第33話:山登りの始まり
社員旅行二日目の朝8時。
那須高原の空気は澄み渡り、冷たく透き通った風が肌を撫でる。遠くの山並みは朝日を浴びて黄金色に染まり、木々の葉がそよ風に揺れている。清々しい香りが鼻をくすぐり、深呼吸をするだけで心が落ち着くような朝だった。
ホテルのロビーには、登山の準備を整えた社員たちが集まり、それぞれに班を作って並んでいた。
全員が登山に適切な服装をしているのは、会社からの案内にちゃんと従っているからで、軽量で通気性の良い長袖シャツに速乾性のパンツ、足元はしっかりとしたトレッキングシューズを履いていて、帽子を被ったり、サングラスをかける者もいる。
各自、リュックには雨具や水筒、非常食を詰めており、山の天候変化にも備えているのだ。
そこまでする必要があるのか? とも思うが、会社の研修中にトラブルを起こすわけにも行かないのだろうな。
「それでは、予定通り那須岳の登山研修を開始します。各班のリーダーは、メンバーの体調や進行状況を適宜確認し、安全第一で行動してください」
人事担当の小林課長の説明に、社員たちがうなずく。
俺の班は、田代、小泉、美咲、森山、そして俺の五人組。出発前のロビーでは、それぞれが装備を最終確認していた。
リーダーは田代になった。
田代の面倒見の良さと決断力を買われ、他のメンバーから推薦された形だ。
登山の経験も豊富というだけあって、彼はすでにやる気満々の表情をしている。
「みんな、準備はいいか? 今日は無理せず、景色を楽しみながら行こう」
「はい! よろしくお願いします!」
「うっす! 俺、登山は初めてなんでワクワクしてます!」
田代は会社から支給された案内書を取り出し、コースの確認をしている。その姿はまるで登山ガイドのようで、頼もしさが漂っていた。
「田代は、さすがに準備万端だね」
小泉が感心したように声をかける。
小泉は冷静な表情ながら、どこかワクワクしている様子も見せていた。
「まあな。せっかくの登山だからな、安全管理はしっかりしないと」
美咲はストレッチをしながら
「意外と緊張しますね」
と笑った。
「俺はもうワクワクしてますよ!」
森山は元気よく拳を上げ、周囲を巻き込む勢いで盛り上がっていた。
「俺は無難に楽しめればそれでいいけどな」
俺はそう言いながら、リュックの肩紐を調整する。
出発の号令がかかると、俺たちはそれぞれの荷物を再確認し、バスへと向かった。
田代が先頭に立ち、メンバーの様子を見ながら進む。その姿は頼れるリーダーそのもので、登山経験者の余裕が感じらる。まだバスに乗る段階なのだが……
「田代は、やっぱりしっかりしてるよ」
小泉がふと呟くと、田代は笑って肩をすくめる。
「まぁな。せっかくの研修だし、俺たちのグループが最後尾にならないようにしないと」
「おお、リーダーの鏡だね」
小泉が軽く冗談めかしながら言うが、田代は真剣な表情のまま頷く。
「登山はチームワークも大事だからな。みんなが楽しく、安全に登れるようにしたいだけだよ」
「頼もしいね。僕、初心者だからちょっと緊張してるんだよ」
小泉がそう言うと、田代は優しく笑った。
「大丈夫さ。無理せず、楽しく登ればいい。登山は競争じゃないからな」
「そうだよね」
「じゃあ、行こうか」
俺たちは貸切バスに乗り込み、那須ロープウェイの山麓駅へ向かった。
◆
バスの中では、それぞれが登山に向けた雑談を交わしていた。
「田代さんって、登山よく行くんですか?」
「昔は月に一回くらい登ってたけど、今は家庭持ちだから、そんなに頻繁には行けてないな。でも、那須岳には何度か登ったことがあるな」
「へぇ~、すごいですね。私は登山は初めてなんです」
美咲が感心したように田代を見る。
「まあ、初心者向けのコースだし、心配いらない。ゆっくり登れば大丈夫だ」
そう言いながら、田代は俺を見る。
「藤倉、お前も登山経験あったよな?」
「ああ……まあな」
本当は異世界で山ほど歩いてるから、むしろ慣れてるレベルだが、それを言うわけにもいかない。
「先輩、なんかすごく余裕そうですよね?」
「いや、そんなことはないぞ?」
美咲が首をかしげながら俺を見る。
「でも、最近先輩って体力おばけみたいになってません? なんか、疲れてるところ見たことないです」
「なんたらブートキャンプのおかげでな」
「……ほんとですか?」
美咲の視線は俺の顔を探るようにじっと注がれていた。まるで、何か確信を得ようとするかのように。軽い冗談のように聞こえた俺の言葉を、そのまま受け取ってはいないのが明らかだった。
「先輩って、そういうことサラッと言いますけど……本当に何もないんですか?」
俺は何もない、とはっきり言いたかったが、美咲の目の奥には疑念がしっかりと根付いていた。冗談ではなく、何かがおかしいと本気で思っている。
その確信めいた雰囲気に、俺は思わず言葉を濁してしまった。
「……さてな」
