウリです、と僕が答えると、女の子、トゥーリは、あーい、とそれっぽい音を発した。
それが僕と、トゥーリとラースとの出会いだった。
僕は幸運だった。重傷で森で倒れていたところを、ラースに助けられ、シモさんというラースの知り合いの医者に手当兼修復をしてもらったのだ。稀有な医者もいたもんだと思ったが、ありがたいことに変わりはなかった。
トゥーリとラースは、二人の家に僕も住めばいいと提案してくれたが、いつエリアスの追っ手がかかるかも分からなかったので、丁重にお断りさせてもらった。けれど結局、僕の住むための家造りを手伝わせてしまった。シモさんがまた手伝ってくれて、何でもできる人だなと驚いた。
トゥーリとラースは度々尋ねてきて、僕も度々彼らの家を訪ねるようになった。薬草を卸す仕事まで紹介してもらって、一緒に探検するようになった。トゥーリの成長をラースと一緒に見守って、毎日のように新鮮な喜びを味わった。
一緒に野宿して、一緒に鍛錬した。一緒に大掃除をして、一緒にジャムを作った。一緒に食事をして、一緒に美味しいと笑った。
そうしていつの間にか、僕は逃げ出したことを忘れてしまった。いや、忘れようとしてしまった。このまま平穏に過ごしていけるのだと信じ込もうとしてしまった。
僕はあまりにも幸福すぎたのだ。
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