二、友人たち2

 調理実習は鶴の大切な思い出だが、あのあと、さすがにやかましいと言って先生に叱られたことも、鶴には忘れられない出来事だ。

 鶴は、学校で叱られたことなどない。それで恐縮して謝罪をしようとしたら、周囲の少女たちは何と、謝りながらもくすくす笑っているではないか。

 しかも、先生はそれを、駒子と同じ、仕方なさそうな目で一瞥して、課題を進めるように、と言っただけで、授業に戻ってしまった。

(先生は、どうして許してくださったんだろう)

「お鶴ちゃ〜ん」

 つい、思い出をたどってもの思いにふけってしまった鶴の顔の前で、友人のひとりが手を振っていた。

 お姉さん気質の陽子だ。

「あ……」

「あっ、戻ってきたわね」

 おかえりー、と、明るく声をかけたのは春子。我に返った鶴が謝ろうとするのに先んじて、駒子が鶴の口にビスケットを突っ込んだ。

 もごもごする鶴を横目に、彼女はトレイに乗せたビスケットを友人たちに配っている。

「これ、お鶴ちゃんが持ってきてくれたのよ」

「あら、すてきね」

 おっとり微笑む陽子の隣で、きゃあ! とはしゃいだ声を上げるのは、とりわけ流行りものに敏感な玲子である。

「これ丘の上菓子店のビスケットじゃない? 人気で、なかなか手に入らないのよ!」

「お鶴ちゃん、どうやって手に入れたの?」

 春子が、そう鶴に話を返す。

「…………」

 友人たちの視線を受けて、鶴は口の中のビスケットをできるだけ早く食べてしまおうとした。それを、これまた友人たちに一斉に止められる。

「味わって食べなきゃもったいないわよ!」

 たしかにとびきりおいしいのだ。

 鶴がビスケットを味わうことにしたのにうなずき、友人たちもそれぞれ駒子のトレイから取って口に運ぶ。

 立食形式のパーティで、みなが黙々とビスケットを食べている――ということはなく、やはり友人たちは合間でたくみにお喋りをするのだった。

 駒子と、陽子と春子、玲子。お裁縫をねえやにやってもらったのは静江。静江の幼馴染で事情が筒抜けの優子。

 鶴が特によく話をするのが彼らだ。

 駒子は誰とでも仲がよく、今日は十数人の少女たちが集まっている。

 それがいっせいにお喋りをしたら、鶴には誰が何を言っているのか、追うだでいっぱいだった。

「丘の上洋菓子店、ちょっと遠いのよね。お遣いにいってきて、とも言いづらいし」

「港のそばだもの。帝都の外じゃない」

「帝都にも支店ができたらいいのに」

「味が変わっちゃうんじゃないの?」

「外国人のオーナーだったかしら。フランスの方?」

「きっとそうよ、フランスの味がするもの」

「何よフランスの味って」

 友人たちの話を聞きながら、鶴はゆっくりと二回瞬きをした。

 口の中にはバターの余韻が広がっていて、まだ飽きない。

 そのうち、鶴がぼんやりしていると気づいた少女が、申し訳なさそうに眉を下げる。

「あっ、またお鶴ちゃんを……」

「あの、気にしないで……。何を言えばいいかもわからないもの」

 鶴が首を振ると、友人のひとりがおかしそうにくすくす笑って周囲に目配せした。

「考えて喋ってないからみんなこうなのよ。そうねえ、じゃあ改めて、お鶴ちゃん、このビスケットどうやって手に入れたの?」

 少女たちのひとりが鶴の背に手をあて、ぐいぐいと輪の中心に押し込む。

 注目を浴びた鶴はもじもじと両手をからませ、指先をつつき合わせた。

「あの……」

 街の鳩がパンくずに群がる光景を思う。

 今から、鶴はあのパンくずになる。

「その……。結婚が、決まったの。ビスケットは、その方が……」

 少女たちがいっせいに意識を研ぎ澄ませたのがわかった。後ずさりたい気持ちの鶴だが、後ろにいる少女が許してくれようはずもなく。

「いつ⁉ どなたと⁉」

「えっと、おととい……」

「一昨日⁉」

 少女たちの誰かが声をひっくり返して復唱した。のけ反る少女の肩越しに、別の子が顔を出す。

「急すぎるじゃない? 何があったの? 子どものころからの婚約者とか?」

 鶴はふるふる首を振る。

「お父さまが決めていらして」

「お鶴ちゃんはそれでいいの?」

「すてきな方なの? どんな方?」

「学校はやめてしまうの? いまどきやめないわよね?」

「みんな、お鶴ちゃん、また固まっているわ」

 駒子が、鶴の前に温かなティーカップを差し出しながら小鳥たちをなだめた。ただ、鶴をこの話題から逃してくれるのではないようで、その目はじっと鶴を射止めている。

 鶴は周りにそろりと視線をやり、誰もに見つめられているのに気づいて、肩を縮めた。

「お相手はどなた?」

 気遣いのこもる口振りで、駒子が問う。

「あのね……お相手は、柊木秋人さま、だって」

 とたん、ふたたび小鳥たちが鳴きだした。

「柊木さま⁉」

「あの方が結婚……⁉ いえ、あの方と、結婚⁉」

「柊木さまって、アレでしょう、あの……」

「お鶴さん、いったいどういうこと?」

「…………。わたし、お父さまからお名前しかお伺いしていなかったし、ご本人にお会いしたのもきのうで、よく、わからなくて……」

「そんな!」

「わたしたちのお鶴ちゃんが!」

 秋人から結婚を望まれた理由をうかつに言うわけにもいかない。どうごまかそうかと気が重くなったが、周囲の友人たちはそれどころではないようで、いっせいにのけぞった。見事ないきおいで驚かれた理由が、鶴にはよくわからなかった。

