帝都の鶴は夜に羽ばたく

崎浦和希

一、鶴の結婚1

 自身の結婚を父に告げられたとき、鶴の心は不思議なほど動かなかった。

 感動も、不安も、興味も、恐れも。

 父の短い一言からはなにひとつ生まれず、鶴はただうなずくだけでことが済んだ。

 結婚とはそういうものだから。

 何しろお金が必要なのだ。

 鶴の実家は、なかば朽ちかけの屋敷である。

 かつては豪奢な武家屋敷だった。鶴はその姿を知らないが、名残はある。家も庭も広く、庭には立派な蔵も建つ。

 それがいっそう色褪せた屋敷をわびしく見せるほど、手入れするもののない庭は荒れ、木々は立ち枯れてやたらと見通しが良く、色彩がない。本来ならば緑の奥に堂々と鎮座していたはずの屋敷そのものも、雨風に曝される壁や床板が傷むにまかされて灰色にくすみ、瓦のいくつかは剥がれ落ち、家名を名乗らずとも没落貴族であることが一目でわかった。

「結婚が決まった」

 寡黙な父は、それだけ言った。

 鶴と父に、普段、会話はない。だから鶴はあやうく聞き逃しかけ、一拍遅れて、視線を手元の海老から父に移した。

 新年に、父と、鶴と、後妻である義母との三人で、ささやかな祝い膳をいただいていたときだった。

「……はい」

 鶴がうなずくと、父はすぐに視線を逸らし、食事に戻った。

 父の隣で、義母はいくらか気づかわしげに鶴を見る。しかし、父娘がどちらも口を開かないので、諦めたように食卓に目を落とした。

 鶴の実母は、鶴が十を迎えるかというころに、風邪をこじらせて亡くなっている。

 後妻としてやってきた女は、鶴に対して、義母というより、使用人に近い振る舞いであった。まだ二十半ば過ぎの彼女は、家の仕事を一手に引き受け、鶴の身の回りの世話もしてくれる。

(……炊事もお掃除もお裁縫も、わたしではうまくできないから……)

 ささやかだが、手をかけて作られた新年の祝い膳を見下ろし、ふと、鶴の胸に不安がきざす。

 結婚といえば、妻は家の仕事を担うものだ。

 だが、鶴はといえば、米を炊けば焦がすか柔すぎるか、掃除をすれば廊下を水浸しにし、裁縫では時間をかけても思ったようにならない。まして、貴族の嗜みという刺繍に至っては、推して知るべしである。

(お母さまは、ずっとわたしを叱っていらした。それから、ちっともうまくなっていないのに……)

 母との記憶は、ほとんどが𠮟責に占められている。

 鶴が生まれるころにはとうに落ちぶれていた家でも、母は貴族らしく、美しくて、教養とされるもののひと通りを身につけていた。

 完璧だった母の、その娘であるはずの鶴は、母に手ずからお茶やお花、お琴の手ほどきを受けたのに、何ひとつ母の満足いくようにはならず、叱られてばかりだった。

「……お嬢さま」

 控えめに声をかけられ、鶴は、はた、と瞬く。

 いつの間にか食事の手も止め、もの思いにふけってしまっていたようだ。

「ご気分が優れませんか」

 縁談を気にして、義母は心配そうにしている。

「……いいえ」

 鶴は静かに首を横に振った。

 何とも思っていない、心配する必要はない。

 そう伝えるには、微笑みのひとつでも返せばいいのだろう。

 しかし、鶴の胸にはいつでも実母の横顔があった。

 滅多に笑わず、凛として美しかった母は、鶴の憧れで、手本である。母のようにならなければ、と思って生きてきた鶴は、たいていの場面で、どんな顔をすればよいのかわからない。

 目を伏せると、新年だから、と、義母が着付けてくれた振袖が目に入る。貧しい暮らしに似合わないきらびやかな着物は、実母の形見だった。

(お母さまには、似合っていらしたけれど……)

