第10話:帰還後の日常と確かな変化

 電子音のアラームが耳に突き刺さるように鳴り響いた。

 俺はまどろみの中で手を伸ばし、スマホの画面を叩くようにしてアラームを止める。


 目を開けると、薄暗い天井が見える。

 寝ぼけた頭で、今が朝であることを認識するまでに数秒かかった。


 布団の中でもぞもぞと体を動かすが、いつもより体も気持ちも軽い気がする。

 寝起きの倦怠感も二日酔いも感じられない。

 まるで、キャンプで精神をリフレッシュして帰宅して、疲労が残る体を家で休めた翌日のような爽快感があった。


「……よく寝れた、ってことかね?」


 枕元のスマホを手に取り、画面を確認する。

 時刻は午前七時。

 アラームはいつもの時間通りに俺を起こしてくれたようだ。


「……君は本当に毎日律儀だねぇ」


 特に返事をするわけでもないスマホに語りかけながら、布団の中でゴロゴロと寝返りを打つ。

 せっかくの土曜日だ、二度寝でも楽しもうかと考えていたら、胃の奥がぐぅと鳴った。


「……え、朝飯コール早くない?」


 寝起きでこんなに腹が減るのは久しぶりだ。

 とりあえず布団から体を起こし、大きく伸びをしてからベットを降りてみた。


 部屋の中は、相変わらず変わり映えしない。

 ローテーブルの上に昨日の雑誌が置かれたままだし、ベッド脇のラックには読みかけの本が積んである。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、室内を淡く照らしていた。


「……昨日は色々あったな」


 なんとなく呟く。


 昨日——いや、たった数時間前まで俺は異世界にいた、のだと思う。

 そう考えると、妙に今の自分に現実味がなくなる。


 でも、ここにいる。

 だったらきっと、今日も普段通りに過ごせばいいのだ。


 そんな風に考えながら軽く伸びをして、ぐるりぐるりと首を回し、さっぱりした気分で洗面所に向かった。


「さて、朝飯でも作るかね……」

 

 冷蔵庫を開け、適当に食材を取り出す。

 卵、ベーコン、野菜。とりあえずシンプルな朝食にしよう。

 包丁を握り、野菜を切る——不思議な違和感がそこにあった。


「……あれぇ?」


 いつもよりも洗練した手つきで、異様に手際がいい。

 まるで、プロの料理人の技術を体に染み込ませたかのように、迷いなく包丁が食材を捉えることができた。


 これは料理番組でドヤ顔で料理しても問題ないレベルだぞ!

 いやいや、俺そんなに料理得意だったか?

 いや、得意だったわ。ヤッフーーー!!!

 でも、こんな流れるような動きは初体験な気が……。


 さらに、料理を進めるうちに、食材の香りが妙に鮮明に感じられることにも気づいた。


「フッフッフ……なんだこれは……オレは今、無敵の料理人になっているのでは?」


 包丁さばきはキレッキレ、火加減も完璧、最高の焼き加減の瞬間さえもてにとるように手に取るように分かってしまう。


 気がつけば、朝食の範疇を完全に超えた料理ができあがっていた……。

 ベーコンエッグ、ソーセージのソテー、トースト、スープ、スクランブルエッグ、炒めたキノコ、ハッシュドポテト、フレンチトースト。

 手際よく淹れられたコーヒーとフルーツヨーグルトまでいつの間にかテーブルに置いてある。

 もはやホテルのモーニングビュッフェ状態だぜい!


「え、ちょっと待って……誰がこんなに食うんだ?」


 俺は思わず並んだ料理の数々を見渡し、困惑した。

 完全に調子に乗っていたな……。


「だが……反省はしない!」


 独り暮らしでこの量。完全にやりすぎだが、せっかく作ったのだから俺は食べる!全部食べる!!


「よしっ!責任を持って——いただきます!」 


 まず、軽く焼いたベーコンエッグを口に運ぶ。


 ——うまい!


 今まで何度も作ってきた料理のはずなのに、全然出来が違う。

 しかも味がクリアというか、すべての風味を鮮やかに感じることができている。

 こんな感覚、今まであったか?

 俺の料理の腕と味覚が急激に上達した……? いや、そんなことがあるわけ——ないよな?




 午後になり、俺は少し気分転換を兼ねて買い物に出ることにした。


 週末のスーパーは人で賑わっている。

 カートを押す人々の間をすり抜けながら、俺は特に目的もなく店内をウロウロしていた——はずだった。


 気がつけば、俺はカレーの材料をカゴに入れていた。しかも、どっさりと——ニクニクヤサイニクヤサイ。


 昨日、いや数時間前に異世界でカレーを作ったばかりなのに、まだカレーを作る気か俺は!?

