第17話 呼び方

 水族館を出た後、私たちは帰り道を歩いていた。 


 空はすっかり夕焼け色に染まり、地面に伸びる影が長くなる。

 日中の賑やかさとは打って変わって、どこか静かな雰囲気が漂っていた。


「今日は楽しかったね」


 隣を歩く詩織が、ふと呟く。


「……そうだね」


 自然とそう返したけれど、思い返せば本当に楽しい時間だったと思う。

 気を遣うこともなく、ただ目の前の景色や会話を楽しめた。


 静かに揺れる水面の光、ゆったりと泳ぐ魚たち。

 そういうものを眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いていく。


 館内に満ちるひんやりとした空気も、柔らかな水の音も、静かに染み込むように心を落ち着かせてくれた。


 穂香と一緒にいるときは、こういう静かな時間を意識することはあまりなかった。

 彼女といると、自然と視線は彼女のほうに向いていたから。


 でも今日は、目の前の景色に集中することができた。

 穂香のことを思い出すこともなく、ただ目の前の水槽に広がる青い世界に溶け込んでいた。


 こんなふうに過ごすのは、久しぶりだった気がする。


「七瀬さん」


 詩織が、少しだけ歩調を緩めながら言う。


「ん?」

「私、そろそろ呼び方を変えてもいい?」

「……呼び方?」


 不意の言葉に、私は彼女の顔を見る。


 詩織はまっすぐ前を向いたまま、だけど、どこか探るような視線をこちらに向けていた。


「ずっと七瀬さんって呼んでたけど……もう少し距離を縮めてもいいかなって」

「別に、好きにすればいいけど……」


 思わずそう返しながら、何となく視線を逸らす。


(……距離、か)


 詩織との距離を縮めることに、抵抗はない。

 むしろ、今日一日一緒に過ごしてみて、思ったよりも普通に接することができた。


 「じゃあ……結菜ちゃん、って呼んでみてもいい?」


 詩織の声は静かで、けれどどこか確かめるような響きを持っていた。


「……別にいいよ」


 少しの間を置いて答えると、詩織は微かに微笑んだ。


「ありがと、結菜ちゃん」


 そう言われると、なんとなくむずがゆい感じがする。

 今まで、誰かに名前を呼ばれることに意識を向けたことなんてなかったのに。


「なんか、新鮮かも」


 そう言うと、詩織は少しだけ笑った。


「じゃあ、これからもそう呼ぶね」

「うん」


 並んで歩く足並みが、自然と揃う。


 道の先には、ちらほらと行き交う人の姿が見える。

 ゆっくりと流れる時間の中で、日が沈みかけていく。

 水族館のひんやりとした空気とは違う、柔らかく温かい風が頬をなでた。


 歩きながら、ふと顔を上げる。

 見上げた空には、薄暗い橙色が滲んでいた。


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