ダンジョンニートは隠居したい

第3話 ニート VS 階層主

　俺は静かに階段を下り、五十階層の大きな扉を押し開ける。すると、そこには闘技場のような異様な空間が広がっていた。

　広大な円形のアリーナ。周囲を取り囲むのは、崩れかけた石の壁。何度この場に足を踏み入れたかわからないが、相変わらず嫌な気配が満ちている。

　そして、足元が微かに揺れた。

「来たか」

　次の瞬間、地鳴りのような振動が足元から響き渡った。そして、暗闇の奥からゆっくりと姿を現したのは、漆黒の巨大蛇――カオス・バジリスクだ。

　体長はゆうに二十メートルを超え、全身を覆う甲殻は鋼鉄のような硬度を誇る。鈍く光る黒い鱗が絡み合うように重なり、まるで一枚岩のような圧迫感を放っている。さらに金色に輝く双眸は、獲物を捉えた瞬間、石化させるという凶悪な能力を秘めている。

　要するに厄介な魔法を使う、とんでもなくデカくて激キモの黒ヘビ。

　そんな感想しか出てこないが、それでもこいつはこの五十階層の階層主。ここを抜けるためには、どうしても倒さなければならない相手だ。

　だが、戦うのはこれが初めてではない。

「……まったく、またお前かよ」

　過去に何度も挑み、何度も打ち倒してきた相手。行動パターンは熟知している。突進の速度、咆哮のタイミング、石化を防げるその間合い――全て頭に入っている。

　しかし、今の俺は以前までの俺ではない。

　……あ、もちろん悪い意味で。

　ダンジョンの奥深くで怠惰な生活を続け、戦いから遠ざかっていたツケが回ってきているのだ。三年のニート生活で身体は鈍り、さらに空腹が集中力を削いでいく。

「まあ、最悪の相手ってところだな」

　剣を握る手に力を込めるが、握力すら前より弱まっている気がする。焦燥感を押し殺しながら、ゆっくりと距離を取る。

　バジリスクがゆっくりと首をもたげた瞬間、空気が変わった。まるで戦場全体が凍りついたかのような、圧倒的な殺気。

　だが、この動きを俺は知っていた。

「……来るぞ」

　次の瞬間、巨体が猛烈な勢いで突進してきた。重い石畳を砕きながら迫るその動き。見慣れた攻撃パターンだ。

「やっぱりそれか……！」

　わかっている。何度も戦った相手だ。こいつの突進は初動さえ見切れば簡単に避けられる……はずだった。

　……嘘だろ、全く身体がついてこねえ！！

　俺は瞬時に横へ跳ぶつもりだったが脚がもつれ、わずかに遅れてしまった。

「チッ……！」

　回避はもう間に合わなかった。かろうじて身体を捻り直撃を免れるが、かすった勢いで背後から重い衝撃を叩きつけられた。

　バジリスクが背後で大きく咆哮する。鼓膜を揺さぶるような音圧とともに、全身が粟立つような感覚に襲われた。

　なんだこの違和感……まさか、石化か！？

　条件反射で顔を伏せ、奴の視界から逃れる。直後、巨尾が唸りを上げて振り抜かれた。

　ダメだ、また回避が間に合わない。

「クソッ、まだ終わるわけにはいかねぇ！」

　咄嗟に剣を掲げ、尾の直撃を防ぐ。瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。

「ぐっ……！」

　足元が砕け、膝が沈む。衝撃が骨まで響き、腕が痺れた。握力が抜けそうになるが、なんとか剣を手放さずに済んだ。

　息が切れる、身体が重い。

　だが、まだ戦える。

「……まさか、こいつにここまで押されるとはな」

　昔の自分なら、一瞬で決着をつけていただろう。それが今では守勢に回っている。どれほど鈍ったのかは明らかだった。

　——こんな消耗戦、やってられねぇな

　俺は震える指先で、ゆっくりと眼帯に手をかけた。できることなら使いたくなかった。だが、このままではジリ貧だ。普通に戦っていては勝ち目はないだろつ。

「……仕方ない」

　眼帯を一気に引き剥がす。

　そして右目が露になった瞬間、世界が変わった。

　狂気をまとった深紅の輝き。その光が広がると同時、俺の全身は変貌していく。

　皮膚の下から何かが這い出るような感覚。血管が灼けるように脈打ち、赤黒い紋様が肌に浮かび上がる。筋肉が膨張し、爪が鋭く伸び、牙がわずかに尖る。背中から肩にかけて、黒い瘴気が吹き出し、影のようにうごめいた。