 ちょっと待て、さすがにカレーの連投はどうなんだ? 普通に考えて飽きるだろ!?


 だがしかし——俺の足は、まるで使命を果たすかのようにスパイス売り場へと向かっている。


 くっ……もしや俺はカレーの王子さまなのか!?


 このスーパーのスパイス売り場は、量り売り形式を採用していた。

 各種スパイスが大きなガラス瓶や木箱に入れられ、客が自由に香りを確かめながら選べるスタイルになっている。

 そのせいか、売り場の周辺にはふわりとスパイスの芳醇な香りが漂っていた。


「……ん?」


 いつもは意識しないようなスパイスの個々の香りが、鮮明に分かる気がする。


「……まるで、ひとつずつ匂いのレイヤーが感じ取れるみたいだ」


 俺は何気なく、ひとつのスパイスの瓶を手に取る。

 鼻を近づけた瞬間——不意に、異世界で嗅いだ香辛料の香りが蘇った。


「これ……似てるな」


 慎重に香りを確かめる。

 まるで、個々のスパイスの層が重なり合い、それぞれの香りが独立して立ち上ってくるような感覚だ。


 気のせいか……? いや、やっぱり……


 自分の嗅覚が異様に研ぎ澄まされていることに戸惑いながら、俺は異世界を思い出させるスパイスをカートに入れた。


「やっぱり、なんかおかしいよな? 俺……」


 考えても仕方がない。

 とりあえず、明日カレーを作るとしよう!




 日曜日の昼。

 俺は昨日買った食材とスパイスを並べ、カレー作りを開始した。


 昨日買い込んだスパイスの袋を慎重に並べ、ひとつずつ蓋を開ける。

 ふわりと広がる香りが、俺の嗅覚を刺激する。

 クミン、コリアンダー、ターメリック、シナモンetc……。

 それぞれの香りを確かめながら、必要な分をすくい取り、小さな皿に分けていく。


 まずは玉ねぎをしっかり炒めて、甘みを出すしていこう!

 いつもよりも均一に、そして素早くみじん切りができた。

 フライパンに油を引き、玉ねぎを投入すると、じゅわっと心地よい音が響く。


 「ここが肝心だ。飴色になるまでじっくり炒めて……と」


 ヘラを手にしながら、弱火でじっくり玉ねぎを炒めていく。

 やがて、フライパンの中で玉ねぎが透き通り、徐々に茶色に色づき始める。

 甘く、芳ばしい香りが立ち上ると、俺は手元のスパイスに目を向けた。


 「さて、こっからが本番だ」


 クミンシードをひとつまみフライパンの上に振り入れると、途端に弾けるような香りが立つ。

 続けてコリアンダーパウダー、ターメリック、ガラムマサラ——調合したスパイスを少しずつ投入し、炒め合わせる。


 ジュワッ——。


 スパイスの香りが一気に立ち上り、まるで異世界で嗅いだ香りの再現をしているかのようだった。

 俺はスパチュラを握りしめながら、思わず呟く。


「……これ、ヤバいくらいにうまそうだぞ」


 一気にテンションが上がった。

 肉を投入し、スパイスが絡みつくように炒める。

 じっくりと火を入れながら、トマトを加えて煮詰め、ようやくカレーの形が整い始めた。


 ふつふつと沸き立つ鍋の中。

 立ち上る湯気から、スパイスと肉の香りが混ざり合う。

 俺はそれを見つめながら、無意識に唾を飲み込んでいた。


「これは、確実においしいよな。そんで確実におかしいよな……」


 調理に掛かった時間はいつもの半分以下。

 素晴らしい手際で、素晴らしい料理ができあがっている。

 こんな料理の鉄人な俺を俺は知らない!!!


 完成したカレーを目の前にし、味見をしようとスプーンを持った手が止まる。


 「……これ食べたら、もしかして異世界にに行っちまったりする?」


 ふと脳裏に、セシリアや村人たちの顔が浮かんだ。

 今これを食べて異世界に飛ばされたら……それはそれで嬉しいようで、やはり問題があるとも思う。

 だが、やってみないと分からないのも確かだ。

 スプーン口に運ぶが、俺はカレーを空振りして息を呑んだ——今ここで試すのは、まだ早い。


「うーん。田辺にでも食わすかねぇ」


 別に、実験のためじゃないよ?

