四、薔薇屋敷1
「ただいま戻りました」
鶴の声は玄関ホールでやけに反響した。人の気配が薄い屋敷では、小さな声もよく通るらしく、それがよけいにもの寂しさと不気味さを増長させる。
つい数日前まで鶴が住んでいた武家屋敷は、朽ちかけていたが、人の気配があったぶんの温かみは残っていたのだといまにして思う。比べて、それなりに手入れされているこの洋館は間違っても廃屋には見えないとはいえ、中に入れば打ち捨てられたかのように冷たい空気が漂う。
だから、柱の影から「おかえり」との声が聞こえたとき、鶴はあやうく飛び上がるところだった。
「ご友人とは楽しく過ごせたかい」
ジャケットとベストを外した簡素な上下だけ身に纏った秋人が、手袋を外しながら訊いた。鶴は彼を振り向いて「はい」と答えるつもりで、声が喉に引っかかって出てこず、ただうなずいてみせただけになってしまった。だが、秋人はそんな鶴に慣れたのかもとからこだわらないのか、「それはよかった」とほほ笑んで、鶴を手招く。彼は右手に、薔薇の花をいくつか携えていた。
「よかったら部屋に飾って。長くはもたないけれど」
「ありがとうございます」
秋人が鶴に手渡した薔薇は、きれいにとげ抜きがほどこされ、鶴の手を傷つけることはない。香りもよく、鶴でなくて、たとえば鶴の友人たちであったなら、秋人から薔薇を贈られたと頬を染めて舞い上がる場面だったろう。
まだ秋人に慣れない鶴は舞い上がるより血の気を引かせていた。だが、もともと感情表現が豊かでないのが幸いし、怯えを顔に出すことなく無表情に踏みとどまっている。
そんな鶴に気を悪くするでもなく、秋人は変わらずにほほ笑む。
彼は変わったひとだ。
わずか数日ながら、鶴は確信を持った。
鶴が家事を苦手にしていると知っても、文句ひとつ言わず、自分で食事を用意している。
もちろん、鶴の分も。
「花瓶は、食器棚の一番下の扉のところだよ。好きなのを持っていって」
「食器棚の、一番下」
「変なところにあると思ってる?」
鶴が忘れないために復唱すると、秋人が笑って言う。なぜ彼が笑っているのか、鶴には理解できなかった。
責めたと思われたくなくて、小刻みに首を振る。
「変だって思ってもいいよ。俺もちょっとは思ってる。でも、別の場所に仕舞うのも面倒だからね。同じ陶器とガラスだし……」
秋人は、鶴が抱える薔薇の花びらを指でちょいちょいとつついた。鶴に向けられる笑みは人懐っこく少年のようで、鶴が身構えていても、気にするふうではない。
鶴はまだ、どうしても緊張してしまう。屋敷の冷えた空気はいまだ身に馴染まない。
それでも、顔を合わせたくないとは思わなくなっていた。
「あの、お花……きれいです」
「ありがとう」
幼児のようにつたない言葉なのに、秋人は心から嬉しそうに目を細める。なんとなく居たたまれなくて、鶴は首をすくめて、もらった花束で顔を隠した。
秋人の手にあったときは小ぶりにも見えた花束は、鶴にはひと抱えもある。よい香りを胸いっぱいに吸って、鶴は無意識に少しだけ頬をほころばせていた。
「お腹は空いてない?」
出し抜けに問われ、鶴は顔を上げた。秋人はまた薔薇の花をつつきながら、まなじりを下げた柔らかなまなざしで鶴を見下ろしていた。
「お米は炊けているんだけれど、おかずがまだでね。何かおやつを食べるかい?」
「いえ。友人の家でも、いくらかいただきましたので……」
「そう?」
なぜか少し残念そうな秋人に、鶴はやっぱり内心で首をかしげた。
彼は何くれとなく鶴の世話を焼いてくれようとする。手のかからない妻のほうが良さそうなものを、彼が何を考えているのか、鶴にはどうにもわからなかった。
「じゃあ、用意がととのったら呼びにいくから、部屋で休んでおいで」
