第6話 食卓

「うわあ……」


 寒さですっかり血の気の失せたヒデオの唇から、思わず感嘆の声が漏れた。

 分厚く頑丈な樫の扉の向こうは、まさしく異世界だった。


 優美な曲線を描く高い天井。

 複雑に入り組む焦茶色の梁。

 漆喰で塗られた壁には、繊細な唐草模様の装飾。

 天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、黒い鋳鉄の枠に無数の色ガラスを組み合わせた宝石細工のようなものだ。内側に灯された蝋燭の光が虹色に乱反射し、降り注いでいる。

 その柔らかな光が店内全体を包み込み、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 広々とした開放感のある店内には、二階、三階に至るまで数えきれないほどのテーブルが並び、料理と酒を楽しむ大勢の客でひしめき合っている。

 豪快に肉を食いちぎり、唇の脂をよく冷えた麦酒で洗い流す男たち。

 具沢山のスープを掬いながら、友人の恋愛相談に花を咲かせ、「そんな男とは早く別れなさい!」とかしましく笑う女たち。

 賑やかなテーブルの隙間を、山積みの皿を抱えた給仕たちが忙しく行き交う。


 香辛料の溶け込んだ熱々のシチューの湯気。

 炭火の上で踊る腸詰の香ばしい煙。

 蜂蜜漬けにされた果物の素晴らしい輝き。


「ここが、食堂……?」


 雰囲気に圧倒されたヒデオは呆然と呟く。

 自分が思い浮かべていた食堂とは、まるで違う。

 ここはまるで——王族や貴族が集う、宮廷の宴席のようだ。

 怖気付くヒデオの様子に、アズラハーンは小さく喉を鳴らす。どうやら笑っているようだ。


「規模は大きいが、まあ、この近辺では普通の食堂だよ。バズラミールの住人がほとんどだが、外部の商人や旅人もよく来る」

「バズラミール?」

「この街の名前だよ」


 アズラハーンは尻尾をしゅるりと優雅に動かす。シャンデリアの輝きに、黒曜石の鱗が輝く。


「海と砂漠の王国。東と西が交わる場所。交易都市バズラミール。人も金も物も、どんなものでも手に入る。君も、何かを求めてここにやって来たのではないかね?」

「それは……」


 竜の問いかけに、ヒデオは答えられなかった。

 偶然の事故に巻き込まれたヒデオは、間違いなく一度死を迎えた。

 そして、気付いたときには、ここにいた。

 街の様子や、アズラハーンの言葉から察するに、この世界に『バズラミールを知らない人間』は存在しないのだろう。

 ヒデオは慎重に言葉を探す。

 どう答える?


「実はこの世界とは別の世界からやってきました」


 ——最悪だ。

 つまらない冗談だと判断されるか、精神を病んだ人間だと思われかねない。


「閉鎖的な田舎から逃げるため、目的地も確かめず船に乗りました」


 ——悪くない。及第点だ。

 物知らずな田舎者のフリをすれば知識がなくとも誤魔化せるかもしれない。


「俺は……」


 ヒデオは口を開きかけ、ふと、背中に刺さる視線に気付いた。

 咄嗟に振り返れば、白い長衣に瑠璃色の短外套を羽織った男が笑いながら手を振っている。

 遮光眼鏡の奥から覗く瞳は、奇妙な風体の少年を値踏みしていた。


「……さすが、キャラバン。目ざといな」

「へ?」

「いいや、こちらの話さ」


 アズラハーンは柘榴石の瞳を細め、ヒデオを奥の個室に案内する。

 個室には座り心地のいい長椅子と、立派な胡桃のテーブルが置かれていた。

 その入り口には豪華な刺繍の施された絹の紗幕が下がり、密談にはもってこいだ。

 二人はテーブルを挟み、向かい合わせに座る。


「まずは食事にしよう」


 アズラハーンが合図すると、控えていた給仕たちが料理を運び込む。

 濃厚な羊肉のスープ。

 トマトのひき肉詰め。

 ヨーグルトソースで和えた果物のサラダ。

 釜の内側に押しつけて焼き上げた平たいパン。

 美しく盛り付けられた料理を前に、ヒデオは手を出しかねていた。

 本当に食べてもいいのだろうか。

 ただほど怖いものはない。

 何か見返りを要求される可能性もある。


「心配しなくとも毒など入っていないよ」


 アズラハーンは羊肉のスープを一口啜る。

 鋭い鉤爪の生えた指先で器用にスプーンを操り、耳まで裂けた口で上品にスープを味わう姿は、気品すら感じられる。

 育ちがいいのだと一目でわかる挙措だった。


「ほら、大丈夫だろう?」

「べ、別に疑ってるわけじゃねえよ!」

「そうかね?」

「そうだっつってんだろ!?」


 ロナルドは乱暴にスプーンを引っ掴むと、スープを掬う。

 真っ赤なスープは、その強烈な見た目に反して、辛味は感じられなかった。

 よく煮込まれた野菜と香辛料のまろやかな風味、羊肉の力強い旨味が重なり合い、空きっ腹に優しく染み込んでいく。


「うまっ、なんだこれ、初めて食った」

「気に入ったかね?昔からある郷土料理だよ。豆を入れたり、骨付きの牛肉で作ることもある」

「知らねえ味だけど、ホントに、うまいな」


 先程までの疑念も忘れ、料理の掃討戦に熱中するヒデオを、アズラハーンは微笑ましく見つめた。


「ほらほら、焦って食べなくても料理は逃げない。お茶を飲んで。野菜もちゃんと食べるんだよ」


 アズラハーンの手がヒデオの頭を撫でる。母親が子供を慈しむような、そんな手つきだった。




 



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交易都市の異邦人 @AO1026

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