第19話 背中に不可避の衝撃が

 転移した瞬間、視界が激しく揺れた。全身を空中に放り出され、どこまでも落ちていくような、そんな感覚。


 ──ドサッ!


 突然、容赦ない衝撃が背中を襲った。固い床に叩きつけられ、俺は呻くことしかできなかった。


「……うぐっ、いってぇ」


 着地は失敗。ぼやけた視界をこすりながら、どうにかして身体を起こす。そうして目に映ったのは、なんとも異質な空間だった。


 壁も天井も床さえも、すべて継ぎ目のない灰色の石でできた部屋。湿った空気が肌に張りつくようで、不快な感覚が身を包んだ。さっきまで居た二十階層とは全く異なり、不気味な雰囲気が辺りを覆う。 


 追っていたはずのスカラベゴールドの姿は、もうどこにもなかった。


 ──どこだ、ここは?


 転移トラップであるのは分かっていたが、問題なのはその転移先。マップにこんな場所の記載はなかったはずだ。


 ここは迷宮内の隠し部屋、といったところだろうか。過去、他のダンジョンで見つけた時も、こんな感じだった気がする。しかし、この部屋には出口が見当たらず、脱出手段はわからなかった。


「……これは、閉じ込められたってことか?」


 舌打ちしつつ、警戒して周囲を見渡す。


 ──そうだ、ルゼは?


 そう思ったのも束の間、キンッ!と鋭い金属音が耳をつんざいた。


「なんだ?」


 すぐさま音の鳴った方に視線を向ける。そこにいたのは、禍々しいオーラを放つ巨大な騎士の姿だった。


 全身を漆黒の鎧に身を包み、その隙間からは瘴気のような黒い靄が漏れ出している。目測でも二メートルを超える巨体。その手には、人の身では扱いきれぬほどに長い両手剣。ヘルムの奥からは双眸が妖しく輝き、堂々とした立ち姿からは圧倒的な威圧感があった。


「……おいおい、冗談だろ」


 喉がごくりと鳴る。嫌な汗が背中を伝い、心臓が早鐘のように鳴った。


 ──やばい。コイツはやばすぎる。


  名前も正体も分からない。だが、ただの騎士系モンスターなどという、生易しいものではないことだけは確かだった。一瞬対峙しただけで、その絶望的なまでの強さが肌で理解できた。


 恐らく、今まで戦ってきた階層主よりも余裕で格上。それどころか、全体で見ても最強クラスの存在かもしれない。こんな化け物が、なぜこんな場所にいるんだ。


 そして、その足元には一人の少女がいた──


「……ッ!」


 ルゼだ。彼女は既に、この黒騎士と対峙していた。


 何度も斬られたのか、全身傷だらけで満身創痍。コートの至るところが切り裂かれ、赤黒く血が滲んでいる。肩で荒い息をしながら、それでも剣を握りしめていたが──やはり、力の差は歴然だった。


「……はぁはぁ。まだ、負けるわけにはいかない!」


 ルゼはか細い声で叫び、渾身の力を込めて剣を振るう。しかし──


 ガンッ!


 黒騎士はその一撃を、わずかに剣を傾けるだけで簡単に受け流した。その衝撃で彼女の体が弾かれ、バランスを崩して床にへたり込む。


「う、嘘……?」


 震えた声が漏れた。その声色に滲むのは、単なる恐怖だけではない。圧倒的な実力差に対する悔しさや焦り、無力さに対する絶望感。そして、死が迫ってきているという現実への拒絶……。


 それでも、ルゼは諦めなかった。剣を杖のようにして、震える腕でなんとか立ち上がろうともがく。しかし、酷使した脚はガクガクと震え、言うことを聞かない。


「動け、動きなさいよ……ッ!」


 自分を叱咤するその声が、かえって痛々しく聞こえた。もう、まともに戦える状態じゃないことは、誰の目にも明らかだった。


 ……クソッ、なんなんだよ。


 彼女の姿に胸が締めつけられる。赤の他人のはずなのに、厄介な女だと思っていたはずなのに。こんな感情を抱くのは、久しぶりだ。


 だが、無情にも黒騎士は動き始めた。鎧がカシュン、カシュンと鈍い音を響かせながら、迷いのない足取りで距離を詰めてくる。そして、ルゼの目の前で止まると、黒い大剣を天高く掲げた。


 それは、紛れもない明確な殺意。


 ──彼女を、殺す気だ。


「どうすりゃいい……?」


 今から魔眼の力を……いや、だめだ。発動するには時間が足りない。俺が力を呼び覚ますより、黒騎士の剣が振り下ろされるのが先だ。


 視線の先で、ルゼの瞳は絶望に染まっていた。もう恐怖ではなく、それは諦め。避けられない終わりを受け入れようとしている顔だ。


 心臓が強く打つ。全身の血が警鐘のように脈打つ。


 ──ふざけるな。俺の目の前で、死なせるものか。


「やるしか、ねえ……!」

 

