第三十三話「夏目康二の計画」
二十年前。
夏目康二に、愛する妻ができた。
名は、愛子という。
出会いは、仕事現場でのことだった。
依頼を受け、いつも通りに仕事をこなした後、
掃除屋に連絡を入れると、そこにやってきたのが愛子だった。
毅然としたその姿に、康二は一目惚れした。
ほどなくして二人は結婚した。
同じ世界に身を置く者同士の結婚は、それほど珍しくもなかった。
康二も愛子も、読書が趣味だった。
康二は主にノンフィクションを、愛子はフィクションを好んだ。
二人は旅先で読書を楽しむことが多かった。
しかし、穏やかな日々が続くほど、
康二の中で違和感が募っていった。
昼は愛する妻と平凡な幸せを紡ぎ、夜は人の命を奪う。
その乖離に、次第に耐えられなくなっていった。
そんなある日、康二は親友である開発屋の瀬良誠一に連絡を入れた。
「……あ、もしもし。誠一、今大丈夫か?」
「ああ、久しぶりだな、康二」
康二の親友である誠一。
マニアックな知識を共有し合ううちに意気投合し、
何度も仕事を共にしてきた仲だった。
一度、咳払いをしてから、康二は本題を切り出した。
「……俺、もうこの仕事辞めたいんだ」
「仕事って……お前、殺しをか?」
「ああ」
「……これまで誰もしなかったっていうことは、そういうことなんだろうよ。できないんだ。分かるだろ? もう、こういう生き方しかできないんだよ。俺らは。生まれた時から、もう関係性が出来上がってる」
「……だから、システムごと変えるしかないと思うんだ」
「システムごと……?」
「最終的に逃げるために、新しいシステムを作る。それが可能なのかどうか、誠一に聞いてもらいたい。そして……手伝ってほしい」
長い沈黙が流れた。
この話を聞くということは、
誠一にとって重い決断を迫られることを意味していた。
「……聞くだけだからな」
「恩に着る。早速、全体像から話したいと思う——」
康二が描いた新システムの構想は、
従来の暗殺システムの関係性を根本から覆すものだった。
従来のシステムは、暗殺屋、掃除屋、開発屋の三つの組織を中心に成り立ち、それぞれが役割を担いながら情報を共有し、効率的な暗殺ネットワークを築いていた。さらに、暗殺屋同士も依頼の分担や技術の交換、標的を巡る対立などで複雑につながっていた。
だからこそ、誰かが抜ければ、全体が揺らぐ。
組織を裏切る者は、家族ごと抹消され、逃げることなど不可能だった。
ならば、関係そのものを消せばいい。
康二はそう考えた。
組織間のつながりを完全に断ち、互いを知らずとも仕事が成立する匿名システムを作れば、すべての暗殺者が「個」として完結できる。情報は分散され、直接のつながりは不要になる。
このシステムが完成すれば、いずれ自由になれる。
そう信じて、康二は動き出した。
「……考えは、分かった。そして、技術的にも実現できるかもしれない。でも、問題がある。コアメンバーが必要になる。最低でも十人」
康二は頭を抱えた。
信頼を置けるのは誠一と愛子くらい。
しかし、愛子を巻き込むなど論外だった。
「……すまない。誠一の信頼できる人は何人いる」
「三人、かな」
「誠一の技術でコアメンバー五人でいけないか……?」
「……っ、わかったよ。それでやってみるよ」
こうして二人は話し合いを重ね、システムの全貌を固めた。
まず、暗殺屋、掃除屋、開発屋それぞれが独立したチェーンとして存在するネットワークを構築する。登録には生体認証が必須で、依頼は匿名で条件や詳細を記して投稿され、承諾されると契約が成立する。依頼が実行されなければ、そのアカウントは永久追放される。ただし、失敗した場合は報酬のみ支払われない。
また、このシステムを運営するためのコアメンバー、すなわち康二や誠一などは、参加者の情報を知らず、システムの修正や改善はコアメンバー全員の承認がなければ実施されない仕組みとなる。
そして、この新システムが普及し、従来の体制が崩壊した後、
康二はコアメンバーの承認を得た上でシステムから退場する計画だ。
それから一ヶ月後、誠一はプロトタイプを完成させた。
コアメンバー五人は顔を合わせ、決議に使うマスターキーを各自登録した。
そして、実際に運用が始まった。
初めは怪しいと疑わられていたが、
次第にシステムの利益率の高さに気づく者が増えた。
あっという間に参加者が増加。
直接依頼はみるみる減り、ついには二年間でゼロとなった。
そんな六月のこと。
季節雨が煌々と輝く背景の下、愛子は子供を授かった。
生まれる直前まで名前が決まらなかった康二は、窓からの景色を見ながらプロポーズした際、愛子が流した涙を思い出して、娘の名前を『雫』に決めた。
——夏目雫。 美しい名前だ。
新システムも完成し、愛する子も誕生した。
これ以上の絶好のタイミングはなかった。
数日後、地下の一室、コアメンバーが活動する部屋で、康二は口を開いた。
「なあ、聞いてくれ。俺に子供ができた!」
康二は珍しく声を張り上げた。
「ほ、本当か! おめでとう!」
誠一は涙ぐみ、他のメンバーも次々と祝福した。
「……ありがとう。さすがに、なんというか……くるものがある。あ、あと女の子で、名前は雫っていうんだ」
康二は、一眼レフで撮った写真を見せる。
「かっわいいな。愛子さんは綺麗だから、きっと美人になるぞー」
「俺に似るかもしれないだろ」
「……愛子さんに、似てほしいな」
誠一がじっと俺を見てそう言った後、
康二と誠一はじゃれあい、それを見て皆で笑い合った。
「……それで、まだ、言わなきゃいけないことがあるんだ」
「もう、お腹いっぱいだぞ?」
「コアメンバーから抜けさせてもらおうと思う」
誠一の笑顔が一変し、康二を睨みつけ、
場の空気は一気に冷たくなった。
「……何を言ってんだ、お前」
「初めからそう言っていただろう?」
「……お前、俺らを、売る気だろ?」
予想外の一言に康二は焦燥の色を浮かべた。
「う、売るって……何のことだ?」
「惚けるな。このシステムの反対者に情報を売り飛ばすつもりだろうが!」
誠一は怒号を浴びせた。
「そんなことするわけがない! そもそも、そんなことをして俺に何の得がある?」
「いや、これだけの匿名性を確保したシステムだ。どれほどの価値があると思っている? これを売れば、一体いくらになるんだろうな」
康二は眉間に皺を寄せ、怒鳴り返した。
「もう、いい加減にしろ! 俺はこのシステムから抜ける。いいな? もし承認しなければどうなるか分かっているだろうな? 俺が今後署名しなければ、システムはどうなる? 一週間で答えを出せ」
康二は言い終えると、地下室のドアを乱暴に開け、外へ出た。
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