 焼き海老とともにため息をのみこむ。

 贅沢なお節料理が並ぶのに、めでたい気配ではなかった。

 まるで水に沈んだように静まり返っている。

「お嬢さま、あとでお仕度をいたしますね」

「……何のでしょう?」

「婚約者さまのところへ、お嬢さまはお住まいを移されることになっているのです。……明日」

 鶴はさすがに驚いた。だが、日ごろからもの静かな鶴の驚きは、緩慢な瞬きひとつで収まってしまう。それでも、義母は気まずそうにした。

 父は鶴をちらと見、また視線を落とした。

 目が合った一瞬、父のまなざしに、何かもの言いたげな気配を感じたが、問いかける気になれなかった。

「お義母さま、よろしくお願いいたします」

 鶴は淡々と答えた。どうせ従うよりほかにないのだ。

 義母は頭を下げ、そこからはまた、会話のない食事が続くばかりだった。



 **



 一応の宴席を辞して食堂の襖を閉めたあと、鶴がぼんやりそこにたたずんでいると、中でほんの幽かなささやきが交わされていた。

「……これで少しは、どうにかなるといいが……」

 風の音とでも紛いそうなそれが言葉として聞こえたのは、いかに親子らしくなかろうと、父の声だからかもしれない。父に何事かを返す義母の言葉は聞き取れなかった。それなのに、父が次に発したことが、不思議なほどはっきりと届いた。

「……あれは、呪いだ、旧(ふる)いこの家の……」

 鶴は黙って、足音も衣擦れの音一つさえ立てぬよう、そっと立ち去った。

 父は入り婿だった。鶴と同じように一人娘だった母が祖父に命じられて結婚した相手だという。歳は母と同じで、今は三十半ば。

 父も母も、今の鶴と同じ年頃に親になったのだと思えば、自分の不甲斐なさがいっそう身に沁みる。

「わたしが……呪い……」

 父にそう言われる心当たりはあった。

 母は、美しいひとだった。美しさが母の矜持だった。

『わたくしたちが受け継いだものを、あなたも継いでゆきなさい。それがこの国に遺された宝です』

 この地が帝都となり、新たな時代が訪れてから、数十年。

 人びとの暮らしぶりは大きく変わり、街は見違え、そして、鶴の家は落ちぶれた。

 鶴が生まれた頃には、すでに家は傾いていたから、栄えていたときがどんな様子だったのか、鶴はほとんど知らない。美しい母のすがたに、名残を感じていたくらいだ。

「お父さまにとっては、お母さまのご様子が、時代遅れだったのでしょう……」

 部屋に戻り、胸を締め付ける立派な帯に触れて、ため息をつく。

「お母さまみたいになろうとするわたしも……。でもわたしは、お母さまみたいにできない」

 受け継いだものを、継いでゆきなさいと言い聞かされて育った。

 でも鶴には、それが何かさえわからない。

 自分には無理だと思うたび、母に謝りたくなる。母がもういないことが、何度でも悲しい。母が生きていれば、鶴なんていなくて済んだかもしれないのに。

「わたしだけ……わたしだけしか……」

 鶴は、帯に挿した懐剣をぎゅっと握った。

 幼いころに母がくれたものだ。鞘から抜いて使うことはないが、家に代々受け継がれてきたのだという。

『鶴、あなたは何も失わないで。今の人びとは忘れていても、あなたの中には、とても大切なものがある。それが、きっといつか、希望に変わるでしょう』

 母の遺した言葉の意味は、今の鶴にも、よくわからない。

(わたしが受け継いだもの……大切なものって、なに?)

 あてのない問いは、鶴の胸のうちで空しくこだまするばかり。

 今の世では、新しいものが持て囃され、古いものは多くが省みられなくなった。鶴の継いだ古い血も、今では意味を失っている。

 血だけにとどまらない。

 かつてともに生きていたものたちの存在も、人びとはもう忘れかけている。もし、鶴が彼らの存在を主張すれば、気が触れたと思われかねない。少なくとも、変わりもので、まともな娘ではないとみなされるだろう。

 彼らのことを、鶴は母にさえ言えなかった。まして、家のために結婚をせねばならない身で、自身の評判を少しでも損ねるまねはできないのだ。

 誰にともなくつぶやく。

「……わたしの、友だち……。でも、お母さまの言う『大切なもの』は、きっとちがう」

 鶴は閉めた襖の前にぼんやり佇んだまま、やけに広い部屋を見渡した。

 着物を収めた箪笥と、鏡台、衣紋掛けと文机。鶴には十分な家具が揃うのに、殺風景に見えるのは、かつては絢爛な調度が調えられた部屋だったからだろう。元は母の部屋で、鶴もここで育てられた。だから鶴は、母が亡くなるまで、家がどれほど落ちぶれているのか知らなかった。

