桜と橘 三日月の夜(2/3)
橘の鳳白会五代目会長襲名から一週間。市ノ瀬組は枯木が後を継ぎ、若頭には北見がそのポストに収まった。本家には橘を警護する為の用心棒が俺を抜かして2人、橘の専属運転手がひとり、本家に住み込みの若衆が4人、代行を務めていた相模は顧問に戻り、本家にも一室を設けている為、常にその部屋で事務仕事を行なっている。
このところ、橘を訪れる人が多かった。他組織の組長クラスの人間達で、襲名と退院祝いとして顔を出す、それから幹部連中。特に市ノ瀬組からずっと側近だった枯木や北見が頻繁に訪れた。橘を頼って来る連中は想像以上に多い。その度に思う。どいつもこいつも、本気で橘に命を掛けている、橘を心底慕っている、と。だからたまに不安になる。
俺は、橘にとって相応しいのか。俺は我儘で橘の隣に居座っているだけじゃないのか。橘はそれで良いのか。橘の好みって、やはり年上だろうか。それとも自分を理解してる人だろうか。分からないが、俺は橘の事についてほとんど知らないに等しく、橘を理解している組員は組内に何人もいる。好きなスーツのブランドとか、好きな食べ物に酒、趣味、俺は全く知らなかった。
しかも橘に詳しいやつらは、揃いも揃ってしっかりと橘に惚れて組にいる。橘に惚れて組を替えた枯木なんてまさにそう。俺が橘を敵視していた長い年月も、枯木は橘を必死に支えてきた。未婚で、面が良く、橘よりは年下だが俺よりは年も近い。橘もなんだかいつも気楽そうに見えた。北見だってそうだ。橘に惚れている歴で言ったらきっと一番長い。橘は本当によく慕われ、尊敬され、惚れられている。橘が会長の座に就いてからはそれが顕著に感じる事が多くなった。橘は何も言わないが、橘が側近達と話しているのを見る度に、俺はつい思ってしまう。
情で俺の側にいるのではないか。
そんなわけがないと否定をしつつ、心のどこかでは引っ掛かり、綻びを生む。だって橘は死を覚悟したあの時、押し流されたかった、と言ったのだから。押し流されたい、つまり、自分の感情はさて置いて、俺の感情に流されたい、という事だろう。俺に対して、実は恋愛感情は抱いていないのではないかと考えてしまう。
もしかしたら橘は、ただあの時のガキんちょに居場所を与えてやってるにすぎないのではないだろうか。なぜなら橘の口から好きだの、愛してるだの、聞いた事がないのだから。
そんな日々の中、常に橘の隣にいる俺は仕事が終わると緊張の糸が切れ、橘は俺の事をちゃんと愛しているだろうかと確認するように、ついつい盛ってはまぐわってしまう。橘も拒否しないからほぼ毎日まぐわい、最中だけは不安を拭えた。……女々しい。なんとも女々しい。分かってる。しかし女々しくなってしまうのだから仕方がない。もっと逞しく、不安なんて感じずに堂々としていたいのに、橘の隣にいると俺はどうも俺ではなくなるようだった。
そんな最中、本家に橘の客がやって来た。
「よう! 橘会長!」
応接室にはその客人、関東緑翔会若頭兼関田組三代目組長、鎌原 治が長い脚を組んで座っていた。深いダークグレーのダブルスーツに高級腕時計。目尻に皺を寄せる男は、橘を見ると嬉しそうにソファから腰を上げる。
「鎌原組長、あの、…いつも通り雪で構いませんから」
橘もまた少し嬉しそうに頬を緩めているのが癪である。別組織である為、あまり気にした事はなかったし、そもそも橘の事を深く知るようになったのは親父が死んだ後の事だから、この鎌原という男との関係は全然知らないが昔挨拶だけした事があった。だが橘とここまで距離の近い極道がいたとは予想外だ。
鎌原組長と橘は対面のソファに座り、俺は少し離れたところに立ちながら、手を前に重ねてじっと鎌原組長を見ていた。鎌原組長は白髪混じりの背の高い渋い男前で、なんとなぁく橘の好みそうだった。何を考えてンだと自分の思考に嫌気がさすが、橘がやけに嬉々としてるから嫉妬心を駆り立てられてしまうのだ。
「そうか? じゃぁ雪、久しぶり!」
「ご無沙汰してました」
「大変だったな。由賀会長殺されたって聞いた時、俺は肝が冷えたンだぜ? お前、後を追っちまうンじゃねぇか、ってさ」
「まぁ、立ち直るのに時間は掛かりましたけど、やる事もたくさんあったんで。悲しんでる場合じゃなくなったってのが正直なところです」
「空畑の件も、……何と言って良いものか。お前撃たれたんだろ?」
「はい。一週間は昏睡状態でこの世とあの世を彷徨ってたみたで、目が覚めたら時が経ってて浦島太郎な気分でしたよ」
「そうだよなぁ。大変だったよなぁ」
「…でもこうして五体満足、無事ですし、あまり心配しないで下さい。鎌原組長だって病気してたでしょう? ストレスは体に毒ですから、俺の事は本当に平気なんで気にしないで下さい」
「俺ァ、根治したからよ。……ま、なんだ、改めておかえり。それと、会長就任おめでとう」
そう言って鎌原組長は紙袋を橘に渡した。橘は受け取ると頭を下げる。
「ありがとうございます」
「祝いの品はたーんと持って来たから、たくさん食って、たくさん飲んで、英気養ってくれよ」
「英気を養う物、ですか。中を開けても?」
「もちろん。見てくれ」
橘が紙袋の中を覗きながら、顔を輝かせて高級な日本酒を取り出し、次に木箱が見えたが、俺の立っている位置からはよく見えなかった。多分木箱の中身が食べ物ということだろう。橘は、「気を使わせてすんません」と再び頭を下げつつ、嬉しそうに頬を緩めている。品々が嬉しいと言うのもそうだろうが、それよりも、この人から貰ったというのが嬉しいのだろう。妬けるな………。
「気なんか使ってねぇよ。俺が使うタチかよ」
「ありがとうございます」
「で、雪さ」
「はい」
「傷痕、残っちまったのか」
「撃たれた痕は、はい」
「お前の綺麗な体に傷が付いちまったか」
鎌原組長は大袈裟に項垂れて見せた。俺の眉間には皺がぐっと寄る。
「鎌原組長くらいですよ、そういう事を俺に対してもサラッと言ってしまうのは」
「そうか? お前の体は縁起が良いからなぁ。お前の背負ってる騎龍観音様はよ、なんつーのかな、拝みたくなるンだよなぁ」
