六、そばにいること3
本来、うら若い男女がむやみに肌を触れ合わせるのがはしたない振る舞いであることくらいは鶴も知っていたが、相手は婚約者で、なによりいつも鶴を大切に扱ってくれる秋人なのだから、誰に咎められるいわれはないと思った。
秋人の手は鶴が触れた瞬間にぴくりと動き、すり寄るような動きを見せたかと思えば、反対の手と同じように彼の手のひらの中にすっぽりと収められてしまった。
「……ほんとうにごめんなさい。呪いのことをわかっているつもりでしかなかったから、うかつにこんな怪我なんかして、あなたを不安にさせてしまいました」
「いや……。こちらこそ、取り乱して済まなかったね。俺も、もっと冷静になるべきだった」
秋人は、その手で包んでいた鶴の両手を、小鳥を放つようにそうっと解放した。鶴は離れても手に残る大きくて少し固いような皮膚の感触に戸惑い、腹の前で両手を組み合わせて指を絡ませ、意味もない手遊びをした。
「みっともないな、きみのようにずっと年下の女の子に慰められるなんて」
「そんなこと……わたしにもなにかできることがあるなら、それはうれしいです。それがもしお役に立つなら、なおさら」
「…………」
「どうなさいました?」
「なんでもないよ。きみがあまりに健気だから、少し昔の自分にあきれていたところ」
秋人は何をどう呆れたのかまでは言ってくれなかった。
そのあとは、彼が鶴に包丁を持たせるのを嫌がっているようだったので、鶴は米と味噌汁の火加減をじっと眺めていた。
炎には浄化の力があるという。もし秋人を苦しめている呪物を見つけたあかつきには、かまどに放り込んでやろうか。そうしておいしいご飯のもとになってしまえばいい。秋人を苦しめた呪いなのだから、最後は少しくらい秋人のためになったほうが、閻魔さまもいくらかは情状酌量の余地があると……別に思ってくれなくてもいいわ、と鶴は途中で考えを改めた。
鶴の目の前で、お米の釜から湯気がたちのぼり、しかも、おいしそうな匂いを放っている。鶴が浮かれているのはそのせいだ。自分の手で研ぎ、水を量り、火にかけたお米が、いまふっくらと気持ちまでほころびそうなおいしそうな匂いをさせている。
炊飯といえば焦がすか水が多すぎてどろどろになるか硬すぎて芯の青くさい味がするか、いつも失敗ばかりの鶴にとって、手がけたお米が見事に炊きあがりそうなようすでいるのは、不思議なほど心のはずむ出来事だった。
「お米が炊けそうです!」
「きみのそんなにうれしそうな顔、初めて見たな」
「えっ」
鶴は思わず自分の頬に両手で触れてみたが、言われてみればその通りかもしれなかった。
この屋敷に来てからだけでなく、生まれてからいままでを振り返っても、こんなに晴れ晴れとした気持ちでいた思い出はほとんどないように思われた。
「お米が炊けるってうれしいことなんですね……。あの、いつもおいしいご飯を、ありがとうございます」
鶴が素直な気持ちを口にすると、秋人は笑えばいいのか迷ったように中途半端にくちびるをゆるめて、結局「フフ」と小さな笑みをこぼした。
「じゃあきみにも、いつもおいしいご飯をありがとう」
「……? ご飯を作ってくださっているのは……」
「きみのぶんと思うと作りがいがあるし、ひとりで食べるよりずっとおいしいものだよ」
そう言った秋人の表情は、ちょうど彼が確かめている味噌汁の鍋から立ち上る湯気で見えなかったが、声音がやさしげに弾んでいるので、鶴にも彼の気持ちがわかったような気がした。
秋人のことを『わからないひと』だと思っていたのはほんの少し前のことだったのに、いまでは声を聞いただけでもどんな気持ちでいるのかが想像できる。秋人のことをわかると思えるのが、面映ゆい心地ながら、どうしてかとてもうれしい。
「きみのこと……破魔の血筋だなんて話半分で、何ていうか、あまり期待せず受けた縁談だったんだけれどね」
秋人の独り言のようなつぶやきを、鶴はどういう気持ちで聞いたらよいのかわからなかった。おいしそうな米の炊ける匂いと、目の前で燃える炎を見つめながら、黙って意識だけを傾けた。
秋人も、鶴に聞かせるつもりがあったのか、なんとなく口にしただけだったのか、途中で言葉を切って、手にしていたお玉で味噌汁をかき回し、火を落として、完全に調理に戻ってしまった。