　これが俺の本当の姿。

　半分人間、半分悪魔——そう、ハーフデビルだ

　身体が熱い。血が沸騰するような感覚だ。脳は焼けるように研ぎ澄まされ、奥底に眠る力が解放されていく。

　同時に、全身が激しく悲鳴を上げた。筋肉は裂け、骨が軋む。力を解放した代償は大きかった。

　だが、構うものか。今は勝つことだけを考えろ。

「……ここで決めるしかねぇ」

　バジリスクが動いた瞬間、俺も駆けた。

　地を蹴った瞬間、視界が一気に流れる。圧倒的な加速。まるで風になったかのように、距離を詰めた。そしてバジリスクが目を見開く間もなく、俺は剣を振り下ろした。

「——遅えよ」

　刃が甲殻を裂く。鮮血が弾け、バジリスクが咆哮する。しかし、それだけでは終わらない。

　狙うは喉元。固い甲殻に守られた巨体の中で、唯一の急所。

「焼き尽くせ、フレアランスッ！！」

　魔力が剣を纏い、赤い炎が爆ぜる。縦に振り下ろした剣を、瞬時に横へ薙ぎ払う。刃が焼き切るように食い込み、肉を裂いた。

　手応えはあった。だが、奴はまだ生きている。

「しぶてぇな」

　バジリスクは目をギラリと光らせ、咆哮と共に反撃を開始する。巨尾が空を裂き、地面をえぐるように迫ってきた。避けなければ、即死は免れない。

「ニートにはキツすぎるっての……！」

　紙一重で避けたつもりだった。しかし、尾が大地を叩きつけた衝撃波だけで吹き飛ばされる。肺から酸素が絞り出され、視界が一瞬暗転した。

　……やばい。

　視界の隅に巨大な影が映る。バジリスクは容赦なく詰め寄り、鋭い牙で俺を押し潰そうと大きく口を広げた。

「くそ、こうなったらッ……！」

　反射的に足に魔力を込め、最後の力を振り絞る。全身に激痛が走るが、そんなものに構っている余裕はない。俺は地を蹴り、一気に跳躍した。

「凍てつけ、アイスバインド！」

　咄嗟に唱えた氷結魔法が、バジリスクの足元に絡みつく。瞬時に形成された氷の鎖が、大蛇の動きを封じ込める。奴の巨体は必死にもがくが、そう簡単には抜け出せない

「よし、これで終わりだ！」

　今しかない。俺は全身の魔力を一点に収束させる。右手に渦巻く膨大なエネルギーが、熱を帯びて剣先へと凝縮される。視界が歪むほどの魔力負荷。制御しきれず、皮膚が灼けるように痛むが、この際どうでもいい。

「消えろ、エンドブレイザー！！！」

　そして振りかぶった剣を、一気に叩き込んだ。

　炸裂する閃光。衝撃波が周囲を吹き飛ばし、耳をつんざく爆音が響く。バジリスクの巨体は大きく仰け反った。

　視界が白く染まり、そして静寂。

　煙が晴れたとき、そこには大地に倒れ伏したバジリスクの姿があった。巨大な体躯は痙攣し、やがて完全に動きを止めた。

　俺は剣を収め、肩で荒い息を吐く。

　全身が重い。だが、確信した。

「……これで、終わったな」

　勝利の感覚よりも、圧倒的な疲労感が俺を包みこんだ。魔力を使いすぎたせいで呼吸すらままならず、視界は霞むばかりだった。

　戦いが終わったのに、爽快感なんて微塵もない。ただ虚脱感だけが残っていた。

　ふと、視線を前へ向ける。

　バジリスクの亡骸を超えた先。下層への階段の横には、石造りの台座があった。そして、そこには地上へと続くワープポイントが現れ、薄く光を放っていた。

「……これで、ようやく街に行けるな」

　そう呟いたものの、まるで実感が湧かない。

　この三年間社会との接点を断ち、人の稼ぎで食って寝るだけの生活を送っていた。それが今日、突然終わる。

　……本当に大丈夫か？　今さらまともに生きていけるのか？

　脳裏をよぎる不安の数々。考えれば考えるほど胃の奥が重くなっていった。

　俺は懐から眼帯を取り出すと、右目を覆うようにそれを付け直した。とりあえず最低限、気持ちだけは作ってみる。

　──社会に出る準備、完了。

「ははっ、なんてな……」

　ダメだ、やっぱり行きたくねえ。

　どう考えても、これは地獄への一歩だ。

　だが、そんなことを悩んでいる場合ではない。食料は尽きた。死にたくなければ行動する他ないのだ。

　仕方なく歩を進め、最後にバジリスクの亡骸を一瞥する。

　──その瞬間、それは霧のように消えていった。

　そして残されたのは、奴のドロップアイテムだった。バジリスクの牙、鱗、そして眼球……。

「……いや、全部デカすぎるんだよな」

　拾う気力も湧かず、ため息をつく。

　換金すれば金になるだろうが、こんなデカいものを持ち歩く余裕はない。ましてやこれを売るために商人と交渉するとか、面倒すぎて考えたくもない。

「まあ、いらねぇよな」

　街に入れさえすれば、きっとどうになるだろう。俺は未練を断ち切るように顔を上げると、ワープポイントへ歩みを進めた。

　この先にあるのは、三年ぶりの外の世界。どんな未来が待っていようと、もう迷うことはない。

　俺は覚悟を決めて一歩踏み出すと、光の中へと身を委ねた。

　──これで俺の『ダンジョンニート生活』は終わりを迎る。そして同時に、新たな物語が幕を開けるのだった。