第6話 流石に死にたくはないよな

「……おい、大丈夫か?」


 唐突、頭上から声が降ってきた。かすれた意識の中で、俺はゆっくりと目を開ける。


 視界に映ったのは、見知らぬ男。


 三十代前半くらいだろうか。短めの茶髪に整った顔立ち。そして、やけにこざっぱりとした服装。身なりが良すぎるってほどじゃないが、少なくとも浮浪者の類ではない。


 ……てか、誰だこいつ?


「ああ? なんだよ」


 ぶっきらぼうに返した。話しかけられる覚えはないし、他人と会話する気力もない。空腹と疲労で頭がおかしくなりそうだった。


「別に怪しいやつじゃないさ。ちょっとばかり気になってな……」


 男は目の前にしゃがみ込み、じろりと顔を覗き込んでくる。


 ……いや、距離感バグってるだろ。なんでこんなグイグイくるんだよ気持ちわりい。


「……気になったって、俺にか?」

「そう、お前に」


 何言ってんだこいつ、意味が分からない。


「冷やかしか? それならどっか行ってくれ」


 思わず眉をひそめる。


「そうじゃねぇ。お前、死にかけてんだろ? こんなところで寝てたら、朝には冷たくなってるんじゃないかって思ってな」

「……はは、そうかもな」


 返事をするのも面倒だった。寒さと空腹で思考が鈍る。何を言われても、適当に流してしまいそうだ。


 でも正直、もうどうでもよかった。このまま眠るように死ねるなら、それでいいのかもしれない。


 俺はそんなことばかり考えていた。


「ったく、こっちが心配してやってんのにその態度かよ……」

「うるせえ、もう放っといてくれ」


 どうせこいつも、俺のことを見下しているんだろう。哀れみか、それとも嘲笑か。どちらにしろ関わらないほうがいい。


 そう思って顔を背けた瞬間、男がポケットから何かを取り出した。そして、目の前に差し出されたのは……。


 ――パンだ


 こんがりと焼かれ、ほんのり甘そうな香りが漂ってくる。


 ゴクリ。


 反射的に唾を飲み込んだ。腹の奥が、まるで獣のように鳴いた。


「……なんだよ、これ」

「見りゃ分かるだろ、パンだよ」

「だからなんで俺に?」

「お前、腹減ってるんだろ?」

「……」


 いや、まあ、そうだけど……。


「俺は施し受けるほど落ちぶれてねぇ」

「いやいや、どう見ても落ちぶれてるだろ。あんま強がんなって」


 ズバッと切り込まれて、何も言えなくなる。


 このまま意地を張っても無駄だ。くそ、こんな時に限って余計なプライドが邪魔する。


「……毒入ってたらどうすんだ」

「ははっ、そんなチンケなことはしねぇよ」


 男はクスクス笑いながら、さらにパンを押しつけてきた。


「ほら、安心して食えや」


 ……警戒するべきか?


 見知らぬ男が突然食い物を渡してくるなんて、普通に考えて怪しすぎる。


 だが――


「……チッ」


 結局、俺はパンを受け取り、一心にかぶりついた。噛むというより、飲み込むようにして胃に送り込む。乾いた口の中に広がる、小麦の甘みと香ばしさ。


 ……うまい。


 味は問題じゃない。胃に食べ物が入るということ、それだけで感動する。


「ほら、水もあるぞ」


 今度は小さな水筒を差し出してくる。


 もう警戒することもなかった。無言で受け取り、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。冷たい水が、渇いた喉を潤していく。


「ぷはぁ、助かった」


 思わず本音が漏れる。


 気づけばパンは無くなっていた。何かに取り憑かれたように、夢中で食っていた自分に気づく。


 ……みっともねぇな、俺。


 でも、そんなことを気にしている余裕もない。パン一つじゃ全然足りないが、それでも飢えは多少マシになった。


 となると、次に考えるべきは──


「……で、お前の目的は結局何だ? 人助けが趣味なただのお人好しってわけじゃないんだろ?」


 飯を恵んでくれたのはありがたいが、そもそもこいつは何者なんだ。警戒せずにはいられない。


 すると男はニヤリと笑い、「ああ、俺か」と呟く。


「俺の名前はゼクス。まあ、商人みたいなもんだ」

「商人?」

「一応な。ほら、それっぽい格好もしてるだろ?」


 確かに、どことなく商人のような風貌だった。


「で、そういうお前は?」

「俺は……ただの一文無しだ。家も役職も何もねえよ」

「へぇ、一文無しねぇ」


 ゼクスは俺をじろじろと観察し、ふっと口角を上げる。


「嘘つけ。お前、何かすげぇモン隠し持ってるだろ?」

「は?」


 ──何を言っている?