「有名なおかたなの?」

 鶴が尋ねると、友人たちは神妙に顔を見合わせる。

「有名……そうねぇ」

「お顔はすてきなかたって言われているらしいわ」

「でも人付き合いが悪いのでしょう」

「たしかに、あまり夜会にも顔を出されないのだとか」

「私は、どんな女の方ともひと晩しか過ごされないって聞いたわ」

「それは違う意味での付き合いの悪さだわ!」

「大変、私たちのお鶴さんが!」

「結婚するのだから、ひと晩の付き合いとは違うでしょう」

「そんな心配はさすがにしてないわよ! そういうかたと結婚するってことの心配よ!」

「みんな、お鶴さんが固まっているわ」

 矢継ぎ早のお喋りをしていた小鳥たちが、誰かの合図でいったん口を閉じ、一斉に鶴を見た。

 彼女らの話でも、秋人がいったいどんなひとなのか、ちっともわからない。名前は知られているようなのに、誰もが伝え聞いただけのようだ。

「……とにかくわたしは、その柊木さまと結婚するらしいの」

「らしいって、お鶴ちゃんは、それでいいの?」

「いい、悪い、ではないもの……。わたしの役割は、どなたかと結婚して、血を継ぐことなのだから……」

 たぶん、と鶴は内心で付け足した。秋人に告げられたさまざまなことを、鶴はまだ自分のなかでうまく扱えていない。

 秋人との縁は、鶴の思っていた結婚とまるで違う。母の言いつけを守ってゆけるのかも定かではないまま、自分の身の処し方がわからず途方に暮れているのだ。

「そう……」

 いつも快活な駒子が、物憂げなため息をついた。周囲の少女たちも、それぞれ浮かない顔をしている。どうしたって、いまどき、血を遺すことに重きを置くような考え方は、当の数少ない貴族の家以外では、旧い時代の弊害だと思われがちだ。鶴は帯に挿した懐剣に無意識に触れていた。

(わたしの役目は、いったい、何なのかな)

「女の役割が結婚して子を生むことだけなんて、勿体ないと思うのよ」

 駒子は、鶴への気遣いをじゅうぶんに含むやわらかさで言った。

「私たちはもっといろんなことができる。その可能性がある。せっかくそういう時代になってきたのに、……。ねえお鶴ちゃん、もしもいつか、お鶴ちゃんになにかやりたいことができたら、いつでも言ってちょうだいね。きっと力になるわ」

「駒子さんだけじゃないわ、私のことも頼ってくれていいのよ。お鶴さんの力になれるくらい、私、頼れる女になるから」

「まずは次のドレスの流行りからかしらね」

「お父さまの貿易船に乗って、私も外国から生地を仕入れてこようかしら」

「レースとリボンも」

「ドレスやアクセサリーだったら、男のかたより私たちのほうが得意だもの、うまくやれそうな気がするわ」

「ねえでもあなた、算術の成績、大丈夫だったかしら」

「大丈夫じゃないわ。だから学校でお勉強しているんじゃない!」

 少女たちに賑やかさが戻ってゆく。鶴は目を細めてほほ笑んだ。

 彼女たちのすがたは、母が求めた美しさとは似ても似つかないけれど、かまわないと思えるほどにきらきらしている。

 母の求めたものが失われゆく代わりに、彼女たちがこうして笑っていられるなら、それでもいいように思えるときもあった。

「私は算術、駒子さんは外国語……って、お鶴さんの家事とお裁縫が一番大問題じゃない!」

「お嫁さんになるのに、家事とお裁縫がこれっぽっちも……」

「大丈夫よ、お相手はあの柊木さまなのよ、お金だけはあるのだから、どうにかなるわ」

「そうよね、あのかた、おうちのことに頓着しなさそうだし」

「私もそう思う。……でもだめよ、そんな方、お鶴さんの相手にふさわしくないわ。立派な方でないと」

「人付き合いの悪い方なんでしょう?」

「でも一晩の付き合いはなさるのでしょ」

「そういう問題ではないわ」

「みなさん、縁起が悪いわよ、お鶴さんが結婚する相手なのに。いい人であることを祈りましょう」

「祈ることしかできない私たちを許して」

「ねえみんな、お鶴さん、また固まっているわよ」

 誰かが鶴の手を引く。

「ごめんなさい、ねえ、楽しい話をしましょうよ。次の学期からの先生のお話とか!」

「なに? なにかあるの?」

 新年の明るい中庭に、少女たちの華やかな笑い声が満ちていた。

 こんな場所がいつまでもあればいいと、友人たちが次々と話題を変えてゆくのを聞きながら、鶴は願った。どんなに世の中が変わっても、彼女たちとこうして過ごす場所が失われなければいい。

(そのためのわたしの役割が、血を継ぐことなのかしら)

 心のなかで真白に問いかける。真白は返事をしなかった。

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