ここで「お手伝いします」とでも言えば迷惑になってしまうのが鶴の家事の才能だ。情けない気持ちを感じながら頭を下げ、与えられた自室に引っ込んだ。
「……きれいなお花」
花と水とを花瓶に入れて、ベッドのサイドテーブルに置く。それだけで部屋がいちだん明るくなったかのようだ。
ベッドなどという洋ものの寝台を使うのは初めてで、生まれてからずっと使っていた敷き布団との感触の違いに、数日経ってもいまいち慣れないでいる。だがいつでも身を投げられるというのは便利なもので、鶴は帯も解かずにうつ伏せに寝台に転がった。
行儀の悪さをとがめる人間は、ここにはいない。
「旦那さまとお話しをするというのがまず難しいの……」
『なにがそんなに難しいんだ?』
鶴とベッドのあいだに挟まる真白を通じて、シロちゃんの声が聞こえる。「だって変なお方」と、鶴はほとんど唇を動かさないでささやいた。この家敷は、鶴の実家よりも防音に優れ、多少のつぶやきが部屋の外に漏れ出る心配はなさそうだが、遮音性のない実家で暮らすあいだに、鶴の声はごく小さくなっていた。その癖はそうすぐには抜けない。
「顔を合わせても、何を思っていらっしゃるのか、ぜんぜんわからない」
『他人とはそんなものだろう。だから話をするんじゃないか?』
「…………」
鶴はちらりと何もない中空に目をやり、それから顔をシーツに伏せてまぶたを閉じた。わかっていることと、できることのあいだには重大な溝がある。
『では諦める?』
「諦めるほうが楽なのかな。でも、もしそうしたら、わたし……ほんとうに、何もできない」
駒子だったら、きっと、初対面のひとと話をし、仲を深めてゆくことだってやってのける。それは生まれや身分に関係なく、彼女の社交的で明るい性格と、よく回る頭脳のなすことだ。
できないと言っても、鶴に許されるいいわけはない。それだから苦しかった。彼女のようになりたいと憧れながら、その実、彼女のようになれる努力を、鶴はなにひとつしてこなかったのである。ぜんぶを生まれのせいにして、自分にはなにもできないのだと言い聞かせ、思い込み、そんな自分を許していた。
『理解しようと、鶴が思っていなければ、できないよ』
「……うん」
〝婚約者の顔も見ずにいる気かい?〟
初対面のとき、秋人にそう言われた。それこそが、鶴の本心をあらわす一言だったのだ。
今でも、鶴は彼とろくに目を合わせられない。どうせかたちばかりの結婚と長年思ってきたせいで、年上の男のひとと接する想像さえしてこなかったから、いざ目の前にいるとどうしていいかわからなくなってしまう。
「だけど、なにをお話ししたら良いの……?」
ため息をつきながら寝返りを打とうとし、仰向けになるには帯が邪魔で、鶴は一度寝台から降り、胸をきつく締める帯をどうにかこうにか解き落とした。振り袖は豪奢なぶん、ひとりで脱ぎ着するのが難しい。着付けは実家からわざわざ義母が来て手伝ってくれた。
脱ぐのに呼びつけるわけにはいかなくて、使用人のいないこの家で、不器用な鶴は四苦八苦しながら身体を締め付ける下帯やらなにやらをともかく片っ端から解き、時間をかけてようやっと肌襦袢のみの身軽な格好になった。きちんと着替えるべきだが、振袖を脱ぐのに疲れ果て、ほとんど下着姿のままでベッドの上に倒れ込む。リネンに染みた薔薇の香りと、やわらかなマットの感触が、鶴に大きな息をつかせる。
目をつむり、今晩の夕食の席で秋人とどうやって話をしようかと考えを巡らせ、そうしているうちに、いつのまにか微睡んでしまったようだった。
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