 背筋にぞわりと嫌な感覚が走る。


「何の話だ」

「さあな。でもな、俺の勘って結構当たるんだぜ?」

「なんだそれ、適当じゃねえか」


 ゼクスはニヤニヤしながら見つめてくる。冗談みたいに言ってるが、目は鋭かった。


 ……こいつ、何か視えてるのか? まさか、俺が悪魔だってバレてたりしないよな?


「まあ、別に今すぐどうこうする気はねぇよ。ちょっと気になっただけだからな」


 ゼクスはそう言って、懐から紙切れを取り出した。


「興味があったら、ここに来い」


 渡された紙には、簡単な地図と、何やら商会の名前らしきものが書かれていた。


「……何だよ、これ」

「俺の商会の倉庫だ。今、人手が足りなくてな。住み込みで働けば、飯も風呂も、寝床もついてくるぜ?」

「労働付きか?」

「バカか、あったり前だろうが」


 何言ってんだ? と言わんばかりの顔をされる。


 まあ、そりゃそうだよな。タダ飯を食わせてもらえるほど、世の中は甘くない。


「けど金はそこそこ出すし、今のお前には悪くねぇ話だろ?」


 確かに、このままじゃ野垂れ死ぬ未来しか見えない。


 しかし──


「……いや、働くのはダルいな」


 思わず、本音が漏れた。

 ゼクスは一瞬驚いたような顔をした後、大爆笑した。


「はははっ! マジで言ってんのか、お前!? 腹減って死にかけてたんだぞ?」

「いや、それと働くのは別問題だろ……」

「どこがだよ!? 飯を食うために働くんだろ!?」

「働かずに食う方法もあるかもしれないだろ?」

「いやねぇよ!!」


 ゼクスは笑いながら俺の肩をバンバン叩く。ちょっと痛い。


「だがな、お前はどうせここに来るよ」

「……何でそんなことが分かる?」

「勘だ、勘。商人の勘ってやつよ」

「またそれかよ。お前の勘、そんな当たるのか?」

「まあな。特に人を見る目には自信がある」


 どこまでも胡散臭い。ふざけてんのか?


「で、どうする?」

「……ま、考えとくよ」

「そう言うと思ったぜ!」


 ゼクスは満足そうに笑うと、軽く手を振った。


「どうせお前、ここで野垂れ死ぬ気はねぇんだろ? だったら、近いうちに顔を出しな。待ってるぜ」


 そう言い残して、足取り軽く去っていった。



 俺はしばらく奴の背中を見送ったあと、手元の紙に視線を落とす。


「……商会、ねぇ」


 ざらついた紙を指先でなぞりながら、ぼんやりと考える。


 ──どうする? 本当に行くのか?


 今の俺には金も飯も、寝床もない。あるのは寒さと空腹、そして無駄にプライドだけ高いこの性格。


 働くか、野垂れ死ぬか……って、選択肢の幅狭すぎるだろ。


 こんな選択肢、普通なら即決するだろうが、俺はこの瞬間ですら現実から目を背けようとしていた。


「働くって、どれくらい働かされるんだ……」


 朝から晩まで労働? 無理無理、ありえない。

 住み込みってことは、もしかして休日なし?


 考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。


 でも腹は鳴るし、体は冷え切っている。

 そして、なにより──


「……流石に死にたくはないよなぁ」


 働くのは死ぬほどダルいが、マジで死ぬよりはマシ。ならもう選択肢なんて残されてない、か。


「……仕方ねぇ、明日行ってみるか」


 そう呟いた俺は、ゆっくりと紙をポケットにしまった。

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