 もう、考えている暇はなかった。


「アクセルブースト!!!!」


 全身に魔力を叩き込み、瞬発力を極限まで高める。骨が軋み、筋肉は悲鳴を上げるが、それに構っている余裕はない。


 振り下ろされる大剣。ルゼの肩が小刻みに震えた。


「あぁ……」


 小さく呟く声は、ただ最期を悟った者の息遣い。


「ルゼッ!!」


 俺は全力で地を蹴った。


 風が裂ける。地面が砕けると同時に、全身を駆け抜ける加速の熱。この一瞬に、全てを懸けるしかなかった。


「どけえええッ!!!」


 咆哮と共に、伸ばした手が彼女に届く。


「えっ、なに──」


 何が起きたか分からず、驚きに見開かれた青い瞳。ルゼの体を、俺は渾身の力で突き飛ばした。壁際まで吹き飛ぶほどの、容赦のない力で。


 その、瞬間だった。


 ズバァッッ!!


 背に受けた重い衝撃。焼け付くような激痛が、右肩から脇腹までを引き裂いた。


「ぐ、がっ……!!」


 口から熱い血の塊が噴き出した。視界は滲み、耳鳴りが頭を支配する。肺はまともに空気を取り込めず、ただ空しく喘ぐばかりだった。


 だが、それでも俺は踏みとどまる。

 今ここで、倒れるわけにはいかなかった。


「な、何が起こったの……」


 壁に叩きつけられた衝撃で咳き込んでいたルゼが、ゆっくりと顔を上げた。そして、血まみれになった俺の姿を見て、息を呑んだのが分かった。


「あんた!? どうして、なんで私を……!?」


 焦る声が聞こえる。ルゼが何かを伝えようとしているようだが、意識が朦朧として上手く聞き取れない。


「……お前が、勝手に突っ込むからだろうが」


 血混じりの声で、無理やり言葉を押し出す。


「だからって、あなたには助ける義理なんて……!」

「うるせぇ」


 ルゼは何かを言いかけたが、その前に遮った。


「これはただの気まぐれだ。理由なんてねぇよ」


 ――理屈なんてどうでもいい。目の前でこいつが死ぬのが嫌だった。だから思考よりも先に、体が動いた。それだけのことだ。


「おい、お前は下がってろ。ここから先は、俺一人でやる」

「なに言ってるの!? そんな身体で戦えるわけ──」

「こんな傷、大した問題じゃない。だから、そこで黙って見てろ」


 目を見開いたルゼが、息を呑んだ。その視線の先で、俺はゆっくりと眼帯に手をかける。


「な、なにをしてるの……?」


 その問いに、俺は小さく笑った。


「……ははっ。ホント俺、何してるんだろうな。まさか、人間の前でこの力を使うなんてよ」

「え……?」

「ま、仕方ねえな。これも生き残るためだ」


 一瞬のためらい――けれど、それを吹き飛ばすように腕を振り上げ、眼帯を一気に引き剥がした。 


 バチンッ、という乾いた音。冷たい空気が肌に触れ、右目に絡みつく封印が解かれていく。


 その瞬間、世界が反転した。


 視界が赤黒く染まり、皮膚の下で脈打つ魔力が暴れ出す。傷の痛みはどこかへ消え、代わりに得体の知れない力が覚醒していく。


 これが俺の本来の力──内に眠っていた悪魔の力を解放した。


「……よし。これでまだ戦える」


 低く唸るように呟いた。ルゼが一歩、後ずさる気配が伝わってくる。


「なに、この感じ……?」


 理解できないものに対する、本能的な怯え。俺の右眼を見た瞬間、ルゼの顔から血の気が引いていく。そこにあるのは、血のように紅い瞳孔。


「その眼、人間の瞳じゃない。あなたまさか──」

「……黙れ」


 名乗るつもりも、語るつもりもない。この力が何であれ、彼女には関係のないことだ。


「これは俺の問題だ。お前が知る必要はない」

「で、でも……!」

「詮索してる暇があったら、さっさと離れろ。今のお前じゃ、俺の足手まといにしかならない」

「……ッ!」


 ルゼは悔しそうに唇を噛んだ。怒りと戸惑い、そしてかすかな哀しみが、彼女の瞳に揺れていた。


「あいつを倒すまでは、絶対に近寄るな」


 それだけ告げると、黒騎士に向かって歩き出す。


 右目からは魔力が溢れ出し、うるさいほどに鼓動が早まる。けれどもそれは恐怖ではなく、異常な力を受け入れたその代償――


 そのタダならぬ気配に、黒騎士も反応した。


 瞬きすらしないはずの鋼の巨体が、初めて警戒するようにわずかに重心を落とす。兜の奥で輝く赤い双眸は俺を明確に『敵』とみなし、その眼光を鋭くした。


 俺たちは睨み合う。紅い魔力と黒い殺気がぶつかり合い、剣を抜く指に力がこもる。


 もう逃げ道はない。後戻りはできない。


「今度は……こちらから行く!!」


 漆黒の剣を握り締め、俺は一歩前へ踏み出す。刃を交えるその瞬間は、すぐそこまで迫っていた。

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