顎を撫でる鎌原組長に俺の眉間の皺は更に深くなる。脱がない、墨を見せないで有名な橘の背中をなんで知ってんだ。
「腕の良い彫師でしたから」
「そうだろうなぁ。惚れ惚れするよ」
「ふふ、それは良かったです」
良かった、とは何だ。
「…で、久々の再会だ。今夜、空いてるか?」
「えぇ」
「なら、いつもの料亭で一杯やろう」
「良いですね。楽しみにしてます」
橘の返事を聞いた後、鎌原組長は俺を見上げた。
「………そう怖い顔すんな。ご主人様はちゃーんと帰してやるからよ」
ご主人様、という言葉にイラッと反応して顔に出てたろう。鎌原組長はおかしそうにニヤリと口角を上げる。橘は鎌原組長の視線に気付くと俺を見て、再度鎌原組長を見た。
「怖い顔ですけど、腕の良い用心棒なんです」
「用心棒はつけない主義じゃなかったのか?」
「別にそういうわけではありませんよ。ただ、俺を守ってる暇があるなら他にやる事あるだろうと思っていただけで。でも俺も自分ひとりの命じゃなくなっちまいましたから。こうして桜を横に置いてます」
「ほー、ようやく気付いたか。お前に死なれちゃ困るやつらは昔から大勢いるンだ、しっかり守られてくれよ、橘会長」
「…性には合いませんが」
「ふふ。大人しく守られてるみてぇで安心したよ。ドーベルマンみてぇな用心棒を常に側に置いてるとは思わなかったけど」
そう聞いて橘は再度、俺を見る。頭の先から爪先まで見ると、ふっと吹き出して肩を揺らした。俺は無表情を決め込んでいる。橘を笑わせるなんて、やっぱりこの鎌原組長という男は好かない。
「ドーベルマン…。アハハ、確かにそうですね。そういえば鎌原組長、たぶん桜とは初対面じゃないはずですよ。覚えてませんか」
俺は覚えていた。あの時は親父の用心棒だったが、挨拶はした。今思えば、この人はその時も橘とは親しげに話していて腹が立つ。
「えー? あったか?」
鎌原組長は眉根を顰めると首を傾けた。
「元は親父の用心棒です。かなり前に会った事があるかと」
「由賀会長の? 由賀会長にべったり付いてた用心棒がいたのは覚えてるが、それがこの子?」
「えぇ」
「えー、こんな怖い雰囲気だったろうか。由賀会長の時はもっと愛想良くて柔らかいイメージだったような気がするが」
鎌原組長の片眉はクッと上げられる。まるで俺が抱く橘へ重すぎる感情を見透かしているようで居心地が悪い。すっと視線を逸らすと、俺の居心地の悪さにも感情にも気付いていない橘は脚を組み直しながら「色々ありましたんで」と鎌原組長を見た。
「ま、そりゃぁ間違いねぇな」
橘は背もたれに腕を掛けると俺の方に体を向けた。
「桜、会った事はあると思うがきちんと挨拶した事なかったろ? 知ってると思うが緑翔会関田組鎌原組長だ。きちんと挨拶しておけ」
「……挨拶が遅れました、桜木 祥介です」
親父といた時もきっちり挨拶したはずなんだけど、そう不満に思いながら頭を軽く下げると、鎌原組長はヘラヘラと笑った。
「宜しくネ。今後は色々と関わりも多くなると思うから」
「…宜しくお願いします」
関わりも多くなる、とはどういう事かと考えるが俺には分からない。もしかすると、今後は緑翔会と取引でもするのかもしれないが、俺が関わるような話ではないだろう。橘はまた鎌原組長に向き合うと、ふたりで話し込み、約1時間ほど話してようやく鎌原組長は出て行った。その後、橘はいくつかの事務仕事を片し、夜、橘は鎌原組長と会う為に料亭へ。もちろん、俺は中には入れてもらえないから、いつも通り駐車場で橘の帰りを待っている。
橘の新しい運転手となった瀧島という男は、本家の運転手で、親父の時にはよく一緒になる事が多かった。同じ年で同期という事もあり、気兼ねなく話せるが、少し口が悪く、人相も悪い。ゴツくて強面で、いかにも極道という感じで肝が据わり、運転が上手いだけでなく、腕っ節も良いからかなり能力を買われている。が、途方もなく阿呆だった。親父に飯を奢ってもらった時も、阿呆は相変わらずで、親子丼が何の肉かは知らず、親子の意味も分かっておらず、親父は涙を流して笑っていた。
橘の運転手、と言えば神城の事もあったた為、こいつもまさか…と一瞬疑ってしまうが、阿呆な瀧島は器用な事ができないから問題ないだろうと、すぐに悩みは解決される。図体がデカくて肝が据わってるだけの阿呆なのだ。
「……遅ぇな」
つい苛立ってぽつりと漏れて出た言葉を、瀧島は聞き逃さずに「遅ぇなぁー」と仏頂面でオウム返ししてくる。
「もう2時間近く経つのに」
「本当だな。お楽しみ中なんじゃねぇの」
「あ?」
お楽しみ中って何だ。つい睨んで返すと、瀧島はプッと吹き出して笑い出す。
「何笑ってんだよ」
「いや、凄い剣幕で、あ?って言われたからな。怖い怖い」
何々だ、こいつ。そう苛立ってあからさまな舌打ちをすると、瀧島はハンドルに手を掛けながら俺を見る。
「まだ信じられねぇんだよなぁ」
「何が?」
「お前が橘会長にべったりになったって事が。でも今の反応見る限り、橘会長に尊敬を抱いてべったりって言うより、嫉妬心むき出しの厄介な片想い拗らせ男みたいな反応だからさ、尚更信じらンなくてよぉ。何があったかは知らねぇけど、時の流れって怖い怖い」
阿呆の瀧島のくせに、そんな事を言いやがる。ひやりとはしたが、瀧島は別に俺と橘の関係に確信を抱いてるわけでないだろう。ただ俺の反応を見て揶揄って遊んでいるのだ。
「いつになっても盃貰った親父が一番には変わりねぇけど、橘さんだって俺にとっちゃ兄貴だし、知れば知る程、あの人は魅力的だって、そう思っただけだろ」
そう冷静に答えると、瀧島は優越感に浸るように片眉を上げるから尚更腹が立った。
「ほほーう、愛ですか」
愛とか言うなよ。愛とか。
「………尊敬だよ、尊敬」
「尊敬ですか。それって本当に色恋のソレじゃないですか?」
普通思っていても当人には言わないだろう事を平気で言ってくる。だから阿呆って言われるんだ。…いや、ここまできたら確信犯なのかもしれない。
「お前さぁ、」