どうしても彼の言葉の続きが気になって鶴が顔を上げると、秋人はまるで鶴が彼を見るのがわかっていたかのように、まっすぐ鶴の目を見止めた。
「きみにはずいぶん失礼なことと思う。でも、いまは本当に、きみが俺のところに来てくれてよかったと思うんだよ」
火のそばにいるからという理由ではなく、鶴の身体は熱く火照って紅潮した。
うれしくて、ほかにはなにも思い浮かばない。鶴のほうこそ、秋人と出会えて、たぶん、生きてきたなかでこれ以上のしあわせはないのだろうと、心も、身体も、全身が感じている。
「……わたしも、わたしも……」
なにかを言いたい。でも、なにを言えばいいのかわからなかった。自分がなぜこんなにもうれしい気持ちでいるのか、まだよくはわからないのだ。ただ、みつめあっているまなざしのあいだで、自分の気持ちは秋人に伝わっているだろうとわかった。
いっとき、ふたりで同じ気持ちを共有した。言葉にしなくてもわかることが、言葉を交わした先にあるのだ。それは身体が震えるくらいに心地よい感覚だった。
なかば夢見心地でいた鶴は、次の瞬間、横殴りの危機感に襲われてとっさに真白を握りしめた。
「鶴!」
「来ないでください、危ないので!」
炎の向こうから秋人の叫び声が聞こえた。鶴は真白の張ってくれた結界のなかで身を丸くし、周囲をうかがう。
かまどから炎があふれ出している。その火が結界ごと焼き付くそうとするかのように襲いかかるが、真白の結界は揺らぎもしない。自分が安全であることをわかっているから、秋人のことだけ心配していたものの、炎の向こう側にいる秋人の心境を思えば胸が痛んだ。
誰だって、目の前で人が炎に包まれたように見えたら驚愕し、恐怖するだろう。そしてたったいま自分が思ったその通り、炎の向こうから秋人がこちらへ手を伸ばし、炎を押しのけて飛び込んでこようとしているのを見た鶴は驚きおののいた。
「なにをなさっていらっしゃるのですか⁉」
さいわいにも、炎には秋人に触れない意思があるようで、秋人の身体に火が燃え移ることはなかった。秋人が近寄るごとに炎は彼を避けてゆき、やがて小さくなって消えてしまう。
呪いの力が真白の結界に負けたのだ。
「鶴、無事……痛っ」
そうとうな勢いで鶴のもとへ飛び込もうとしたらしい秋人は、直前で結界に身体をぶつけてはね飛ばされた。鶴はあわてて真白の結界を解き、ひっくり返った秋人に駆け寄る。
「ご無事ですか⁉」
何が起こったのかわかっていないようすの秋人の背に手を添え、身体を起こすのを手伝う。結界にぶつけたらしい額が赤くなっていたので、鶴は手ぬぐいを濡らしてそっとあてがった。
「呪いが……なんということだ」
「大丈夫です、わたしは怪我のひとつもありませんから。それよりも、火が燃えているところに突っ込んでくるなんて、なんて危ないことを……」
「呪いは俺を狙わないんだ。こんな卑怯なことを……黙っていてすまない……」
「知っています」
うなだれる秋人の額から手ぬぐいが落ちないよう手を添えつつ、鶴は答えた。とたん、秋人が急に顔を上げるものだから、手ぬぐいが振り落とされてしまう。それを拾おうと伸ばした鶴の手首を、秋人が強く握って引き寄せた。
「知っているって……待て、その前にきみは本当に無事なのか」
秋人の視線が鶴の頭のてっぺんからつま先までをつぶさにたどる。緊急時とはいえ、男のひとに身体を上から下までじっくり見られるのは恥ずかしく、鶴はつい目を伏せて身じろいだ。だが、鶴が離れようとすると、秋人は思いのほか強い力で鶴を抱き寄せ、自分のそばに留めおく。
「こうして俺のそばにいれば、呪いだってきみだけを傷つけるのは難しいだろう……!」
「落ち着いてくださいませ。わたしも申し上げていなかったことがあるのですが、わたしには守り刀の守護があるのです」
鶴が言い聞かせても、秋人は鶴を離さなかったし、鶴も離してほしいとは言えなかった。
先ほどの光景が、秋人にとってどれほど恐ろしいものだったか、想像に難くない。鶴は、自分を抱きしめている秋人の背中に手をまわし、ゆっくりと撫でさすっては、繰り返し自分が無事であることを伝え続けた。
しばらくして、荒れていた秋人の呼吸が落ち着くころ、ようやく彼は鶴の肩にうずめていた顔を上げ、それでも鶴を離さないまま、落ち着こうと努めているのがわかる表情で、ゆっくりと鶴の顔をみつめた。
「無事なんだね」
「はい。わたしの守り刀、真白の力です」
