疫病

「人型犬種、いわゆる伏は、一般に人類より背が高く、力ははるかに強いです。最大時速70キロで走り、そのまま30分走ったり、時速40キロくらいでなら丸一日走り続けることもできます。当然非常に危険です。古来より彼らは森の主であり、戦後研究が進むまで、まず人に慣れることもありませんでした。強大な生物を所有しているという自覚を持ち――」


 講習には出なければならない。たとえどれだけ分かり切ったことを連呼されようともだ。無理に起きようとすると逆に舟をこぐので、静は半分寝ながら説明を聞いている。目は開けているようにも見える程度に開き、目線だけはしっかり前に向けていた。

 

「――それでは、本日の講習会を終了します。お疲れさまでした。雪にはお気をつけて。定期検査のある方は一階の医務室までお願いします」


 立ち上がる。教室の後ろには日太刀が立っている。

 伏とて寝転ぶ。事実何頭かいる伏たちは、それなりの面積のある教室の後ろを埋めるように丸くなっている。ただ日太刀はあまり座らない伏だった。

 そして静が立ち上がると、それを予知していたかのように同時に歩き出した。日太刀は勘のいい伏だった。



 医務室では採血と、いくつかの問診がある。古臭い建物と同じくらいは古そうな老人が、一人で黙々と伏たちを診ていた。

 その半分石のような獣医が静たちに反応したのは、この世界が狭いというのが一つ。そして彼女は狭い世界で有名人だというのがもう一つである。


「賢見さんのお孫さんけ」

「ひ孫です。正確には」


 唯一の肉親だった。97歳の大往生で、そこからは犬と少女で生きてきた。


「ん。日太刀号、今回も異常なし」

「ありがとうございます」

「ん。お嬢ちゃんたぁた佐狼さろうさんももうすぐ7回忌やじ、あんたどうする?」


 伏の世界での有名人というのは、まず真っ当なものではない。かつては伝説の中の怪物であり、大戦後ようやく学術の対象になったものの、そのほとんどは物騒な扱われ方をした。

 狩猟用などの使い道もあったが、平和利用が模索され出したのは冷戦後である。その時にはすでに、人型の狗を含有がんゆうできるような社会ではなくなっていた。


 人を軽々噛み殺せる猛獣。疫病の媒介者。には荷が重い生き物だ。

 それでも研究を続ける者は存在し、賢見佐狼はその第一人者とも目された。

 十年近く前の話である。


「お寺の方にはお話してありますので、後ほどお手紙を出させていただきます」

「んあ、ええよ。日にちと場所教えてくれんなら、勝手に行くけ」


 老人ではあったが、それ以上に学者なのか、根回しやら忖度そんたくとは正反対の人間だった。恐らく手紙を出しても読みもしないだろう。


「それでは、雪もありますし、4月の中頃になると思いますので、次の予防接種の際にまたお知らせします」

「おう、あんがとな。雪道にゃ気いつけまっし」


 老人はカルテや処方箋の山に視線を戻す。静は一礼したが、もう老医師の視界には入っていなかった。




 海近くの建物から北へ。半島をさかのぼり、海と山が接するあたりに静の家があった。バイクでもそれなりの時間がかかる。雪道ならなおさら。

 家、と呼ぶには施設に寄りすぎている。木造の古びた壁は、あの獣医よりもさらに古い。曾祖父、賢見佐狼が立てた研究所であった。

 紅茶にジャムを二すくい入れ、ビスケットをかじる。寒気に対抗するにはアルコールか糖分が手っ取り早い。静は未成年である。それに酒はそれほど好きではなかった。


 日太刀には牛スジで出汁をとった玄米の粥を与える。あくまで暖をとるためのものだ。伏は2キロの肉をぺろりと平らげる健啖家である。刺激物を嫌うため、香辛料も使えない。

 日太刀はさじを器用に使った。話せはしないが、この程度の芸なら仕込める。それに日太刀は賢い伏だった。


「お風呂にも入らないとね」


 風呂、の単語を聞いたとたんに日太刀が立ち上がる。日太刀は勘のいい伏である。そして伏は水を嫌う。静はその首根っこをひっ捕らえる。身長は日太刀が頭一つ高い。静とて長身で、170センチは超えているが、日太刀は別種。2メートル近い。