「ま、どーでも良いけど。お前ってさ、仕事一筋で女遊びも碌にしないって聞いてたから、ついに誰かに恋をした、と思ったら相手があの橘会長。そう思うと、まじでおかしくてよ」
笑いを堪えきれずに肩を震わせる瀧島の肩に軽くパンチをお見舞いしつつ、「悪ふざけやめろ」と睨んでやる。
「そういう事はまじで他のやつらに言うなよ。お前の阿呆が際立つぞ」
「阿呆じゃねぇわい。ちょーっと学がねぇだけで」
「阿呆じゃねぇやつは、俺と橘さんの関係を色恋だとか言わねぇの。思ってても言わねぇの」
呆れた。そう肩をすくめると、瀧島は「えー? そうかなぁー?」と何故か半笑いである。
「お前さ、市ノ瀬の連中の前でそういう変な事は絶対に言うなよ」
「変な事って何? よく分かんねぇけど」
「だぁから、色恋だの、好きだの何だの。男同士ってだけで嫌悪する叔父貴が多い事はお前だってよく知ってンだろ。この世界では御法度、分かる? 男社会だけど色恋の愛情とは違ぇの」
「よく分からねぇな?」
揶揄う眼差しにうんざりして外を眺めてると、瀧島はふふっと笑った。
「このご時世で男同士ってだけで目の敵にしてたら仕事ならねぇだろぉになぁ。俺ァ、恋人の存在を隠す必要はねぇと、そう思っただけだから。いわゆるカミングアウトっての、してくれても良いンだぜ?」
「誰がお前にするかよ。まじで一回黙れ」
「悪い悪い、調子に乗った。でも男社会だし、昔から聞かない話じゃねぇだろ。ただ古くて頭の固い狸親父達が男同士ってのを過剰に毛嫌いしてるってだけで。それにさ、市ノ瀬なんて寛容じゃねぇかよ。ほら、二代目ってずっと年下の男と暮らしてたって、知らね?」
「え、前園組長の前って事だよな?」
驚愕し過ぎて瀧島を見ると、瀧島はさも当たり前の事かのように肩をすくめている。何でそんな事をお前が知ってたんだ。
「知らなかったのかよ。二代目の眞壁組長。体壊して引退して、引退後は田舎の小さな街のアパートでその男性と暮らしてたらしいンだよ。亡くなるまでずっとその男性といたって。看取ったのもその人だって。お前、市ノ瀬にいたのに何も知らなかったのかよ」
全く知らなかった。
「……知らなかった。け、けどよ、その男性が眞壁組長の恋人かどうかってのは分からないだろ」
どう考えても恋人だ。分かってはいた。ただ、そこから自分のプライベートに繋がるのが嫌だっただけ。瀧島は俺の気持ちなんて見透かしていた。阿呆のくせに、そういうところは目敏い。
「バカだなぁー、恋人に決まってンだろ。極道時代から一緒に住んでて、ご隠居しても一緒に住んでた。看取ったのもその人。恋人じゃねぇのにそこまでするか? ヤクザ者と一緒に住んで、引退しても面倒見て、最期を共にして。どう考えても愛だろ、愛」
その通りだと思った。俺は頭を掻く。あからさまにバツが悪そうな顔をしていたのだろう、瀧島は「な? 男同士ってのは割とポピュラー」と他人事に笑っている。
「はぁ。…お前って案外、視野広くてロマンチックなのな。意外でキモい」
「キモいとか言うなよ、傷付くなぁ。まぁ、ひとまず俺ァさ、人間が人間を愛する事に男も女もないと思ってっからサ」
「へぇー、あ、そう。お前の価値観は超どうでもいい」
けど、感銘は受けてしまった。この世界にもお前みたいな考えのやつがいたとは。それに市ノ瀬の事も。眞壁組長がそうだった、とは知らなかったし、まぁプライベートな事だから知らなくても良い事なのだけど、橘が知っていたとしたら、あの組に対する見方が少し変わる。もしかしたら橘にとってみたら、由賀組より居心地良かったりしたろうか…。
「で、話し戻すけど、橘会長いる時のお前って本当に怖いくらい牙剥き出しのドーベルマンみたいだからさ、すげぇ分かり易いよ。もっと余裕を持たねぇと、お前の言う毛嫌いする叔父貴達にバレるんじゃねぇの? そうなると厄介だぞぉー」
「ドーベルマン……」
叔父貴達にバレるのは厄介だが、俺の事をドーベルマンみたいな用心棒と言った鎌原組長にもバレたくはない。鎌原組長と橘の関係もよく分からないし、鎌原という男がどういう男かも知らないし。知られると厄介そうだし。
「何、気に入った? ドーベルマン。毛並みは良いドーベルマン」
つい呟いた言葉をわざわざ拾った瀧島に毛並みは良いと褒められる。どうでもいい。
「……今日、橘さんの客人にも言われたんだよ。ドーベルマンみたいな用心棒って」
「顔が怖いからだろ。それに黒髪の短髪、スレンダーな筋肉質で、運動神経良くて、好きな人の周りを短い尻尾振って愛想振り撒きながら警備してる感じがまさにドーベルマンぽい」
「お前はボクサーっぽい」
「え、どう見てもアフガンハウンドだろ」
「……あ?」
「海外セレブが城で買ってるような高級な犬感あるだろ? 俺って」
瀧島は茶髪でサイドを刈り上げトップも短く、いつもジェルでかっちり固めている。俺よりデカいし、肉厚で、とんでもなく暑苦しい。どこからどう見てもロングヘアーが美しい煌びやかなアフガンハウンドではない。きっと阿呆だからアフガンハウンドがどんな犬か知らないのだろう。可哀想に。
そう目を細めて見ていると、瀧島は「アフガンハウンドぽい要素あるだろ?」と長い髪があるかのように手で髪を後ろに流すジェスチャーをするが、またそれが何とも鼻につく。
「お前はボクサーか土佐犬だろ。どう見たってデカくて屈強な犬だろうが」
「お前の目から見て俺は闘犬なの?」
何を今知りましたみたいな顔をしていやがんだ。
「俺の目から見て、じゃねぇだろ。誰がどう見たってそうだろうが」
瀧島はケタケタとひとりで笑っている。
「アフガンハウンドじゃねぇのかぁー。…まぁ、さ、何が言いたいかって言うとね、ドーベルマンなお前が怖すぎるって話し。あまり橘会長に近付く人間を睨むなって事よ。警戒するのがお前の仕事だけど、警戒しすぎっつーか、身内にも牙を剥きかねないっつーか。お前が橘会長の事が大好きで大切なのは分かったけど、誰も取って食ったりしねぇから、肩の力抜け。な?」
「…睨んでるつもりはないンだけどなぁ」
頭を掻いて唇を尖らせると、瀧島は「大好きなのは認めンだ」とにやりと口角を上げる。
「あ……」
「分かりやすぅー」
しくった。この阿呆に乗せられたのも腹が立つ。
「……はぁ、お前って何でそういうとこ目敏いかなぁ。まじで変な事は誰にも言うなよ。特に市ノ瀬の連中には。橘さんを本気で慕ってる人間にしたら橘さんがこんなのと関係がある、なんて知ったらガッカリすんだろ。橘さんの名前に傷はつけたくねぇんだ」
項垂れた。それはもう、あからさまに肩を落としてしまった。だって瀧島に見透かされるとかこの世の終わりみたいなもんだから。
「心配しすぎだろ。それに暗黙の了解、橘会長に近い組員なら薄々は勘付いてるだろ。橘会長がお前に向ける視線は他の奴らとは違うしよ。それでも見て見ぬふりをしてンだと、俺は思うよ。安心しろ、橘会長は男が好きだから、しかも桜が好きだから、って理由で離れる間抜けはいねぇのよ」
「だと良いけど。…それにしても、勘付いても言わないという美徳、…悲しいかな、お前にはなかったんだ」
「あ、そういう事を言う? ひでぇな。…その通りだけど。だって聞きたくなっちまうじゃん? 俺、恋バナ好きだし」
「そのナリで恋バナとか言うなよ」
「ギャルは恋バナ好きだろー」
「ギャ、ル……」
久々にギャルという単語を聞いた気がするが、ギャルの定義が俺とこいつとでは違うのか。こんな、男でごつい茶髪のゴリラ系ギャルがこの世にいてたまるか。絶句する俺をよそに、ギャルはニッと笑っている。
「ひとまず、ドーベルマン桜木は身内を信用する事だな。空畑さんの事があった後だし、牙を剥きたくなるのは分かるけどサ」
「……ドーベルマン桜木、あい分かった」
「素直でよろしい」
溜息を漏らして外を眺める。そうして時間は過ぎていき、駐車場で待機してから2時間が経過した頃、ようやく橘が外へと出てきた。本当に、ようやくだ。急いで車から出て橘を出迎えるが、珍しくかなり飲んだらしい事は若干のアルコールの香りと雰囲気ですぐに分かった。
「お疲れ様です」
「悪かったな、かなり待たせたろ」
「いえ」
千鳥足になるわけでもないし、呂律も回ってるし、顔色も変わってないから、きっと知らない人が見れば酔ってないと判断するだろう。
だが、俺には分かる。とても酔っている。雰囲気があまりにも柔らかい。後部座席に乗り込むと、橘は澄ました顔で外を眺めながら、ゆるりと口角を上げていた。余韻に浸るほど楽しい酒の場だったのだろう。見た事がないくらい楽しそうだ。橘が幸せそうで何より。…だが正直、嫉妬しちまう。俺は助手席でひとり溜息を吐いた。瀧島の運転で家に戻り、その場で俺も一緒に車を降りる。
「明日は14時に頼む」
先を歩く橘を横目に、運転席にいる瀧島にウィンドウを開けてもらい明日の送迎時間を口早に伝えると、瀧島はウィンクを決めて、「久々に遅い出社、楽しめよ!」とふざけた事を言うものだから、舌打ちを鳴らしてさっさとその場を後にした。
何故か橘はエントランスに足止めを食らっていた。やっぱり酔っている。何やら解錠に手間取っているのだ。酔ってません、と澄ました顔をしているが、手元はとても正直らしい。初めて見る姿に笑いが込み上げてくるが、意地悪をするのも可哀想で、横からすっとカードキーを差し込もうとすると、橘はヘラヘラと屈託のない笑みを浮かべて、「開かねぇなぁ」と嘆き出した。
やたらと甘い顔と声色にトスッと何かが心臓に突き刺さった。くそう。酔うとこんなに愛らしくなるのを、あの鎌原ってのは絶対に知ってたし、俺よりも先にそれを見てるなんて……悔しい。
「開きましたよ。ほら。……帰りましょ」
カードキーを差し込んで背中に手を添えて軽くエスコートすると、「桜は優しいなぁ」とまた微笑まれる。蛇みたいな強面のアラフィフ男を可愛いと思ってしまう己の感性に若干驚いたが、可愛いものは可愛いのだから仕方がない。部屋に戻って水を用意していると、橘はソファの背に寄りかかりながら上機嫌に目を細めて俺を見上げた。
「やっぱりお前は男前なんだよ」
「…え? 俺? きゅ、急に何ですか」
コップ一杯の水を手渡して隣に腰をかけると、橘は水を一口だけ飲み、「良い男に育ったなと思ってな」と口角を上げる。
「あーんなに細っこくて、小ちゃくて、コンビカーをひとりで蹴って遊んで、鼻垂らしてヘラヘラしてたのによ。今じゃぁ俺の隣にいるんだもんな」
苦しい。心臓をギュッと掴まれて鼻血どころか吐血しそうだった。ギリギリ耐えて、なんかキザったれたセリフでも吐こうかと思ったが、俺の返答なんて期待していないのだろう。横を向けば橘はもういなかった。呆気に取られる俺をよそに、橘は寝室に移動していて、水を枕元のシェルフの上に置くと、スーツのまま倒れ込んだ。普段なら皺になるからと絶対にしない事だが、相当眠いのだろう。
「着替えないンすか」
横に腰を下ろすとベッドのスプリングが軋んだ。
「後で着替えるよ」
「スーツ着たまま寝ると睡眠の質が下がりますよー」
「んー。後で着替えンだよ」
気持ち良さそうに笑っていたのも束の間、橘の瞼はゆっくりと下りていく。抵抗しようと目を開こうにも無理だったらしい。数分後には寝息が立っていた。
そっと手を伸ばして時間を掛けて起こさないように服を脱がせる。ボクサーパンツ一枚になったところで、一息ついて橘の頬にキスを落とす。あまりにも愛おしくて頬はずっと緩みっぱなしだった。
その時、騒がしく橘の携帯がスーツの内ポケットから鳴った。こんな時間に何事かと眉間に皺を寄せながら携帯を取り出して相手を確認すると、なんと鎌原組長である。ギョッとした。さすがに俺が出るのは避けた方が良いよな、と無視を決め込むが再度鳴り響く。再度無視を決めるが切れると間髪入れずに再度鳴った。
俺が出てしまえば一緒にいる事が分かってしまうだろうし、変に勘繰られたら面倒だが…。しかしこれは緊急の可能性もあるなと、通話ボタンを押すしかなかった。
「もしもし、桜木です」
そう返答すると鎌原組長は「おう、用心棒か」と特別驚きはしなかった。
「夜遅くに悪いな。雪は寝たのか?」
