第5話 空腹は最恐のスパイス
幸い、ここは大都市ではないみたいだった。門の作りもそこまで厳重ではなく、門番の数も二人しかいない。人が通るときに身分証を確認しているが、全員細かくチェックしているわけではなさそうだ。
つまり、うまくやれば忍び込める――!
「これは仕方ねぇよな。うんうん、仕方ない仕方ない」
悪いとは思う。が、この際どうしようもない。
「……サイレントミスト」
俺は小声で呟き、魔法を発動する。
静寂をもたらす霧の魔法。周囲の空気をぼやけさせ、存在感を薄くする。完全に透明になれるわけじゃないが「誰かがいる気がするけど、気のせいか?」くらいのレベルにはなる。これでどさくさに紛れて侵入しようってハナシだ。
もちろん、無敵というわけではない。相手が警戒していたら見破られる可能性もあるし、無理に大きな動きをすれば目立つ。結構危険な賭けに出たってことだ。
俺はさりげなく列の最後尾に並んだ。
そして、じっと機をうかがう。
ひとつ前の通行人の番まで来た。彼が門番と会話している間に、何気ない素振りで列を抜け脇を歩いていく。
極力、音を立てないようにゆっくりと。
一歩。もう一歩。
気づかれるなよ……。
「……おい、次の!早くしろ!」
背後から門番が後ろの人を呼ぶ声が聞こえる。
……よし、これはいける!
そのまま俺は足早になりすぎない程度の速度を保ち、街の中へと足を踏み入れた。
——バレてねぇ、よな?
鼓動を抑えながらそっと振り返る。門番たちは変わらず身分証を確認しており、俺の存在など眼中にない様子だった。
……フフッ、勝ったな。
安堵とともに、わずかに口角が上がる。
こうして見事不法侵入を果たした俺は、何食わぬ顔で街の通りへと紛れ込んだのだった。
……これ、大丈夫? 後で捕まらないよね?
そんな不安が湧き上がってくるが、今さら引き返せるわけがない。何事もなかったかのように振る舞うしかない。俺は息を整えて、ゆっくりと通りを進んでいった。
街は想像以上に賑わっていた。
行き交う人々のざわめき、行商人の威勢のいい呼び込み、荷車の車輪が軋む音。そこかしこに生活の音が満ちている。
──すごいな。みんなこんな風に生きてんのか。
目の前の光景に圧倒されながら、道の端っこをそろそろと歩く。人混みの中に突っ込む勇気なんてない。
だが、そんな俺の思考をぶっ飛ばすような事態が起きる。
「おいおい、いい匂いすぎるだろ……!」
屋台が並ぶ通りに差し掛かった途端、俺の鼻腔が刺激される。この世のすべての善が詰まったような香りだ。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、鉄串に刺さった肉が滴らせる脂の芳ばしさ、スープ鍋から立ち上る濃厚な出汁の香り──
いや、これもう飯テロどころの話じゃない。飯による暴力。圧倒的な破壊力。
「おお、食い物だ……!」
無意識にふらふらとそっちへ向かいそうになる。やばい、今の俺、確実に野生動物の動きしてる。理性ゼロ。
──が、待て待て。
何か一つ、重大なことを忘れていないか?
金が、ない。
いや、ほんとにないよな? 一応確認するか。
手をポケットに突っ込み、服の裾や袖までまさぐる。ないのは分かってるんだが、もしかしたら奇跡的に数枚の硬貨が残ってたり……
ない。完全に、一文無し。
そして売れるものもない。うん、詰んだな。
結局、俺は何もできず市場を後にした。
……社会って、こんな厳しかったっけ?
いや知ってたけどさ。
改めて直面すると、流石にエグいな。
また腹が鳴る。うるさい。
もうお前の気持ちはよーくわかった。俺だって好きで空腹になってるわけじゃねぇんだ、少し黙っててくれ。
しかし、何とかなると思っていたが、こうも何ともならないとは。途方に暮れながら、ただただ時間だけが過ぎていくことになりそうだぞ……。
「あれ、もしかして俺、詰んでる?」
◇ ◇ ◇
──そして日が暮れた。
何か方法があるはずと街を彷徨ったが、本当に何もなかった。
市場の店はすべて閉まり、さっきまで賑わっていた街並みもしんと静まり返る。冷たい風が、肌を刺すように吹き抜けている。
俺は路地の隅に座り込み、肩を丸めて震え続けた。
「……人生、短かったなぁ」
まさか、こんな早くにギブアップとは。おかしいな。俺、もうちょいどうにかなると思ってたんだけど。
何度か道行く人の足音が聞こえるたびに、話しかけようかと迷った。だが、どうにも勇気が出ない。
すみません。食いっぱぐれたんですけど、お金を恵んではくれませんか……?
うん、絶対に無理だ。そんな奴キモすぎるだろ。もし逆の立場だったら死んでも関わりたくねぇ。
結局何も言えず、何もできず、ただ寒さに震えるだけ。
「ルゼ、お前どこ行っちまったんだよ……」
唯一頼れるはずの従者は、もうどこにもいない。俺は絶望して、ぼんやりと夜空を見上げる。
──おいおい、生きるってだけで難易度高すぎるだろ。
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