第31話:温泉と割り切り

 ツリートレッキングを終えた俺たちは、汗を流しに温泉へ行くことになった。


「いやぁ、楽しかったっすね! でも、体バッキバキですよ」


 森山が肩を回しながら俺の横を歩く。

 俺たちは同室の部屋へ戻るため、ホテルの廊下を並んで歩いていた。


「森山は途中から、高いだの恐いだの、悲鳴ばっかりだったな」


 森山は満面の笑みを浮かべ、目を輝かせながら肩をすくめる。


「いやぁ、本当に楽しかったんですよ! あの高さとスリル、最高でした! 藤倉さんと一緒だったんだから、なおさらです」


 エレベーターを降り、部屋の前でルームキーを取り出す。ドアを開けると、空調で冷やされた涼しい空気が迎えてくれた。


「やっぱり部屋は落ち着きますねぇ~」


 森山が勢いよくソファに座り込んで一息ついているが、俺は全然疲れていないので、館内着を取り出そうとクローゼットに向かった──温泉に行くための準備だ 館内着は浴衣ではなく、上下セットアップのゆったりした服だった。ハーフボタンのシャツに、ゴムのズボン。和風とも中華風とも言えるデザインで、着心地がとても良さそうで嬉しい。


「へぇ、なかなかいいっすね。リラックスできそう!」


 森山がさっそく袖を通し、満足げに腕を広げて見せる。


「温泉入る前に着ても意味ねぇだろ」


「あ、確かに……」


 そう言いながらも、森山は袖を戻さず、そのままストレッチを始めた。


「しかし、先輩、ツリートレッキングのとき異次元レベルでしたね」


「そんなことねぇよ。普通だろ」


「普通じゃないっスよ! もう、動きが忍者っていうか、猿がかっているというか……。本当に憧れます!」


 森山はキラキラした目で俺を見つめてくる。


「猿がかる? そういや、お前、やたら俺に好意的だよな。なんでだ? そこまで絡みなかっただろ?」


「あ、あ~それっスか。へへ……多分、藤倉さんは覚えてないと思うんですけどオレ──前に先輩に救われたことがあるんですよ」


「俺が? お前を?」


 全く覚えがない。

 だが、森山は少し懐かしむような表情を浮かべて語り始めた。



※森山の回想/森山の一人称視点※


 やっべぇ……。


 俺の後ろに立つ、上司の小泉さんの視線が痛い。

 他の社員たちも、ちらちらこっちを見ているのが分かる


 ──めちゃめちゃ居心地がワルい


「「「だからいつも言っているよね? 納品前に最終確認しろってさ。何回も何回も何回も同じミスしてるってことは、僕の話を聞いてないってことかな?」


「す、すみません……」


 言い訳なんてできない。

 オレがちゃんと確認してなかったせいで、余計な対応コストが増えてしまったんだから。

 迷惑をかけてしまったチームメンバーたちが、背後の気配がざわついてるような気がする。

 俺が叱責されているのを聞きながら、何も言わずに作業してるように見えて、耳だけは完全にこっちに向いてるような──トニカクツライ


 その時だった。


「おい、小泉」


 低く、落ち着いた声が、俺の後ろから響いた。

 振り向くと、そこには開発チームのリードプランナーである藤倉さんが立っていた。

 別部署の人が、何をしに来たのだろうか?


「叱責するなとは言わないが。でも、人前でやるもんじゃないと思うぞ」


 一瞬、時間が止まった気がした。

 俺も、小泉さんも、周りの人も、全員が藤倉さんに目を向けたが、藤倉さんは、いつもと変わらない冷静な表情で続けた。


「俺の会議が早く終わったから、あと30分は第6会議室が空いてるから。つづけるなら、そこに移動しろよ。な?」


 言葉に余計な感情は感じられない。ただ、状況を冷静に分析して、最適な方法を提示しただけのようなトーン。

 小泉さんは一瞬、言葉を失ったように見えたが、すぐに小さく息を吐いた。


「……そっか。確かに藤倉の言うとおりだ。森山、悪かったね。第6会議室に行こうか」


 俺の肩を軽く叩いてから、小泉さんは歩き出す。

 周りにいた社員たちの視線が、すっと逸れた。


 さっきまでの”誰かが怒られてる”という重苦しい空気が、まるで嘘みたいに消えていた。

 オレは小泉さんの背中を追う前に、藤倉さんを見上げた


「あ、あの……藤倉さん……」


 藤倉さんは、オレのほうをちらっと見ただけで、何も言わずに歩き出そうとする。

 慌てて、もう一度声をかけた。


「あの……ありがとうございました!」


 藤倉さんは少しだけ足を止めてくれる。


「別に特別なことはしてないよ。たまたま会議が早く終わったからってだけ」


「でも……」


 オレの言葉を最後まで聞かずに、直哉さんは軽く手を振った。


「まあ、頑張れ」


 そう言って、そのまま歩き去る。

 なんだ、この人。別に助けようとしたわけじゃない。

 俺をことさら庇ったわけでもない。

 ただ、淡々と”仕事のやり方として、こうするべきだ”と言っただけだ。

 でもオレは、確かに”救われた”気がした。


 カッコよすぎるだろ……!