「はい。…なので俺で良ければ、用件をお伺いします。如何しましたか」
「あーうん、あいつね、料亭に財布忘れたンだよ。俺が預かってンだけど、緊急で組に帰らなきゃならなくなってよ。明日渡せば良いかと思ってたんだが、そうも出来なくてな。白樺台駅近くのマンションなんだろ? 今、近くにいるんだがどれかな。教えてくれりゃぁ向かうぜ」
白樺台駅近くのマンションって、橘は教えてんのか。家の場所は教えたくないが、外で会うのもな。家に橘をひとりにするのも嫌だしなと、考えを巡らせ、であれば、と口を開く。
「…駅からだと繁華街方面にあるマンションです」
「あー、分かった! 近くに郵便局あんだろ?」
「え? あぁ、はい。……まさか、もう近くですか?」
「そうそう。似たようなのもう一棟あるだろ? どっちかなと思ったんだが、繁華街方面ならすぐだ。部屋番号は?」
「……1206です」
「了解。あと10分くらいで着くと思うから。インターホン押すから宜しくね」
「はい」
切られた携帯電話を握り締め、すやすやと寝息を立てる橘を見下ろしながら電話をシェルフに置いた。橘を起こした方が良いだろうかと悩みつつ、すっかり眠ってしまっている橘を揺り起こすのは気が引けて起こさないでおこうと決める。しばらくしてインターホンが鳴った。
「持って来たぞー」
「本当にすんません。今、開けます」
「おう」
鎌原組長も酔っている事はすぐに分かった。部屋の前で待っていると、上機嫌に財布を掲げながら「よう、用心棒!」と大声を出すから、静かにしてくれと腕を引いてそそくさと部屋に入れる。本当は玄関先で帰したかったが、大声で話されては堪ったもんじゃない。
「財布、有難うございます」
頭を下げると鎌原組長は財布を俺に手渡した。
「良いって事よ。そんな事よりちょっと便所貸してくんないかな?」
「…はい」
玄関の近くにある手洗のドアを開けると、鎌原組長は「サンキュ」と礼を言って中へと入った。リビングで待ってると鎌原組長は高級そうなダークブルーのハンカチで手を拭きながらリビングに入る。俺が立ち上がると、鎌原組長は椅子にドカッと勢いよく座る。背もたれに肘を掛け、「ま、座れよ」と自分の家かのように指示を出す。
横柄なやつ、と俺は眉間に皺を寄せながら対面の椅子に腰を下ろした。財布を持って来た。しかも橘と古い仲。橘が敬語で話し、やたら嬉しそうに話す相手。無碍には出来ないが、なんだかやっぱりいけ好かない。鎌原組長は片眉を上げて俺をじっと見た。
「さっきはよく見てなかったけど、まぁ、確かに良い男ではあるか」
「………は?」
突拍子もない言葉に動揺すると、鎌原組長は首を少し傾ける。
「雪とここで暮らしてンだって?」
「…え? あ、はい」
橘がそう言ったのだろう。俺と住んでる事をこの人にあっさりと言っていた事に驚いた。
「それは会長付きとしてか? 用心棒として、世話役として、組織の一員として一緒に住んでンのか」
俺がいいえ、と断言できるわけがなかった。同棲だとか、付き合ってるだとか、そんな勝手な事を俺の口から言えるわけがなかった。この鎌原という男の事を知らない俺にとってはリスクしかないのだから。
「橘さんは、…会長は何か言ってましたか」
「俺は君に聞いてンの」
「……俺の口からは何も言えません」
「どして?」
「橘さんの私生活に関わる事を俺が言うわけにはいきませんから」
「私生活に関わってんだ?」
「いや、それは…言葉の綾で、用心棒や世話役としてでも私生活を共にするでしょうし、そういう事じゃ…」
「そういう事?」
どんどん墓穴を掘っちまう。
「…とにかく、橘さんが言ってない情報で、橘さんに関わる事は何ひとつ言えません」
「へぇー。…君さ、雪の過去は知ってンのか」
唐突に何々だ。俺の眉間の皺は更に深くなる。
「ある程度は聞いてますが」
「ある程度、か」
鎌原組長は椅子に深く寄り掛かると、顎を撫でる。
「君にとって雪と関係を持つ事は、昇格する為の足掛かりってンなら、今すぐ別れてくれねぇかな」
「あ?」
足掛かり……。ふざけてんのか、こいつは。目上だがつい喧嘩腰にもなってしまう。鎌原組長は一切表情は変えず、淡々としていた。
「半端な気持ちであいつの用心棒してンなら別れろって事。君、元は空畑派閥だろ。雪に近付いたのも空畑の命令だった、そうだろ?」
確かに、そこを切り取られると反論は出来なかった。俺が橘を親父の仇だと、殺そうと考えて行動していた時期があったのは確かだった。ぐっと拳を握る俺に、鎌原組長は畳み掛けるように言葉を吐く。
「あいつを傷付けてからじゃぁ遅いんだよ」
目の下がひくりと痙攣する。今は違うのだと、俺はゆっくりと言葉を選びながら吐き出した。
「確かに橘さんとは因縁がありますし、距離を取っていた事もあります。空畑さんの派閥と呼ばれてもおかしくはありません。でも今の俺にとって橘さんは、恩を返し、尽くして、命を懸けるほどの存在です。俺は何があっても橘さんの側を離れません。死ぬまで側にいたい。…俺は、あの人の為に命使うって決めてるンで」
「へぇ。こりゃぁまた大きく出たね」
「……橘さんがこの組織の会長じゃなくたって、そもそも極道じゃなくたって、俺はあの人の側にいます。組織の一員としてあの人の側にいるのかという質問に対してはお答えできませんが、橘さんを足掛かりにして上を目指してるのか、という質問にはいいえと答えさせて頂きます」
「なら、覚悟決めてンだな?」
「…覚悟、ですか」
「あいつの過去もぜーんぶ引っくるめて抱えられるのかって聞いてンだ」
俺もまだ知らない過去、という事だろうか。橘は俺にあの時、全てをぶち撒けたと思っていたが、まだ何かあるのだろうか。だが何にせよ、答えは決まっていた。
「どんな過去だろうと俺は受け止める自信があります。しかし橘さんにとって言いたくないような過去なら俺は知りたくない。俺に知られるのが嫌なのだとしたら、俺はあの人の感情を優先します」
「なるほどね。…ま、言いたい事は分かった。が、それでもやっぱり知っておくべきだな。あいつは言いたくねぇだろうけど、お前は聞かなきゃならない」
