すごい勢いで流してってくれるわよ



 下に下りると、ごめんなさいねー、と課長の奥さんは素敵な笑顔で言ってきた。


 向井華むかい はなさんと言うらしい。


 ……いや、向井ではもうなくなるようだが。


 杏を上から下まで見て、

「ふーん。

 あの人、こういうタイプが好みだったんだ」

と笑う。


 嫌味でもなんでもなく、へーと言うように。


「若くて可愛いわね、杏さん」

「いやもう、そんなに若くもないですが……」


 まあ、課長の同級生だったのなら、この人よりは年下だが。

 そんなこと全然気にならないくらいの美人だ。


「私とは、お互い、なにかこう、勢いで流された、みたいな感じだったから、別に私みたいなのが好みってわけでもないんだろうなって思ってたのよ。


 貴女だったら、流されるって感じじゃないから、きっと、本当は、貴女みたいな人が好みなのね」

と言い出す。


「いえあの、私、昨日は本当に、たまたま一緒に居ただけで、ただの部下ですから。

 あと、弟と律くんが友達で」


 そう言うと、あら、律と? と微笑む。

 少し母親の顔になっていた。


 そこで、杏が、はあー、と溜息をつくと、

「どうしたの?」

と訊かれる。


「いや、今の話がちょっと、うらやましくて」


 どの辺が? と問われ、

「流されたいんです」

と言ったあとで、待て、今の話の流れだったら、相手が課長になってしまう、と思い、


「いえ、課長とじゃなくて。


 私、昔から好きな人が居て。

 でも、どうにもこう、話が進まなくて。


 今、どんぶらこっこと流されていきたいなーと思ってたから。

 ちょっと、華さんのお話がうらやましいなって思いまして」


 あ、華さんって呼んでもいいですか? と言うと、どうぞどうぞ、と笑って言われる。


「なんだ。

 あの人、もらってくれないの?

 話が早く進んでいいのに」


 まだ離婚届、出してくれてないみたいなのよね、と華は言う。


「律くんのことがあるからとか言ってましたよ」


「そうかしら?

 あの人は、自分が結婚に失敗したと認めたくないだけよ。


 ねえ、あの人、もらってくれない?」

とまた華が言う。


「あの人なら、すごい勢いで流してってくれるわよ」


 いや、それもどうなんですか、と思った。


「ねえ、杏さん。

 今度、ゆっくり二人で呑まない?」


「え、いいですけど」

と軽く返事をしてしまったあとで、


「待ってください。

 私を丸め込んで、課長を押し付け、離婚届に判を押させようとしてませんか?」

と言うと、


「あら、バレたわ」

と華は、あっさりと言う。


 ちょっと笑ってしまった。


「まあ、いいじゃない。

 お互い、あの人に関して、言いたい愚痴がいろいろとあるでしょ。


 ちょっと呑みましょうよ。


 そういう意味で、貴女ほど話が合う相手も居ないと思うから。


 うっかり、今の夫に愚痴を言うと、そういうこともあるよ、とか言って、同性の立場であの人をかばってくるから、ストレス溜まるのよ」

と言い出す。


 ああ、もうあっちが夫なんですね。

 っていうか、今のご主人、いい人ですね、と思った。


 早く正式に結婚させてあげたいが、そのために、犠牲になれと言われたら、それはちょっと、ごめんだが。


 結局、華と連絡先を教え合い、今度呑むことになった。


「あのね、貴女は、あの人が自分のことを好きなわけじゃないと思ってるようだけど、そんなことないわ。


 二人で駅に立ってるの見たとき、すぐに思ったの。

 ああ、あの人が新しい恋人かって」


 すごく雰囲気が馴染んでてびっくりした、と華は言う。


「それから、貴女に、律のために離婚届を出してないって言ったのよね。

 あの人、そんな自分の弱みを見せるようなこと、人に言わないから」


 私にでもね、と言い、じゃあ、と手を挙げ、行ってしまった。


 


 入社したとき、蜂谷をいいな、と思った。


 でも、蜂谷の側にも、その視線の先にもいつも杏が居た。


 今、向井課長の奥さんと話している杏を見ながら、蘭は思う。


 杏も蜂谷も、いっそ、さっさとくっついてくれればいいのに、いつまでもぐだぐだしてるなあ、こいつら、と。


 春香も興味深々という顔で、外を眺めている。


 そのとき、蘭のスマホが鳴った。


 誘いの電話だった。

 会社の男の子、何人かが集まって飲んでいるらしい。


 合流しないか? と訊いてくる。

 すぐ近くで呑んでいるらしい。


 蜂谷も居るようだった。


「蜂谷とかわって」

と蘭は言った。









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