「守り刀……」
「わたしこそ、黙っていて申し訳ありませんでした。不気味なものと思われるかもしれないと……」
「それは、お互い様だよ」
秋人は大きく息をつき、全身の力を抜いた。鶴を抱きしめたままだったので、鶴は床に座り込んだ彼の膝のうえに乗り上げるかたちになる。恥ずかしさを感じたけれど、それでもいまの秋人に離してほしいとは言えなかった。
「無事でよかった。ほんとうに……」
「ご心配をおかけしました」
「ごめんね。きみを必ず守るよう、お父君と約束しているのに」
「お父さま?」
驚いて目を丸くする鶴に、秋人はややいぶかしむように首を傾げた。
「きみのお父上は、きみのことをとても心配していらしていたよ。俺のことをきみの結婚相手として気に入ってくださっていたけれど、心配は尽きないというふうにね」
「……お父さまとどこでお知り合いになられたのですか?」
「仕事の関係でね。それで、娘さんの嫁ぎ先を探しているということで、俺に声をかけてくださったんだ」
鶴は恥ずかしくなってうつむいた。当たり前にわかっていたことだけれど、財産目当ての結婚であることを秋人の口から言われるのはつらかった。
「きみの家の血については、前に耳にしていたから、俺も少し興味を持った。話をしてみたら、きみのお父上は、姑にいじめられる可能性もない、お金もある、家事もできる、という条件で、俺のことを当てにしたいとおっしゃったんだ。実家にいるより、娘はいい暮らしができるだろうということで」
鶴にはにわかに信じられなかった。鶴の知る父と、秋人の語る父のすがたは、少しも重ならない。実家を助けるためのお金が目当てだと言われたほうが理解できるし、鶴もそう思ってきた。
秋人は困惑する鶴のまえでひとつ息をつき、うなだれた。
「俺は……興味本位でこの結婚の話を受けた。きみの血が力を持っているならそれでいい、そうでなかったとしても、俺にたいした不利益はない。だから……。ほんとうに、ごめんね」
秋人は苦しそうに眉を寄せて目を眇め、少しだけうつむいた。くちびるがなにかを言おうとして開き、そこから何度かつらそうな吐息がこぼれる。あの炎の恐ろしい光景がよみがえっているのかと心配した鶴が声をかけようとしたとき、秋人は、いまにも震えそうなほどむりやり絞り出しているのだとわかる声音で言った。
「俺は無責任にきみを婚約者にしたんだ。蔵橋の血には呪いに対抗する力があるなんて、半信半疑のままきみを迎え入れ、二度もきみを傷つけかけた。最低なことをした」
「でも、傷つきませんでした。わたしは実際に、呪いに対抗するすべを知っていて、呪いはわたしを害することはできません」
「結果にすぎない。俺が軽はずみで、愚かだったことは変わらない。……きみ、実家に帰ってもいいんだよ。俺のこと、失望しただろう、結局、俺はきみが傷ついてもいいと、いい加減な気持ちでいたんだ」
「あなたが、人が傷つくことを平気に思うかたではないということ、わたし、知っています」
秋人はわざとひどい言い方を選んでいるように思われた。だから鶴は、きっぱりと言葉を返した。実家に帰ってもいいと言いながら、秋人は鶴を抱きしめる力を少しも弱めないでいた。
「ひどいのは呪いです。周りにいるひとを傷つけては、ひとりぼっちにする。こんなふうにひとを傷つけようとする呪いになんて負けたくありません」
秋人は、ややあっけにとられたふうに瞬いて鶴をみつめた。自分が抱きしめている少女が何者であるか見極めるようにまじまじと眺め、それでも腕のなかから落ちないようにしっかりと抱いたままでいる。
「きみ、うちに来たときは、もっと吹けば飛びそうな小鳥みたいだった気が……」
「わたしに、自分がなにかをしようとする意思を持てば、なにかができるようになるかもしれないという希望を教えてくださったから。だからわたしは、必ず呪いを解いて、もう誰も傷つかなくていいようにしたいと思うし、その通りに行動します。あなたのおそばにいます。家事も……あっ」
鶴は秋人が止める暇もなくぴょんと立ち上がってかまどに近づき、火の消えたかまどのうえのお釜のふたを持ち上げた。なかをのぞき込み、すぐに笑顔になって秋人を振り返る。
「ご飯、じょうずに炊けました!」
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