「………はぁ」
「言わなくて済むなら言いたくはねぇがな。お前が一番あいつに近くて、あいつを想ってるってンなら、やっぱり知っておくべきなんだよ」
「……橘さんの過去をですか」
「中根組、知ってるな?」
くっと一気に緊張が走った。
「はい。…橘さんが昔、その組に借金してたと聞いてます。栄野市にあった組織で、崚王組と敵対していて、親父が由賀組組長の時に壊滅させた、そうですよね」
「そ。雪が中根組と関わってたからこそ壊滅できたンだ。あいつは昔、騙されて借金背負わされて、酷い目に遭わされた。それは知ってんだな?」
「えぇ」
鎌原組長がそれを知っているとは…。橘が直接過去を語ったのだろうか。
「で、借金作っちまった相手が中根組。借金背負わされて、若くて面の良いあいつがどう金を稼がされたか。その手段をお前は聞いてるか」
想像は出来た。ただ、過去を話してくれた時、橘はオブラートに包むように明確な言葉は選ばなかった。
「いえ、詳しくは知りません」
「あいつが金を返す手段として強要されてたのは売春よ」
ぎりっと奥歯を噛み締め、冷静に言葉を聞く。
「んであいつの監視役をしてたタチの悪い男は、体売らせた挙句、あいつが逃げないよう脅しに脅しを重ねて首輪を嵌めて玩具のように扱っていやがった」
「……っ、」
冷静にと考えるが吐き気がした。その憤りは一瞬にして沸点に達するほどで、今その男がいようものなら何の躊躇いもなく殺せるほどの憤りだった。橘は前に言っていた。言いなりになった、と。金を返す為に、言いなりに。何をさせられていたかは予想できたが、こうして直接言葉にされると毛が逆立ち、酷く重く苦しい怒りに思考は支配される。
「さすがに言葉にされると堪えるか」
鎌原組長は俺の目の色が変わったのに気付いて、ふっと口角を上げる。
「橘さんはそいつを刺したンすよね。結局、その男はどうなったんです。死にましたか」
「ふふ、まぁ、落ち着け。主格のその刺された男は生きてる。が、雪は刺した瞬間、殺したと思ったろうよ。だから逃げて、死のうとして、由賀会長に助けられて、中根組を壊滅させた。中根組ってのは悪どい連中の集まりでな、由賀会長がきっちり壊滅させて、残党にも目を光らせて復活させないよう注意していたらしいが、その由賀会長が殺され、雪が会長の座に就いた今、どうやら不穏な動きが見えてきた。中根組が再び結成されたンだよ。栄野市で妙な動きがあった事は少し前から噂されてたが、それが中根組の残党だってのは、俺もついさっき知ったんだ。それも雪が刺した、あの腐れ外道を中心に再結成されてンだ」
「…え」
嫌な汗が掌に流れた。最悪な結末を想像をしては、冷たい空気を背中に感じた。
「穏やかじゃねぇだろ? だから俺はお前に問う。あいつは厄介な連中に狙われる可能性が出て来て、それも過去絡みだ。厄介で繊細な案件になる事が予想される今、もし一番近くにいるお前が、あいつを踏み台にする為に側にいるのなら、一刻も早く、側を離れてやってくれねぇかな。過去の話を聞いて、気持ちが変わりましたってんなら、それでも良いさ。離れるなら、早いうちが良いからな」
確かに、俺は橘を殺そうとしたような男だ。けど今は違う。俺にとって橘はかけがえのない人で、橘はずっと俺の事を想ってくれていた。健康に生きていてくれと、温かく優しく願ってくれていた。橘がいなかったら、今ここに、五体満足で生きてなどいない。だから橘の為に俺は恩を返し、尽くしたいだけなのだ。
「……鎌腹組長、俺は何があっても橘さんから離れません。俺はあの人の為にこの命を使うンです。あの人の為だけに」
鎌原組長はその言葉を聞いて安堵したように、頬を緩めた。
「ほーう、断言するか。それならそれで良いが、……そうか、読みが外れたな?」
頭を掻きながら笑う鎌原組長に俺は理解が出来ず、眉根を顰めていると、寝室からゆらりと男が出てきたのが横目で見えた。
「…家にまで乗り込んで来たンすか?」
「そんなんじゃねぇよ」
鎌原組長は橘を見上げると口端を上げて鼻で笑う。
「料亭で俺が言った通りだったでしょう。桜は良い男なんです」
料亭で何を話していたかと思いきや、俺が良い男だと橘は鎌原組長に言っていたらしい。
「橘さん…」
橘は真っ白なTシャツを着て、スウェットを履いていた。橘のTシャツ姿はかなり珍しい。豪快な墨がTシャツから見えている。俺が声を掛けると橘は俺の隣に腰を下ろし、鎌原組長に首を傾ける。鎌原組長は口を歪めつつ、「そうみたいだな」と肯定した。
「桜はこういう男です」
「ふーん」
「ただ、俺の為に命懸けるのは正直堪えるところがあるんですがね。できれば俺の為に死ぬような事、あってほしくないんで」
「ふふ。それは酷な話なんじゃねぇのか? お前の為に死にてぇやつに命使うなってのはさ」
「俺は根っからのヤクザ者なんでね。酷な事を思っちまうわけです」
「惚気やがって」
「まだ酔ってンですね」
しばらく橘と鎌原組長で会話が続き、俺はその間を邪魔する事もできず、ただ視線だけを動かしていた。ひと通り話すと橘は、「…で、鎌原組長、」と前屈みに体を倒す。
「俺の過去、知ってたンすね。それをわざわざ言いに?」
小首を傾げる橘に、鎌原組長は俺を指差した。
「いやいや、それはついで。お前が財布忘れてったからよ」
俺は渡された財布をすぐに懐から出して、「電話、何度も鳴ってたんで出ちゃいまして」、そう説明しながら橘に財布を返す。
「そうだったのか」
橘は「すっかり酔っちまいました、すんません」と苦笑いを浮かべながら鎌原組長に頭を下げた。
「飲ませた俺が悪いな。すまんすまん。それに、ちょっと用心棒くんに話を聞きたかったってのは本当だから」
「でしょうね」
「お前が訳ありだってのは、会ったその時から知ってたサ。ただ、あの腐れに何をさせられてたかってのは知らなかった。知ったのは、というより、点と点を繋げて理解しちまったのは最近よ。妙な動きが栄野市であって、目ぇ光らせて、そしたらさっき連絡入ってよ。中根組が再結成したって。お前は知られたくねぇンだろうが、あいつらが何を仕掛けてくるか分かったもんじゃねぇのに、用心棒が生半可な野郎だったら叩き出そうかと思ってたんだ」
「生半可…、ふふ。今日はやたら桜の事を聞いてきたのはそういう事でしたか。桜なら大丈夫です。こいつは信用なります。それに、俺の過去はただの過去。もうとっくに吹っ切れてます。桜にも話したって良かったンですけど、耳障りの良い話では決してありませんから。聞かれたら答えてましたけど、あんな面白くも何ともない話、聞きたくないのが普通でしょう」
鎌原組長に向けて言われたその言葉に俺は食って掛かるように言葉を投げる。
「で、でも中根組を根絶やしにしたいという感情は、より一層強くなりました。あんたの前に現れようもんなら俺がきっちり落とし前つけます」
橘をじっと見て決意を強く言葉に出すと、橘はふっと笑って鎌原組長を見た。
「ね? 良い男でしょう」
「アハハハ、まぁ、血の気が多すぎるのはどうかと思うけどぉ?」
「ですね」
橘の視線がやけに優しくて、俺はその瞳を見上げながら肩をすぼめた。
「さて、俺はもう行くかなぁー。明日は久々に街をぶらぶらできるかなぁと思ってたんだがよ、急に帰らなきゃならねぇんだもんなぁ」
「本当に急ですね。緑翔会もかなり荒れてますし、加えて中根組。もともと緑翔会系でしたよね?」
「末端の末端だがな。それでも上には報告入れなきゃならねぇし、こっちでシめるところシめねぇと」
鎌原組長はそこまで言うと俺に向き直った。
「…なぁ、用心棒。もし雪の周りで妙な動きが少しでもあったらすぐに連絡をくれ。いいな?」
「はい」
頷くと、鎌原組長は安心したように顔を綻ばせ、ソファから腰を上げた。
「んじゃ、俺はこれでお暇するよ。久々にお前の顔も見れた事だし、由賀会長にも献杯出来たし、またこっちに来る事があれば連絡するからよ、また飲もうや」
「えぇ。いつでも顔を出して下さい。また飲みに行きましょう」
「おう、それじゃぁな」
鎌原組長を玄関まで見送ると、トンと俺の肩に手を置き、強面を崩して微笑まれる。
「雪の事を頼むぞ、桜木君」
初めてしっかりと名前を呼ばれる。ピシッと襟を正せたと、その圧を感じ、背筋が伸びた。受けて立とうじゃない。
「はい、頼まれました」
橘はやけに甘ったるく相好を崩していた。珍しくヒラヒラと手を振って見送る橘の姿を横目に焼き付け、この鎌原という男は橘にとって良い兄のような存在なのだろうと思った。パタンとドアが閉まり、静まり返った玄関で、橘は「悪かったな」と施錠をしながら謝った。
「え? 何がです?」
「あの人に色々と言われたんじゃねぇのかなと思ってサ」
「まぁー何も言われなかったわけじゃないですけど。でもそんな事より、あんたってすっげぇ思われてんだなぁと、あんたとあの人の関係に嫉妬はしましたね。あの人はあんたにとって家族みたいなもんなのかなぁって思うと納得したんで、良いって事にしますけど」
「ふふ、良いって事にしてくれンのか。なら良かったよ」
「兄貴分なンすか」
「そうだなぁ。組は違うけど、ひょんな事から仲良くなって、大昔に兄弟盃交わしてンだ。あの人にとっちゃ俺はずーっと弟みたいなもんなんだろうなと思うよ」
「放っておけないんでしょうね」
「だろうな」
橘はクスッとおかしそうに笑うとキッチンでコップ一杯の水を飲む。その隣でシンクに寄りかかって、じっと橘を見上げると、橘の片眉は怪訝に上がった。
「酔っぱらいの介抱させた事に対して謝れってんなら…」
「違いますよ。気になっただけです。鎌原組長と何を話してたのかなーってサ。なーんであんなに飲み過ぎてンのかなーって。俺の事、良い男だった褒めちぎる会でも開いてたンすか」
「……さぁーな」
橘は気まずそうに少し視線を逸らすと水を飲み干した。
「ま、良いけど。それにしてもあんたって酔うとやたら甘くて柔らかくなるンすね」
「気色の悪い事言ってンじゃねぇぞ。ほら、寝るぞ」
コップを片すと、橘は寝室へと向かい、俺はその背中を追う。
「ね、鎌原組長とあんたの関係って、本当に兄弟分ってだけですか」
「あ?」
「実は昔、関係があったりしたンじゃないですか」
「……は?」
「だってあの人はあんたの墨を知ってたし、あんたって年上好きでしょう」
「あのなぁ、桜、」
「年上の色男が好みだってのは知ってンすよー。だって橘さん、やたら嬉しそうなんだもんなぁ。ずっと口角上がってるしサ。心変わりして、年上の色男に靡きそうで、俺は今から気が気じゃないっすよ」
口を尖らせながら伸びをしつつ、いい加減着替えようと寝室の箪笥に手をかけた瞬間だった。突然、橘に勢い良く腕を引かれ、そのまま視界がぐるりと回転する。呆気に取られていると、いつの間にか天井を見ていた。
「……俺が心変わりするって? 年上が好きだから、お前と別れるって?」
橘はちょっと苛ついていた。眉間の皺の深さに、ついこの人の底知らぬ恐ろしさを思い出す。だってこの人、俺の腕を折った事があるのだから。それも両方。
「じ、自覚はあるンすよ。俺はあんたの好みじゃねぇんだろうなぁって、自覚は」
「ふざけてんのか。毎日散々まぐわっといて、俺の好みはお前じゃねぇと、本気で考えてんのか」
「いや、それは……」
「俺ァな、そう軽くねぇ。心底惚れてもねぇやつに、毎日毎日股ァ開かねぇよ」
橘は呆れたように溜息を漏らし、同時にゆるゆると眉間の皺が消えていく。
「………すんません」
謝ると、橘は数秒の間を置いて困ったように笑った。考えれば分かる事。でも一度不安になるとその不安はぐるぐると思考を支配する。その不安は、この人にしか拭えず、この人のたったひとつの言動だけで簡単に払拭されてしまう。俺の脳みそは簡単なのだ。
「俺の好みを勝手に決めんな。阿呆が」
橘の頬が緩んだ。
「死ぬまで側にいるンだろ? ん?」
「き、聞いてたンすか…」
ギョッと目を見開くと、橘は首を傾けてやけに優しい目を向ける。
「なぁ、桜。なんで俺がタバコを吸わねぇか知ってるか」
