3-1 快進撃

「ノゾミぃー!!ストップ!!ストップ!!!」


 国本厩舎所属、厩務員の今浪耕平はノゾミの鞍上から必死にハミを引っ張り止めにかかる。体は完全に前傾で振り落とされまいとしがみつく。するとノゾミはため息をつき、ゆっくりと止まった。イマナミは制御不能の猛獣から奇跡的に生還を果たし、ようやく地面に降り立つ。


「はぁはぁはぁ・・・」


 張り詰めていた緊張の糸が切れ、イマナミは息も絶え絶えの状態だ。膝を折り、よろめきながらノゾミに体重を預ける。ノゾミはそれをいやいやながらも受け入れた。


 かつて河合牧場で暮らしていた【フッカツノネガイ】ことノゾミは、国本厩舎に預けられトレーニングの日々を過ごしていた。普通、トレーニングを積むにつれ、競走馬は闘争心をむき出しにするものだが、ノゾミの場合は人を乗せている時以外は、おだかやで、静かに人の言うことも聞く非常に理性のある馬だった。


 イマナミもこの馬の頭の良さと素晴らしい馬体に惹かれて担当を申し出ていたが、あまりの癖馬ぶりに、その時の判断を時々後悔する毎日だ。ノゾミの気まぐれに振り回される日々は、まるでジェットコースターに乗っているかのようだった。


「おはよう、イマナミ。ノゾミは相変わらずか?」


 美浦の坂路に訪れイマナミに話しかける男。国本厩舎調教師、国本英夫である。


「センセーおはようございます。そうですね。バネは素晴らしいですし、スピードもあります。ただ如何せん制御が・・・」

「あー傍目から見てもそれはわかった」


 イマナミの苦笑に、クニモトは遠くのノゾミを見つめながら、どこか諦めたような表情だった。

 ノゾミはトモを見ても、背中周りを見ても、均整の取れた、ほれぼれする馬体で、実際に走らせてみても、雷のような爆発力、そして風を切り裂くようなスピードを持つ、まさに天賦の才を持っている馬である。普段の様子からおそらく頭も良いのだろう。

 それだけに、人の指示を受けつけない頑なな態度が、クニモトとイマナミには口惜しく感じられた。


 ノゾミは走り出すとまるで人の指示を聞かなかった。加速しろと合図を送っても全く加速せず、逆に意図せぬところで突然猛然と加速する。コース取りも全く指示に従わず、良く言えば自由奔放。悪く言えば傍若無人。まさに、我が道を行く馬だった


「いやー酒の勢いで引き受けて、やっぱり失敗だったかな」


 クニモトはそう言ってアハハとあっけらかんに笑う。

 なぜ、国本英智ほどの名伯楽が、このようなハンデを背負っている馬を引き受けると言ったのか。その理由は、情けないことに酒であった。


 その日、クニモトは、やり場のない怒りと落胆からヤケ酒を飲んでいた。自厩舎の期待の3歳馬が、クラシックへの登竜門であるシンザン記念で惨敗を喫したのである。定年まであと3年。国本厩舎では、受け入れる馬は今年の3歳までで今年の2歳馬からは引き受けないと決めていた。

 そのため、国本厩舎にとって今年は、3歳クラシックに挑戦できる最後の年なのである。そして、国本に預けられた今年の3歳馬は8頭。そのうち6頭は牝馬。残る2頭が牡馬だった。牡馬のうち1頭は早々にダートに転向し、クラシック路線から外れた。そして残りの1頭が新馬戦を突破し、3歳クラシックに望みをぎりぎり繋いでいるという状況だった。クニモトはシンザン記念で賞金を重ね、皐月賞へ駒を進める予定だった。

 しかし、結果は14頭中12着という惨敗。しかもレース後には跛行、検査の結果、全治5カ月以上かかる骨折も判明した。皐月賞どころかダービーにも間に合わない大怪我である。

 クニモトのクラシック挑戦は実質絶たれた。

 クニモトは深い失意の底にいて、冷静さを欠いていた。道端の雑誌で目についた3歳馬に、藁にも縋る思いで、クラシックの夢を託したくなるほどに。

 それからの記憶は曖昧だ。2日後に、河合牧場からノゾミを預かってほしいという連絡が来た時、初めて己の酒癖の悪さを心底呪った。


「まぁゲート試験もすんなり通っちまったし、出走しないわけにはいかないわなー」


 クニモトは、遠い目をして呟いた。

 そう、癖馬のノゾミだが、多くの馬が苦労するゲート試験はあっさりと一発クリアしてしまったのだ。合格しないと高を括っていたクニモトとイマナミは、その光景に目を疑った。

 JRAからも競走能力ありとお墨付きもらってしまったため、来週の3歳未勝利戦に参戦することが決まったノゾミ。2人はそのレースが不安でしょうがなかった。


「まぁ、乗る騎手にはケガしないように回ってくるだけでいいと言っときますわ」

「あぁ。怪我させちまったら申し訳ないしな」


 イマナミの言葉に深く頷くクニモト。ノゾミのせいでレースで怪我人が出るという最悪の事態は避けなければならない。


「ブヒン!!!」


 2人でレースの話をしていると、ノゾミが右前脚をコンコンと叩く。ご飯の要求であると、馬主であるケイゾーから言われたときには信じられなかったが、今ではそれが当たり前になっていた。


「いけね。俺、ノゾミ馬房に戻してメシやってきますわ」


 そう言ってイマナミは馬房に向けて歩き出した。そして鬣を撫でながら言った。


「なぁーノゾミ。お前来週走るんだぞー」

「ブヒ?」


 ノゾミは、間の抜けた声で返事をした。


「俺は心配だよ。いいかー。振り落とすなよー。レースっていうのは人と馬が一緒にゴールしないといけないんだからなー」

「ヒンッ!!」


 ノゾミは「何を当たり前のことを言っているんだ」といわんばかりにため息のような返事をしてきた。その反応を見て、イマナミはさらに深いため息をついて呟いた。


「とりあえず人馬共に無事に回ってくれー着順なんかどうでもいい」


 イマナミは今週末のレースが無事終わることを必死に願う。

 しかし、イマナミの心配はまったくの杞憂に終わる。

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 3歳 未勝利戦 芝1600m

 1着 フッカツノネガイ 1:34:3

 2着 ハナマンカイ   アタマ差

 3着 キーエンス    5馬身差

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