 それでも主人に抗えないのは伏の本能か、調教の技術か。とにかく静は有無を言わさず、巨躯の怪物を風呂場へ引きずっていった。


 風呂場は広かった。小さい銭湯並みである。しかし風呂桶は情緒のない総ステンレス製で、洗浄槽と呼ぶべき場所だった。

 日太刀に喰わせるものには気を使っている。生肉はらせない。せいぜい新鮮な血ぐらいのものだ。よって病原は外から来る。汚れや穢れだ。


 伏は多くの病原を媒介する。そもそもが人に近い上に、肉食に近い雑食。山に住むため蚊にもダニにもヒルにも噛まれる。

 だから念入りな洗浄が大事だった。薬用の石鹸で指の隙間、爪の裏まで洗う。これも臭いの無いものだ。洗い終えたら浴槽に沈め、蟲を浮かす。 

 日太刀は常の微笑みを、この時ばかりは崩して嫌な顔をするが、自分で水分を払ったりはしない。口を結びながら、ぶくぶくと水に沈む。隅々までしつけが行き届いていた。


「いい子ね。後で羊肉マトンをあげるから」


 どちらも髪は結ばない。長い繊維の奥に潜む蟲を追い出すためだ。そのための広い浴槽でもある。伏は常に全身をくるまれている。長い髪に。厚い布に。これも防疫対策だった。

 だから日太刀の肌は牛乳のように白い。静も服の好みが似ているため、肌は似た色合いだ。湯気の中で寄り添えば、色彩は溶け合って見える。

 そんな二人が湯船に浸かれば、赤朽葉色の髪と漆黒の髪が広がり、三色の絵の具を水面に数滴たらしたようになる。


 十分ゆであがったと判断して、湯船を出て水分をとる。タオルで拭き取られると、微妙だった顔がみるみる元に戻っていく。


「いい子ね。いい子」


 仕上げに髪に油をふりつつ念入りにくしけずる。飽きないようにおやつの煮干しを数匹渡すと。ぽいぽい口に放り込んでにこにこしながらかみ砕く。

 口を開けた時に除く犬歯は長い。それはまさに狗の牙だ。


 ぽーん、と呼び鈴が鳴った。

 静は目だけを玄関に向ける。日太刀はただ聞き耳を立てる。


「はい。どちら様でしょうか」


 静はよく通る声で尋ねた。インターフォンなどという小洒落たものはない。声を張るだけだ。


「夜分遅くすみません。保健所のものです」


 嘘では無いと判断する。こんな辺鄙など田舎の怪しげな建物に侵入する盗っ人はいない。配信者なら保健所などと名乗らないだろう。

 だからこそ、静は彼らの目的を考える。まさに夜分遅く。日も暮れて雪も降る中、なぜ今。

 それほどに緊急なのか。


「申し訳ありません。お風呂上がりですので、しばらくお待ち下さい」

「ああ、これはまことに失礼しました。ゆっくりでいいので」


 わずかばかりの時間を稼ぎ、床の一部を掴む。

 引き上げると灰色の階段が姿を現しまた。この家の外側は木製だが、それは入口に過ぎない。かつては伏研究の第一人者の実験施設であった。


 階段を滑るように駆け下り、地下の一室に入る。数十の画面が、家の全周をくまなく映し出している。インターフォンは無いが、こういった設備は充実していた。


 保健所の者との言葉に嘘はなかった。ただ人数が多かった。声をかけたであろう男の後ろに、十人ほど並んでいる。

 手にはライフル。噛みつきの被害を抑えるための、分厚いそですそ。首元には鉄板まで打ってある。完全武装だ。

 静は部屋のすみにある鍵付きロッカーに駆け寄る。指の太さの南京錠と、いくつかのダイヤル錠を外すと、ライフルが開放された。三八式。古いが優秀なボルトアクション。

 それを引っつかむやいなや、狗に投げ渡す。


「日太刀。裏から外へ」


 訓練された伏は、命令に一切の疑問をいだかない。銃を取った日太刀は、一目散に隠し通路の方へと走る。

 一分とかからず一連の行動を終えた静は、息も乱さず玄関へ向かった。


「申し訳ありません。遅くなってしまい……」


 いちおう驚いた方が良かろうという判断で、静は話の途中で口を閉じる。演技というものをしたことがなかったので、絶句したと受け取られたかは分からなかった。

 しかし相手も人間の専門家ではない。あくまで公衆衛生の守り手。拙い演技でも効果はあった。

 中年の男は後ろの部隊については口にせず、少女を落ち着かせるように、優しく目的を告げた。


「保健所のものです。あなたの所有する猟伏、日太刀号に、感染性溶血症かんせんせいゆうけつしょうの疑いが出ています。直ちに供出をお願いします」


 病名を聞き、静は細くため息を吐く。その長い名前をいちいち言う者は少ない。病と、その病を持つものを同一視して、それらはこう呼ばれる。


「日太刀が伏神であると?」

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