第114話 王国の混乱

 王国───王都ボイエムスブルクの混乱は、すでに臨界点を超えていた。

 物資不足は日々の生活を蝕み、民衆の口から漏れるのは不満と隣国への羨望ばかり。

 兵士もほとんどが機能しない。


 そして───そんな混乱を狙う者が1人。


 王城の高殿に、急報が飛び込んだ。


「北西の街道より、ロウェル・グデシュタイン・フォン・ヴァルドリアが進撃中! 兵力、およそ2万!」


 使者の声に、議場の空気が一瞬で凍りついた。


「生活に困窮したボイエムスブルク市民を『救済』するためだと豪語しておりますッ!」


 それは───あくまで「救済」の名を掲げた進軍だった。

 しかし、ボイエムスブルクの現状を知る者なら、その言葉がどれだけ市民の心を揺さぶるか、理解できない者はいなかった。


「民を救うだと……? 非常に不愉快だッ!」


 エーレブルク公は唇を噛み、机を叩き割らんばかりに拳を振り下ろす。

 だが、その苛烈な怒りとは裏腹に、動かせる兵は依然として烏合の衆に等しかった。


 その重苦しい空気を破るように、扉が勢いよく開く。


「エマニュエル様の登場だッ!」


 先頭は赤髪の青年───ゴットリープ・フォン・ベルトル。

 炎の魔力を纏った視線は鋭く、それでいて余計な焦りを見せぬ冷静さを保っている。

 続いて、水の魔力を微かに漂わせたゲオルク・フォン・ヴェルテンが、不敵な笑みを浮かべながら現れる。


 その2人の影に隠れるように、エマニュエルが姿を見せた。氷の魔力を持つ第2王子───能力は確かだが、主体性に欠けて自分から何かを切り出せない。ここしばらくはマグダレーナを失ってから何も出来ず、燃え殻のように無気力であった男だ。


 しかし、この場に足を運んだのは彼自身の意思か、それとも周囲に押し出された結果か。その判断は、誰の目にもつきかねた。


「この混乱のせいで……兵は、もうほとんどが機能しない!」


 ゴットリープが、堂々と事実を告げる。

 議場の重苦しい空気が、さらに一段深く沈んだ。


「だが───俺たちは違う!」


 彼の後ろで、ゲオルクが一歩前に出た。


「私たちはダンジョンで鍛えられているのです。兵の数や訓練度では劣っても、個人戦力だけならヴァルドリアの将すら倒せるかもしれません」


 啖呵をきった息子の姿に、ヴェルテン法務大臣が眉を顰めた。

 それを見て、ゲオルクが肩を竦めつつ───確信めいた声を放つ。


「訂正しましょう。かもしれない、じゃない。やれる───そう思っていると。私たちは机上の戦術ではなく、ダンジョンで幾度も死線を越えてきた。ヴァルドリアの兵士が相手でも、私たちが先陣を切れば戦局を動かせると確信しています」


「……馬鹿な。お前がダンジョンに潜っていた頃は5人だったはずだ。だが今は……この場に3人しか居らんではないか」


 ヴェルテン法務大臣はそう溜息を洩らす。

「ラピスラズリの王冠」の攻略対象───エマニュエル、ゴットリープ、フリードリヒ、ゲオルクに、「悪役令嬢」マグダレーナ。


 この5人で日夜ダンジョンに望み、鍛え上げていたのは事実だが───マグダレーナはヴァルドリアに「誘拐」され、フリードリヒは実家が反王子派に挟撃されているため王都に居ない。


 だが。


「俺たちだけでも乗り切れるッ! 何より、殿下の武力はドラゴンだって一撃で倒せるんだからッ! あのロウェル・グデシュタインだって、腕っ節で有名なウルリック・カントールだって倒せるに決まってるッ!」