「結婚して子どもができたら、少しはお母さまの思いを、叶えてさしあげられるのかな……」

 母が使っていた調度類は、売られて今はもうない。彼らが今どうしているのか、知るすべもなかった。

 残っているのは、懐剣だけ。その名を『真白』という。

『鶴』

 どこからともなく名を呼ばれ、ついと顔を上げた。

 部屋の中には何もいない。けれど、鶴はそれを不気味がるでもなく、帯から懐剣を抜き、両手で大切に包んだ。

「……わたしね、もう、どうしたらいいのかわからない。結婚したって、どうせ何も変わらないよ……」

『まだわからないだろう』

「だって、今どき、もうお母さまが願ったような世の中じゃない。みんなのことも、迷信だって言う。……結婚相手の人、どうしてわたしなんかを選んだんだろう……?」

 中空に向かって話をしている自分より、いっそ奇特な男かもしれない、とふと頭によぎる。

 時代が変わり、平民から成りあがったものが、身分を欲して貴族と結婚しようとする話は、聞いたことがあった。

 そうは言っても、なぜ自分に、という疑問が強い。

 首をかしげるばかりの鶴に、また、どこかから返事が来る。

『鶴にはちゃんと良いところがある』

 抑揚の少ない声では、本気なのか、慰めなのかがわかりにくかった。

 それでもひとまず「ありがとう」と言いかけて、鶴は途中で口を閉じた。

 少しして、襖越しに声がかかる。

「鶴お嬢さま、入ってもよろしいでしょうか」

 この家に使用人はいない。かつて母の世話をしていた女中も年齢を理由に辞し、今、鶴を「お嬢さま」と呼ぶのは、義母だけだ。

「どうぞ」

 鶴は、懐剣を帯に挿しながら応えた。

 義母は、鶴の部屋の襖を、その身の幅ちょうどだけ開いて静かに入室してくるような、控えめな女性だった。彼女も彼女で、いったいどういう経緯があってこんなに貧しい家の後妻におさまっているのか、鶴は知らない。

「お嬢さまのお仕度に参りました」

 そういえば明日には婚約者のもとへ行くのか、と、現実感のないまま、てきぱきと動く義母の背中を眺めていた。

 そうは言っても、鶴の持ち物などたかが知れている。一番量の多い着物を手際よく畳んでたとう紙に包んだ義母は、次いで鶴が文机に置いていた教科書を風呂敷に包みはじめた。

「お義母さま、学校のものは……」

 結婚したら、学校は辞めるものだ。鶴の学年にも、何人か結婚退学した子がいて知っている。

 しかし、義母は「ご心配いりませんよ」と首を振った。

「先様は、きちんとお嬢さまを卒業させてくださるそうです」

「……何のために?」

「そういうお約束でございます」

 変な人、と、鶴は心のなかでつぶやいた。〝女学校をきちんと卒業した娘〟を妻に欲しいのだろうか。

 けれど、学校を辞めずにすむのは素直に嬉しかった。学用品なら、さすが義母より鶴のほうが詳しい。教科書は義母に任せつつ、副読本やノート、文房具などを揃えて、義母の用意した鞄に入れていく。

 義母は、鶴が支度を拒まないことにほっとした様子だった。

「お相手は、お嬢さまより十ほど年上ですが、お優しく穏やかな方で、旦那さまも信頼していらっしゃいます」

「……そうですか」

 この結婚で、父は家を立て直す算段をつけているはずだ。義母としても、鶴に拒まれては困るだろう。

 拒んだところで、鶴には行くあてもない。自分が家のために結婚をすることも、とうの昔から承知している。

 父との結婚が決まったとき、母もこんな気持ちだったのだろうか、と、頭のかたすみで思う。

 何の感慨もわかないが、家のために、失敗するわけにはいかない。

 けれど自分は、母のようにはできない。そのことが、何より鶴の胸を重くした。


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