その瞬間、美咲の表情が少し引き締まり、俺の横顔をしっかりと見つめた”やっぱり……”という言葉が喉の奥まで上がってきているような、そんな気がした。
◆
バスが山麓駅に到着した。
那須ロープウェイの山麓駅は、観光客や登山者で賑わいを見せている。広々とした駐車場には多くの車やバスが停まっており、施設の前には登山装備を整えた人々が準備をしていた。
駅舎はモダンな白基調のデザインで、木目調の外観が自然と調和している。中に入ると、ロープウェイのチケット売り場やお土産屋が並び、地元の名産品や登山用の軽食が販売されていた。ロビーには登山コースの案内板が掲示されており、多くの観光客がマップを見ながらルートを確認している。
「へぇ、結構立派な駅ですね」
美咲が周囲を見回しながら言う。
「そうだな。登山者だけじゃなくて、観光客も多いからな」
田代がパンフレットを手に取りながら説明する。
売店では登山に備えたスポーツドリンクやおにぎり、エネルギーバーなどが並んでおり、登山前の補給をする人々が列を作っていた。
「おおっ、那須名物の『ご当地カレーパン』がありますよ!」
森山が興味津々で売店を覗き込んでいる。
「お前、登山前に胃もたれしそうなもの食うなよ……」
俺が軽くツッコミを入れるが、森山は嬉しそうにレジに向かってしまった。
うして軽く準備を整えた後、俺たちはいよいよロープウェイの乗り場へ向かった。
ロープウェイのゴンドラは大きく、100人ほどが乗り込める造りになっている。関東最大のゴンドラという話だ。
「いよいよですね」
美咲が少し緊張した様子で言う。
「まあ、ここからが本番だからな」
俺たちはゴンドラに乗り込み、ゆっくりと高度を上げていった。
ゴンドラがゆっくりと上昇し、緑豊かな山々が眼下に広がる。
「うわー、すごい景色!」
美咲が窓に張り付くようにしながら、感嘆の声を上げる。
「これが山の魅力なんだよなぁ」
田代が落ち着いた口調で答える。その表情はどこか懐かしさを感じさせ、かつての登山の記憶を思い出しているようだった。
「高っ! マジで高ぇ! 俺、ちょっと怖いっす……」
森山がゴンドラの手すりを必死に掴んでいる。山が初心者の彼には、すでに試練のようだった。
窓の外には那須連山の雄大な風景が広がり、緑の絨毯のような森林とゴツゴツした岩肌が交互に見える。
「うわ、あれって噴気孔ですかね?」
「那須岳は今も活動を続ける活火山だからな。この山は噴火による溶岩の影響で独特の地形になってるぞ」
田代が景色を指差しながら説明する。
遠くには山肌が荒々しくえぐれたような箇所があり、ところどころ白い噴気が立ち上っているのが見えた。
「へぇー、すごいです……。でも、ちょっと怖いですね」
美咲が少し緊張した表情を見せる。
「そうか? これだけの景色が楽しめるんだから、怖さも込みで価値があるってもんだ」
俺たちはそんな会話を交わしつつ、ロープウェイからの雄大な景色を楽しんだ。
◆
ロープウェイの山頂駅に到着すると、視界が一気に開けた。
標高約1680メートルの地点に位置する駅の周囲は、ゴツゴツとした火山岩が転がり、所々に低木や高山植物が根を張っている。
遠くの山並みの向こうには、雲海が広がり、まるで別世界に来たかのような光景だった。
駅舎の前には登山者や観光客が集まり、休憩スペースで水分補給をしたり、リュックの中身を確認したりしている。ベンチに座っている老夫婦が、山を背景に記念写真を撮っていた。
売店では温かいコーヒーや軽食が販売されており、登山の前に腹ごしらえをする人たちも見られる。
「うわぁ、本当にすごい景色……」
美咲が感嘆の声を漏らしながら、風に揺れる髪を押さえた。
「ここからだと、山の全景がよく見えるな」
田代が遠くの稜線を指さしながら言う。
「コースは、那須ロープウェイ山頂駅から峰の茶屋、そして朝日岳を目指す往復ルートだ。まずは峰の茶屋を目指すぞ」
田代の声に、俺たちはそれぞれ装備を整え、いよいよ登山を開始した。
「さあ、ここから本番だ。ゆっくり行こうな」
田代がそう声をかけ、俺たちはいよいよ登山を始めた。
最初の道は比較的緩やかで、左右には低木が広がる。
「このあたりはダケカンバや低い潅木が多いな」
「へぇ、結構綺麗ですね。なんか登山っぽくなってきた感じですね」
森山が楽しげに声を上げる。
俺も歩きながら周囲を見渡す。
那須岳特有のゴツゴツした岩場が続き、時折、硫黄の匂いが漂ってくる。地面には小さな花が咲いていて、自然の力強さを感じた。
「峰の茶屋までが第一の関門だな。風が強いことが多いから、飛ばされないように気をつけろよ」
田代の言葉に、森山が肩をすくめる。
「マジっすか……俺、軽いんで飛ばされるかも……」
「お前が飛ぶくらいの風なら、登山どころじゃないな」
俺がそう突っ込むと、みんなが笑った。
そうして俺たちは、次第に険しくなっていく登山道を進んでいった。
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