 ゴットリープのその言葉を受け、議場の視線がエマニュエルへと集まった。

 しかし第2王子は、何かを言いかけて───口を閉ざす。

 氷のような瞳は揺れていたが、その揺れが決意なのか迷いなのかは読み取れないのだった。


 エーレブルク公は腕を組み、深く溜息を吐く。


「殿下たちがいくら強くとも、2万の軍を止められる保証はない。だが……兵も金も尽きた今、試す価値はあるかもしれん」


 議場の片隅で、ゲオルクが呟く。


「この戦いは結局のところ、誰が先に民心を握るかだと思います。ヴァルドリアの力が勝るのか───それとも私たちが勝利するのか……見物ですね」


 その皮肉めいた言葉を、誰も否定はしなかった。

 やがて、ゴットリープが堪えきれぬように前へ出る。


「殿下、俺たちの案を聞いていただきたい。正面衝突は避け、ダンジョンで培った機動力を活かして奇襲を仕掛けます」


 横からゲオルクが畳みかける。


「王都から北西の街道へは複数の山道があります。主力は進軍中のロウェル軍の補給線を断ち、残りで都市防衛に当たるのならば……少数でもやれると思います」


 視線は自然とエマニュエルに集まった。

 この場における最終判断は王子の口から出なければならない。


 だが、エマニュエルは瞳を瞬かせ、小さく俯いた。

 その様子は、言葉を探しているというよりも、決断そのものを放棄しようとしているように見える。


「……」


 気まずい沈黙が落ちる中、ゴットリープがあえて軽く笑う。


「殿下、どうかご判断を」


 柔らかく促した。

 だが───エマニュエルは小さく頷き、ただ一言。


「……任せるよ、君たちに」


 それだけだった。

 ゲオルクの眉が僅かに動く。


「任せる、か……まあいい。やると決めた以上、俺たちが勝手に動くことにします」


 ゴットリープは声を低くした。


「私たちは……ヴァルドリアのロウェル・グデシュタインの顔を知っています。聖女ネヴァイラも間違いなく奴と共にいるでしょう。ヴァルドリア兵の心の拠り所はあの2人です。討ち取れば……他の4将ももはや敵ではない」


 ゲオルクもそう口にして、議場を見た。

 だが───彼の言葉が議場に落ちた直後、別の方向から低い声が飛ぶ。


「……ふん。よく言うものだな」


 年配の議員が鼻で笑い、椅子の肘掛けを指先で叩いた。


「忘れたのでしょうか? 殿下たちは以前、ヴァルドリアとの交渉の席に臨み、あのロウェルの前で何一つ有利な条件を引き出せず、むしろ譲歩を重ねる結果になった。なのにも関わらず、今更……」


 別の議員も追い打ちをかけるように声を荒げた。


「そうだ。あの時の失敗は、我が王国の外交的立場を著しく損ねた! 今度は戦場で同じ轍を踏む気か!」


 議場の空気が一気に刺々しくなる。

 責め立てられたゴットリープとゲオルクは、敢えて反論せず、じっと黙っている。

 エマニュエルは俯いたまま何も言わない───いや、言えないのだろう。その沈黙がかえって批難の声を煽った。


「民心を握るだと? そんなもの、お前たちに───」

「やめよッ!」


 重く響く声が、場を一刀のごとく切り裂いた。

 エーレブルク公が立ち上がり、鋭い眼光で議員たちを1人ずつ射抜く。


「過去の失敗を蒸し返すことが、今この局面で何の益をもたらす?」


 声には怒気だけでなく、明確な苛立ちが混じっていた。


「確かに、我が娘や……殿下たちは外交の場でロウェル・グデシュタインに遅れを取った。だが、我らの持つ兵も財も、今や砂漠の水のように尽きかけている。残されたのは───この3人の剣と魔法、そして常人離れした胆力だけだ」


 議員の1人が口を開きかけたが、エーレブルク公はそれすら許さぬよう手を上げた。


「聞け。2万の軍勢を、我らの烏合の衆で止められると思うのか? 正面から挑めば、一日も保たずに蹂躙される。だが、彼ら3人は1人で百、いや千にも匹敵する戦力だ。個の力で均衡を崩せる可能性は、王都にただ1つ残された賭け札だと判断する」


 その言葉に、議場のざわめきが徐々に沈んでいく。

 エーレブルク公は最後に、低く強く言い切った。


「我々は、この賭け札を切るしかないのだ」


 沈黙。

 やがて、誰もが視線をエマニュエルたちに向けた。

 その期待と不安とが入り混じった眼差しを、エマニュエルはただ静かに受け止め───何も言わなかった。

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