第2話

 

——理人りひと


 上着も鞄も見覚えがある。

 懐かしいその姿に、瞳が戸惑って揺れる。

 去年の春に別れてから一度も会っていなかった。


 そういえば、この喫茶店はふたりのお気に入りだった。移転したとはいえ、ばったり会ってしまう可能性を考えていなかった。

 

「いらっしゃいませ」

 横から声がして、はっとする。お好きな席に、と促される。

 

 声をかけようか、と近づこうとした足を止めた。

 理人は変わらずに外を見ている。

 以前まえもそうだった。理人はいつも窓際の席に座り、揺れる木の葉や道行く人を眺めながら自分で作った曲にのせる詞を考えていた。そして、そのときに話しかけられるのをひどく嫌っていた。 

 

 思い直して、離れたカウンター席に腰を下ろした。


♦︎


 お互い『中途半端と束縛が嫌い』という性格が合って、大学時代のほとんどを一緒に過ごした理人。

 同じ空間で別のことをしていても気にならなず、お店にいるときも、理人は外を眺め、わたしは本を読む。

 ゆるくお互いの存在を感じながら、自分の世界に浸る。楽で、居心地がよかった。


 別れのきっかけは就職だった。


 新しい生活が始まることへの高揚感と、慣れ親しんだものがそばにあることの安心感。

 そのふたつが同時に存在していることが、どこかちぐはぐに思えてしまった。

 理人も同じように感じていたらしく、就職と同時に別れた。友達に戻って連絡を取り合う、ということもなかった。


♦︎


 店内を見まわす。

 淡い光を放つ小さな電球も、重ねた時間だけ艶の増した什器じゅうき類もあの頃のままなのに、

 ただ場所を変えただけで別の色を纏っているように見えるから不思議だ。 

 丁寧にネルドリップされた珈琲は変わらずにおいしい。落ち着いた苦味と、まろやかな深み。


 読みかけの文庫本を開く。

 ふぅ、と長く息を吐く。


 珈琲と、本。

 ゆるやかに流れていく音楽。

 外を眺める理人。

 

 古いものと新しいものが混ざり合う。

 夢と現実の狭間のような曖昧さのなかで、ゆらゆらと揺れている感覚。

 あまり好きではなかったこの感覚が、今は気持ちよかった。

 もうすぐ社会人2年目とはいえ新しく学ぶことばかりの生活に、すこし疲れているのかもしれない。緊張して固まった心がほどけていく。


 浅い眠りにたゆたうような、心地のいい時間が過ぎていった。


 

 

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