とべないあひるの子

飴。



 花冷えが過ぎ去り、心地よい緑が凛と包み込んでゆく頃、僕はのどかでひっそりとした湖で生まれたそうだ。兄弟の中では十番目で、どうやらいちばん鈍間のろまらしい。


 ママの雪白の羽に、響き渡る声は、僕の知っている中で、なにより美しい。他の兄弟は僕よりずっと黄色が映えていて、可愛げながらも、どこかママに似ているところがある。それに対して水面に映る僕の羽は、黄色や茶色が濁っていてフニャフニャしている。だから自分を見ていると少し悲しい気持ちになる。


 僕には兄弟の中で唯一誇れるところがある。それはとっても頭が良いことだ。生まれて一ヶ月ほどだけど、沢山の言葉を憶えたし、生きるために必要な知識も教わった。


 そんな時、初めての試練が訪れた。お引っ越しだ。僕にはどうしてここを離れるのか分からなかった。でもママが言うんだから、きっと新しい発見があるのだろう。


 僕たちはママの後ろに整列して、置いていかれないよう神経を尖らせる。小川のほとりには大自然が広がっていて、お空や草木、背中からは何かに監視されているような恐怖を感じる。


 僕は鈍間だからと言われ、列の一番後ろにいた。それでもママは、僕のことまでちゃんと見てくれているような気がしたから、ヘッチャラだった。


 ただ、そんな油断は自然界の中では命取りになる。ママが目的地まで半分ほど進んだことを合図をした時のことだ。細長くゴツゴツとした、鋭い眼光を持った生物が、剥き出しの牙に大きな口を目一杯広げて、草木から飛び出してきたのだ。


 ママはそれを「へび」と言った。僕はそれが天敵だと知っていたから、咄嗟にママの元へ駆け寄った。しかし、ヘビはそこに境界線を引いたのだ。そしてこちら側に向けてもう一度牙を剥き出した。


 自然界は寸分の余地も与えてはくれないのだ。切り離された僕たちはママとは反対方向に、そしてそれぞれの道を走った。そのあと兄弟がどうなったのかは分からない、いやきっと考えたくないのだろう。ママの言っていた「ニンゲン」とは違って、僕たちは食物連鎖の中を生きている動物だ。だからその多くは不幸にもお空を知らずに生涯を終える。


 今、僕は生きていて、まだ知りたいことが沢山ある。そう思うと少し冷静になって、ママのことを思い出した。……帰らなくちゃ。


 お空や草木は既に姿を変えて、赤く染ったお星様はお別れを告げようとしている。急いで小川に戻ったが、そこはまるで何事もなかったかのように静かだった。行先は分からなかったので、元のお家に戻ることにした。その道のりはいつもより暗くて、恐ろしくて、とても寂しかった。


 そんな時、またひとつ試練がやってきた。「カァー、カァー」という声が僕の頭上を響き渡り、空を羽ばたくカラスが、僕目掛けて一直線に降下してきたのだ。


 ……もうダメだ。そんな考えで頭がいっぱいになった。ママがカラスは天敵だと言っていたから、食べられてしまうのだとすぐに分かった。しかし、カラスは僕の前で腰を下ろし、言葉を投げた。


「なぜ君は独りなのか」


 なぜそんなことを聞かれたのか、僕には理解ができなかった。


「ママとはぐれたからです」


 そう返すとカラスは少し難しい顔をしてから、また言葉を投げた。


「この先の湖に向かっているのであれば、やめた方がいい。君のお母さんが居るところは知らないけど、君を襲う者がいないところなら知ってるよ。ついてくるかい?」


 そのカラスはとても優しい目をしていて、薄汚れた羽に凛とした体つきは、どこか寂しげで、僕に安心感を与えた。


「お願いします」


 僕はカラスの後をついて行った。夕焼けは次第に衰弱して、多くの星々が顔を出し始める。そんな僕のお引っ越しは、ママとの希望に満ちた世界とは違って、それが抜け落ちた世界に他ならなかった。


「着いたよ。ここなら君を襲う者はいないはずだ」


 そこは小さな湖で、夢心地すら覚えるほどの神秘的な情景は、僕が知っている中で、最も穏やかで、美しかった。そこには僕と同じくらいの生物がポツポツと暮らしていて、すぐに馴染めた気がした。


「ありがとう」


 そう返事をすると、カラスはまた来ると言わんばかりに羽を大きく振り上げて、この場を去っていった。


 僕はお空を見上げた。星々はよりいっそう力強さを増して、まるで未来の数々を映し出しているようだった。その中で一際大きなお星様は、エネルギーに満ちていて、ひび割れて崩れ落ちていた。僕の一番近くに見えていた世界が、当たり前にやってくると信じた未来が、崩れ落ちていくような感覚に陥った。


 「ママはどうしているだろうか」「兄弟はどうなっただろうか」そんな不安はもう過去の事のように思えた。僕はこれからお空を飛ばなくちゃいけない。広い世界を知らなくちゃいけない。独りで生きていかなくちゃいけない。そんな将来への不安が、僕を包み込んだ。哀しみに澄んだ青い海はお星様に照らされて、濁りながらも、よく輝いていた。

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