そう思った瞬間、オレの中で、藤倉直哉という男の印象が”ちょっと厳しいけど仕事ができる先輩”から”こんなふうになりたい憧れの男”に変わったのだった。



※回想終了/直哉の一人称視点に戻る※


「……っていうことがあったんですよ!」


 森山は興奮気味に話を終え、俺の顔を覗き込んだ。


「ふーん」


 そんなことがあったのかもしれないが、正直、あまり記憶にない。


「藤倉さんは覚えてないんですか? まあ、藤倉さんにとっては何気ないことだったのかもしれませんけど、オレにとっては、めちゃくちゃ嬉しい事だったんです」


「いや、大げさだろ~」


 俺は軽く肩をすくめた。


「でその普通がカッコいいんですって!」


 森山はまっすぐな目で言い切る。


「そっか。ありがとうな──そんじゃ風呂行くぞ」


 このまま熱く語られても、こっちが気恥ずかしくなるだけだ。

 俺はさっさと館内着を手に取り、温泉へ向かう準備を始めた。



 部屋での準備を終えた俺たちは、ホテルの大浴場へと向かった。

 時間は15時半。夕飯前にはまだ余裕がある、微妙な時間帯だ。


 大浴場の前にある脱衣場の扉を開けると、ほのかに檜の香りが漂ってくる。中を覗くと、ちらほらと先客の姿が見えるが、やはり混んでいるというほどではなかった。


「お、いいっすね! がらすきじゃないっすか?」


 森山が楽しげに言いながら、さっそくロッカーの鍵を外して服を脱ぎ始めた。


「お、藤倉、森山!」


 聞き覚えのある声がして振り向くと、田代がタオルを肩に掛けてやってきた。


「ちょうどいい時間に来れたな。混んでなくて快適そうだ」


 田代もロッカーを開けて荷物を置き、俺たちと一緒に服を脱ぎ始めた。


「平日のこの時間だしな~。サウナ狙いの奴らも少ないんだろう」


「ゆっくり浸かれるのはありがたいですね!」


 俺もロッカーの鍵を外し、タオルを取り出して服を脱いでいく。


「ん……?」


 なにやら視線を感じる。

 周りを確認すると、近くのロッカーを使っていた同僚たちが、俺の方を見ていた。


「……藤倉さん、やっぱすげぇ」


 森山が俺の体をまじまじと見つめながら、息を呑んだ。

 田代も驚いたように目を細める。


「おいおい……ちょっと前に一緒にサウナ行ったとき、こんなんじゃなかったよな?」


「……あれだ、なんたらブートキャンプにハマってたらこうなったんだよ」


 適当にごまかすが、ちょっと古かったな。


「そんな短期間でここまで変わるもんか?」


「どう見てもプロのアスリートレベルですよねぇ」


「ていうか体脂肪限りなくゼロに近くねぇか?」


 次々と飛んでくる言葉に、俺は肩をすくめた。


「あんまりジロジロ見るなよな!」


 適当にあしらいながら、逃げるように浴場へと向かった。


 浴場の扉を開けると、一気に湿気を帯びた温かい空気が肌にまとわりつく。大きな湯船にはゆるやかに湯気が立ち上り、ガラス越しには那須の豊かな自然が広がっている。


「うわぁ、すっげぇ……!」


 森山が感嘆の声を上げながら、足早に湯船へ向かう。

 俺も軽くかけ湯をしてから、肩まで湯に浸かった。


 温泉の湯は肌にしっとりとなじみ、じわじわと体の芯まで温まっていくのがわかる。


(っはぁ~……異世界の冒険も楽しいが、やっぱ温泉は日本だよなぁ)


 思わず独り言が漏れそうになる。

 思えば、今日一日、異世界帰還後の影響を実感する場面が多かった。

 身体能力の向上、異様なスタミナ、そしてこの鍛え上げられた肉体。

 ここで裸をさらした今、身体の変化はもう隠しようもないな。


「まあ……いいか。なんたらブートキャンプってことで」


 俺は静かに湯に沈み、目を閉じた。

 異世界は異世界、現実は現実。

 どちらの世界でも、今の俺を受け入れて生きていくしかないのだ。


 明日の山登りでは、そんな感じで行こうと思った。

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