今夜は暇か



 朝から真面目に仕事をしていた杏は視線を感じていた。


 気のせいだろうか。


 窓際の席から誰かが見ている。


 課長や部長が居る席だ。


 目を上げると、何故か、向井課長がこちらを見ている。


 しかもこの上なく、胡散臭げに。


 なんなんだろうな、と思っていると、視線が合った。


 課長はひとつ溜息をつき、手招きをする。


 な、なんでございましょう……とびくびくしながら、前に立った。


「ちょっとこれを持って、付いて来い」

と適当にその辺にあった古いファイルを投げてくる。


「は、はい」

と緊張してついて言った。


 自動販売機とソファのあるスペースまで行くと、向井は言ってきた。


「お前、うちの息子になんかしたか?」

「は?」


「実は、お前のことを律に聞かれたんだ」


「ああ、それは。

 えっと、律……律くん、うちの弟と友達だったんですよ」

と笑顔で言ったが、向井は笑いもせず、杏を見ている。


「……それだけか」

「そ、それだけですが、なにか?」


 まあ、ちょっぴり、お宅の息子さんの笑顔が素敵だなーとかよこしまなことを考えてますが、と思いながら、微妙な笑いを返すと、向井は、もう一度、溜息をつき、


「まあ、お前には蜂谷が居るし、大丈夫か」

と言ってきた。


 大丈夫って、なにが? と思いながら、

「蜂谷がどうかしましたか。

 あれは私とは、なにも関係ないですよ」

と言うと、


「お前、会社に入る前から、蜂谷と付き合ってるんじゃないのか」


 そういう噂だが、と言われ、課長も噂話とか聞くんですね、と思った。


「私は蜂谷とは付き合ったことはないですよ。

 蜂谷の中学時代の彼女に殴られたことはありますけどね」


「グーでか」

「パーでですよ」


「じゃあ、殴られたとは言わないだろう」

と細かいところを追求してくる。


「いや、そのくらいの衝撃はありましたよ。

 っていうか、違う高校なのに、わざわざ押しかけてきて、うちの高校の校門で。


 私はしばらく、時の人だったし、蜂谷と噂が立ったせいか、三年間、誰も私になにも言って来なかったですよ」


「三年間男がなにも言ってこなかったのは、別に、そこで殴られたせいじゃないんじゃないか?」


 向井は、ドスッと来ることをさらっと言ってくる。


 この人、仕事中も普段も変わりなく、容赦ないんだな、と思った。


 今まであまり、プライベートで口をきいたことはなかったのだが。


「っていうか、私、蜂谷の彼女に殴られる覚えなかったんですけどねえ」

と今更ながらに首をひねってみたが、


「いや、今見てても怪しいから、当時から、なにか怪しかったんじゃないのか?」

と言われる。


 ……この人は私をボロボロにするために呼び出したのだろうかな、と思った。


 杏は、ちらと部署の方を見る。


 ガラス張りだし、戸口が空いているしで、こちらが丸見えだった。


「ところで、課長、この構図、私が叱られてるようにしか見えないんですが」


「違和感なくていいだろう」


 うーむ。

 この調子で、また呼び出されてはかなわないな、と思い、杏は、ぺらっと白状してしまった。


「あの、律くんのことに関しては、特に問題はありませんから。

 私がただ、朝の退屈な通勤電車の中で、律くんの素敵な笑顔を眺めていたいだけなんです」


 向井は一瞬、止まったあとで、深い溜息をついて言ってきた。


「……鷹村、今夜は暇か」

「は?」


「ちょっとゆっくり話がある」


 ちょっとゆっくり説教されそうな気配に、


「い、忙しいです」

と答えていた。

 



「えーっ。

 課長に今夜は暇かって訊かれたの?」


「声、デカイ、蘭」


 此処は社食だっ、とカレーを食べながら、杏は睨んだ。


「なんで付いていかなかったのっ」


 付いていくって、私は犬か、と思いながら、

「なに言ってんのよ。

 課長は叱るために私を呼んだのよ」

と言うと、抑えた声で蘭は叫ぶ。


「それは行ってみなきゃわからないじゃないっ。

 男と女なんて、何処でなにがどう転がるかなんてわからないんだからっ」


「いや、課長、既婚者だし」

と言うと、


「ところがそうというわけでもなさそうなんですよね~」

という声が頭の上からした。


 見ると、オレンジのトレーを手にした春香が立っていた。


 此処、いいですか、と言いながら、内緒話をするような前のめりな体勢で、するっと向かいの蘭の横に座ってくる。


「実はですね。

 いつ頃からか、課長と息子さんが二人で外食する姿が頻繁に目撃されてるんです。


 誰かが、奥さん、お仕事でも始められたんですか? って訊いたらしいんですが、いやいやって誤魔化されたとか。


 奥さん出て行ったか、離婚したかじゃないかって噂になってるんですよ」


「いや、離婚してたら、わかると思うけど……」


 個人情報なので、しゃべるわけにはいかないから、ぼんやりとした感じで、杏はそう言う。


 春香には、その意図が伝わったらしく、

「そうか。

 杏さん、人事ですもんね」

と小声で言ってきた。


 まあ、向井自らが人事なので、勝手に処理していたらわからないが。


 そこで蘭がいきなり怒り出す。


「奥さんなんで出て行っちゃったんだろ。

 あんな男前で仕事もできる課長の何処に不満があるって言うんだろ」


「性格じゃない?」


 春香と蘭がぎょっとした顔をした。


 後ろを振り向く。


 杏は、どうしようかな、と迷って、笑ってみた。


「あら、課長。

 此処も空いてますよ」


「……その席はいろいろと詮索されて、うるさそうだから座らない。


 それから、鷹村。

 しばらく、うちの息子には近づくな」


「どっ、どんな制裁ですか、課長っ。

 ちょっと口がすべっただけじゃないですかっ」


 つい、声が高くなったので、なんだなんだ、とみんながこちらを見る。


 向井は周囲を見回し、小さく舌打ちした。


「鷹村、明日は暇か」


「暇じゃな……


 暇です」

と向井の視線に押されるように答えていた。


 向井が去ったあと、蘭たちを振り返る。


「なんで私だけが怒られるのよっ」


「だって、私たちは事実をそのまま言っただけですしー」


「私は課長をかばって、奥さんに怒っただけだしー」


 頑張って来てね、杏、と笑顔で二人に送り出されそうになった。










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