部下の自覚があったのか
みんなと別れたあと、杏は駅に戻るふりをして、会社の駐車場に行った。
今日は呑んでいないらしい向井がそこで待っていたからだ。
「すみません。
遅くなりまして」
と言うと、いや、いい、と言うが、いつも怒っているような雰囲気があるので、どきどきしてしまう。
どきどきの意味が違うが。
そのまま、向井の車に乗った。
帰り、送っていってやるから、会社の駐車場まで来いと向井に言われた。
おそらく、華さんのことを聞きたいのだろうと思い、杏は素直にそれに従った。
蘭たちには黙ってきたが、なんだか蘭にはわかっている気がした。
「いや、本当に偶然だったんですよ」
「なにかだ」
「華さんにお会いしたのは」
と言うと、
「華さんか」
と苦笑する。
「お前は本当に誰とでもすぐ仲良くなるな。
華とも、律とも」
なんだろう。
微妙に嫌味な感じだ、と思った。
叱られそうな気配に、この車に乗るんじゃなかったかな、と思ったとき、まだ車を出していなかった向井が、助手席に手をかけ、口づけてきた。
え、と思ったまま、閉じなかった視界に、駐車場に下りてきた七見たちが入った。
誰か女の子と一緒だった。
何人かで、呑んでないその子に送ってもらうところだったようだ。
こちらに気づいたらしい七見が、みんながこちらを見ないように、他所に注意を向けさせてくれる。
やばい。
まずい人にすごい借りを作ってしまった……というような、しょうもないことをずっと考えていた。
しばらくして、離れた向井の腕をつつき、七見たちが居るから、エンジンをかけないように言った。
みんなが気づいてしまうかもしれないからだ。
女の子の車に乗る寸前、ちらと七見がこちらを見たが、みんなには気取られずに済んだ。
彼らが消えたあとで、向井が車を発進させる。
赤信号で止まったときに、ようやく杏は口を開いた。
「課長なにやってるんですか」
「……なにやってるんだろうな」
と向井は言う。
「お前と居ると、ときどき自分がわからなくなる。
ちっちゃなとき、どんな悪ふざけをしても、可愛いと思って眺めていたのに、昨日、お前といちゃついてる律を見たとき、本当にあいつを殺してやろうかと思ったし」
……いや、いちゃついてませんし、と思った。
そのとき、車があのホテルの近くに来た。
向井が、ちらと見て言う。
「寄ってくか」
「寄りません。
なに軽くラーメン誘うみたいに言ってるんですか」
と愚痴ると、ようやく少し笑ってくれた。
こういうときに、ずっと真面目な顔してられると、ちょっと怖い。
「課長、そういうの、セクハラですよ」
「俺は独身みたいなもんだし。
本気の場合はセクハラじゃない」
「……本気なんですか?」
と訊くと、
「いや」
と言う。
どうしたいんだ?
さっきの課長の言葉じゃないが、本当にわからないと思った。
この人がどうしたいのか。
……自分がどうしたいのかも。
「華は理想の妻だった」
ふいに向井はそんなことを言い出した。
「お前は下の下だ」
「降ろしてください」
と走っている車のドアを開けようとすると、阿呆かっ、と怒鳴られた。
車を山道の脇に止められる。
車を止めたので、もう降りていいのかとドアを開けかけると、ロックをかけられた。
「莫迦なのか。
こんなところで降りたら、クマに襲われるぞ」
「此処で課長に襲われるより、クマに襲われた方が……っ」
言いかけ、本気で考えてみた。
言葉を止めた自分に、
「俺より、クマの方がいいわけないだろう」
と言われる。
……そうですね。
「心配しなくとも、お前なんぞを襲ったりしない」
と言うので、
「既に結構なことしてますよね!?」
と反論した。
「下の下に、おいたしないでください。
部下かと思って、少々のことしても大丈夫だとでも思ってるんですかっ」
と言うと、
「部下の自覚があったのか」
と呆れたように言われる。
「俺に偉そうに意見ばっかりしやがって」
杏、と名前を呼ばれてどきりとする。
思わず、ロックを外そうとした。
このまま此処に居てはいけない気がしたからだ。
課長が、じゃなくて、自分が。
ロックを外そうとした手を向井が止める。
もう片方の手を助手席にかけられていたので、なんだか逃げ場がなくなる。
いや、それは言い訳かもしれないと思った。
……これは同情なのかな? と思う。
なんだかこの人の情けないところばっかり見てるから。
奥さんは格好よくて、あっさりこの人を捨てて新しい人生を歩みだそうとしていて、この人のところには、絶対、戻ってこない。
それを見てしまったから。
私は同情で。
この人は手近に居た私にすがっているだけなら、そういうのは良くないと思う。
だが――。
「蜂谷はもう諦めろ」
そう向井は囁く。
「……貴方は本気じゃないのに?」
と間近にある、その目を見ると、
「……本気だ」
と向井は言った。
そのまま口づけてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます