第18話 電話

 家に帰り着くと、私は鞄をソファに置き、ふうっと息をついた。


 水族館で過ごした時間は、思いのほか楽しかった。

 あの静かで穏やかな青い世界に包まれていると、時間を忘れるような心地よさがあった。その余韻がまだ心の奥にじんわりと残っている気がする。


 リビングの時計に目をやると、針はもう夜の時間を指していた。

 私はふと、喉が渇いていたことに気づき、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 冷たい水が喉を通る感覚が、なんとなく心を落ち着かせた。


 しばらくぼうっとしてから、私はようやくソファに腰を下ろし、鞄の中からスマホを取り出した。


(……そういえば)


 私はスマホの電源を切っていたことを思い出す。

 穂香からのメッセージが気になって、何度も画面を確認してしまう自分が嫌で、水族館の途中で電源を切っていたのだ。

 電源ボタンを押し、しばらくすると画面が明るくなる。 通知音が立て続けに鳴った。


 ──画面には、複数の未読メッセージと、不在着信の履歴。


 すべて、穂香からだった。

 胸がざわつく。


 無意識に、指先が震えた。

 メッセージの一覧を開く。


『結菜、元気?』

『ちょっと話せる?』

『電話出られない?』


 穂香の名前の横には、不在着信の通知が何件も並んでいた。

 見た瞬間、心臓が跳ねる。


(……こんなに)


 こんなにも連絡が来ているなんて思わなかった。

 それだけ、穂香は私と話したかったのだろうか。


 指が迷う。

 返信をするべきか、それとも、もう少しこのままでいるべきか。


 水族館では、私は穂香のことを考えずにいられた。

 でも、家に帰って、一人になると、やっぱりこうして穂香のことを考えてしまう。


 結局、私はメッセージを開き、短い返信を打ち込んだ。


『ごめん、気づかなかった。どうしたの?』


 送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめる。

 数秒もしないうちに、『既読』の文字がついた。


(……そんなにすぐ)


 それが意味するものを考えた瞬間、スマホが震えた。

 画面には、穂香の名前。


 ──電話。


 私は、息をのんだ。

 出るべきか、それとも。


 ほんの数秒迷ってから、指を滑らせた。


「……もしもし」

『結菜……』


 穂香の声が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 声が、いつもより少しだけ不安げに聞こえた気がした。


「ごめんね、気づかなくて」

『ううん……それより、今、少し話せる?』


 穂香の問いかけに、私は一瞬言葉を詰まらせた。

 何を話すつもりなんだろう。

 この電話の向こうで、穂香はどんな表情をしているんだろう。


「……うん、大丈夫」


 そう答えた瞬間、電話の向こうで、小さく息を吸う音が聞こえた。


『ねえ、結菜……今日一日、どこにいたの?』


 静かな声なのに、逃げ場のない圧がそこにはあった。


 どう答えればいいのか、一瞬迷う。

 さっき冷たい水を飲んだばかりなのに、喉の奥がじわりと渇いていく感覚がした。

 やましいことなんて何もないはずなのに、なぜか息苦しさすら覚える。


 でも、穂香の声は、どこか不安そうで、何かを確かめるようで。

 私は、小さく息を吐いた。

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