「し、知りませんよ。…煙が臭いからとか、っすか」
急に何を問われてるのかと怪訝に思っていると、橘は答える。
「お前がタバコを嫌がるから、だ」
「…え?」
「ガキんちょのお前がタバコを極端に嫌がってたから、だ。タバコの匂いがすると部屋に入らねぇんだ。だからタバコを吸うのをやめたンだよ」
この人はずっと、本当にもうずっと、俺の事を心の中に留めていたのだろう。もう二度と会う事がないガキんちょを、ひたすらに、思い続けてくれていたのだろう。
「ほ、本当……っすか」
「それを今でも律儀に守ってる俺の事が信用ならねぇか? いつかお前を捨てて、他の男ンとこに行くと本気で思ってンのか」
優しく、甘く、熱を帯びた瞳が俺を捉え、俺は唇を噛み締めた。タバコを吸わない理由が俺にあったなんて全く思いもしなかった。橘は酔っている事もあり、盲愛的な愛情を駄々漏らしては俺を甘やかすようだった。
心底、愛されてンのな。
この人はいつだってそうだった。環境が変わって、関係も変わって、不安事は絶えないが、その度に橘は面倒臭がらず、その愛情を惜しみ無く俺に注いでくれた。
返し切れない恩を感じ、ひたとその向けられる愛情に安心しては、その数百倍の重い愛を抱いてひた隠す。とはいえ、隠せてないのかな。重いやつ、と思われるのは怖いが、橘は何も言わずにただ受け止めてくれる。
この人は、ずっとそういう人だった。
「……桜、」
橘の熱い掌が頬に添えられ、俺は橘の太腿に手を置いた。
「はい…」
その瞳を見上げると、橘の黒い瞳が弧を描く。
「愛してる。ちゃんとな」
初めて言われたその言葉に俺の心臓はぴたりと止まった。時も止まった。あの橘の口から愛してる、と言う幻想的な言葉が吐かれるなんて思いもしなかった。愛だ何だ、儚い言葉は夢の中だけかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
不安な気持ちをあっという間に掻っ攫った橘を見ていると、鼻先がツンと痛くなり、鼻が詰まってしまう。絶対に泣くもんか、と思えば思うほど、ぐだぐだと顔は溶けていく。
橘に面と向かって愛を囁かれた事に対しての安堵に嬉し涙もそうだが、にぃににとって俺という存在がきちんと明確になっている事に対する感動に、つい鼻を詰まらせてしまうのだ。感慨深い。そして、愛おしい。
「………泣くつもりじゃないンすけど。なんでだろ、あんたといると感情の起伏が激しくなるンすよ」
「ふふ、"また"鼻垂らしてンなぁ」
「すんません……」
「阿呆だな」
橘の呆れたような優しくも甘い顔を見上げて、俺は言葉を詰まらせながらも感情を吐き出した。
「橘さん、……頼むから、最後の最後まで、あんたの…あんたの側に、いさせて下さい」
橘の眉が下がる。
「あぁ」
頷く低い声が心地良い。
「………俺が死ぬその瞬間か、あんたが死ぬその瞬間か。その最期の瞬間まで。最期の瞳に映るのはあんたじゃなきゃ嫌だし、あんたが死ぬその瞬間も、俺じゃなきゃ嫌です」
「ワガママだなぁ」
「譲れません」
「好きにしろ」
「橘さん、…」
「なんだ」
「あんたの為にこの命を使う事、許して下さい」
橘の手に手を重ねて頬を寄せて、決意を固めて意志を強く、橘の瞳を見つめる。橘は眉根を顰めた。
「………怖い事、言うんじゃねぇよ」
本気だと伝わったからこそ、橘の眉間には皺が寄る。
「怖いですか」
「もうあんな思いしたくねぇんだ。……引退、考えちまうじゃねぇか」
「それも良いじゃないすか。いつか引退したら、田舎に別荘買いましょうよ」
「温泉湧いてると良いなぁ」
夢物語を語るのは楽しい。互いに、叶う事は決してないのだと理解しているからこそ、儚い夢に花を咲かせるのだろうと思った。
「橘さんって、温泉好きでしたっけ? ゴリゴリに墨入ってンのに」
「だからじゃねぇのかなぁ。制限されてると、やりたくなる」
「アハハ、確かに。……ね、最高じゃないすか。ふたりっきりで暮らしましょうよ」
叶えば良いな。叶えば、どれほど幸せか。そしてそれは、どれほど非現実的で難しいか、俺も橘もよく分かってる。橘はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……極道者に長生きなんざ望めねぇし、望む気もなかったが、参ったな。お前のせいで、生きる事に固執しちまう。…本当に参ったな」
「責任取るンで。だから長生きして下さいよ。ね? 橘さん」
橘は眉を下げ、儚い顔を一瞬だけ見せたが、それを隠すように口角をゆるりと上げて口を開いた。
「感動的なセリフ吐きながら、硬くさせてンじゃぁお前の本音か建前か分からねぇなぁ」
「い、いや、本音! 本音ですってば! 上に乗られりゃぁ反応しちまうでしょう!」
橘はこの世界で散ろうと考えている。それは分かっていた。だから引退とか田舎暮らしとか、そんなもの全ては幻想で夢物語。ふたりで老後を過ごすなんて、夢のまた夢。そんな事はとうの昔に分かってる。ただ、夢を語りたかっただけだ。
この人がこの世界で散るのなら、俺も。
あんたの死に場所が、俺の死に場所。
だから今を目一杯、楽しむのだ。
「ふふ、ふはは。まぁ、そういう事にしといてやるよ」
「本音ですってば…」
「そうか。…じゃぁ、優しい桜くんに、今日はたんと奉仕してやろうか」
「え!? し、死ぬ…」
「あ? 頑張れよ」
「嬉死ぬ………」
「ふふ、嬉死ぬな。体力あンだろ? 用心棒くん」
橘の太腿に手を寄せ、その瞳を見上げながら腰を抱く。濡れた唇を重ね、その多幸感を感じていた。
橘は嫌がるけれど、この命も体も、橘の為に。
命尽きる、その時まで、あんたに恩を返したい。
あんたの為に死ぬんだと、言えば橘が不安そうに顔を顰めるから、その言葉は言わなくなった。
けれどいつかは…。
そう、思ったのはもういつの事だったろうか。ギラギラとしたあの時代を送ったのも、もう遥か昔のように感じてしまう。
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