 ただ、普通に世話になっている友人に食べてもらいたいだけだ。

 絶対うまいし、せっかく作ったんだもん。

 田辺は居酒屋で異世界に転移してなかったみたいだし、多分大丈夫だろう。

 いや絶対きっとおそらく間違いなく大丈夫!


 俺は鍋を冷蔵庫に入れ、月曜日にタッパーに詰めて会社に持っていくことにした。




 通勤ラッシュの満員電車。

 四方八方をスーツ姿の男たちと、スマホを覗き込むOLたちに囲まれ、身動きひとつ取れない状況の中、俺は改めて現実を突きつけられている。

 あちらでは、広い森や開けた村の景色が目に暖かかったのに、今はただただ無機質な車両のに閉じ込められ、窓の外には寒々しいビルが立ち並び、どこまでも変わらないと思える都会の風景が流れていく。


 月曜とか関係なく、ひどく憂鬱だ。


 会社のビルに入ると、冷房の効いた空気が肌を撫でた。

 通勤ラッシュの疲れがまだ抜けきらない俺は、エントランスの自動ドアをくぐりながら、大きく息を吐く。


「おーす、藤倉。おはよう! 今日も元気に生きてるか?」


 エレベーターホールの前で待っていた田辺が、俺を見つけてニヤリと笑った。

 彼はいつも通りのテンションだったが、手にはコンビニのコーヒーが二つ握られていた。

 きっと、居酒屋でおかしな様子だった俺を心配して待ってくれていたのだろう。


「まぁな。週末は迷惑を掛けちまったが、元気いっぱい行きてるぜ。生存報告も済んだし、さっさと仕事に向かおうではないか!」


「お前がそんな殊勝なこと言うとはな……。褒美にこのコーヒーを進ぜよう」


「ははー! ありがたく頂戴します」


 そんな軽口を叩き合いながら、エレベーターに乗り込む。

 行き先ボタンを押してしばらく待っているとドアが閉まり、ゆっくりと昇降を始めた。


「そういや、今日昼休みにちょっと付き合ってくれよ」


 俺がそう切り出すと、田辺は訝しげに眉を上げた。


「なんだよ、おごりか? それともまた妙な食い物か?」


「妙な食い物とは失礼だな。まぁ、俺の手作りカレーなんだけどな」


「……カレー?」


「ああ。週末に作ったやつでな。上手くできたから、お前にも食わせようと思って」


 エレベーターが目的の階に着き、ドアが開く。

 田辺は少し考え込んだ後”まぁ、ナオヤのカレーならハズレはないしな”と頷いた。


「いいぜ。んじゃ、昼休みにラウンジな」


「おう、決まりだ!」




「……なにこれ。やばいくらい美味いんだけど?」


 驚愕する田辺。

 俺は”今まで食ったカレーの中でもダントツNo.1”との評価を頂いたのだった。

 田辺は夢中になってカレーを食べ続け、スプーンを置く気配が全くない。


「おいおい、そんなに美味いか?」


「いや……もぐもぐ。美味いとかそういうレベルじゃないんだけど?」


 そう言いながら、田辺はまたスプーンを口に運んでいる。

 その満足げな表情を見ているうちに、俺の口の中にも唾が溢れた。


 ——ここまで高評価されてるのに、自分で食わないのはおかしくね?


 だが、異世界転移の可能性がある以上、簡単にカレーを口にするのは危険だ。

 もしかしたら、俺だけが転移する力を持っている可能性だってある。


「ん? 藤倉は食わねぇのか?」


 ……こう言われてしまってはもう、食わない選択肢はない。

 それに、田辺が何ともないのだから、俺もきっと大丈夫だ。多分絶対間違いなく大丈夫だ!


 覚悟を決めて、スプーンを手に取り、ほんの少しだけルーをすくって口元に運ぶ。


 ——結論。転移はしなかった。


 俺はホッと息をつきながら、田辺いわく史上最高のカレーをじっくり味わう。

 口の中に広がる濃厚なスパイスの香りと、旨味の重なり。


「……やばうま」


(じゃあ、何が異世界転移の条件だったんだ?)


 異世界で食べた時と何が違う?

 行くと戻るとでは条件が違うのか?

 そもそも、俺があっちに再び行く方法はあるのだろうか?


 スプーンを握ったまま、俺はふと遠くを見つめた。

 そんな俺を見て、田辺が呆れたように笑う。


「どうした? うますぎて意識が飛びそうになったか?」


「……いや、まぁ、そんなとこだ」


 適当に誤魔化しつつ、再びスプーンを持ち上げた。


 俺があっちに戻る方法はあるのかな?

 至高のカレーの味の記憶と、そんな疑問が、俺の心に深く刻まれた——。

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