雪海

 北国の町は雪の中に輝き、冬眠する小動物の心臓のように細く脈打っている。

 雪山を歩く行為は航海に似ている。町の灯が見える状況ならば、危険であることに変わりはないが、最悪は避けやすい。沿岸を行くようなものだ。

 静は山を越えようとしている。山一つ越えれば、冒険者は人の世界と完全に隔絶し、方位も定まらぬ大海原へと放り出される。

 だが追跡を振り切るには必要なことだった。





 3時間前、静はまだ客人と話し合っていた。


「日太刀がですか?今日の検査では異常なしと……」

「残念ですが、議論の余地はありません。伏神の存在が認められた以上、まずは回収が必要です」


 有無を言わさない。横暴と怒るのは簡単だが、彼らの行動は正しさと法理に裏打ちされていた。

 伏神とは、つまるところ疫病神である。伏は多くの病に感染し、感染させるが、この病は伏から人にしか感染しない。一方通行である。

 死亡率は100%。必ず死ぬ。よってあらゆる手段をもって、これの蔓延まんえんを防がねばならない。

 疑いを持たれた時点で伏は回収され、即座にされる。飼い主にできることは何もない。


 合法的には。


「分かりました。では日太刀を連れて来ますので……」

「いえ、こちらで回収いたします。賢見さんはこちらで待っていただいて結構です」


 公僕たちは、徹底的に何もさせない。それは一種の慈悲でもあった。否応なしとはいえ、飼い犬を死神に渡すのは苦痛である。無味乾燥こそが権力の走狗たちの思いやりだった。

 この数分で何度目かもわからないため息。静は素直に従った。


「日太刀は裏庭です」

「裏庭?」


 職員が聞き返した。伏の放し飼いは厳禁である。


「法令で決められた高さの柵に囲まれています。ここは元研究所ですので」

「なるほど。……裏へ。2班は残れ」


 小声の指示を聞き逃さず、銃を持った男たちは内と外から家の裏へ回る。三人は静を見張るように残った。中年の職員を合わせて、四人が静を監視している。ずいぶんな年の入れようだった。


「柔道をやられていますか?」


 静は職員に聞いた。


「は?」


 職員は意味が分からず聞き返した。


「耳が、やっている方のものでしたので」


 男の耳は潰れていた。


「まあ、自慢になるけれど、全国に行ったこともありますね」

「そうですか。それならいいのですが」


 何かを憂うように、静はまたため息を吐く。

 その言動を疑問には思ったが、おしゃべりは職員の仕事ではなかった。

 そしてすぐ、それどころではなくなる。無線機が鳴った。


「こちら本部。どうぞ」

『こちら1班。目標がいません』

「いない?」

『柵の端で足跡が途切れています。どうぞ』


 職員は静を見る。疑いと、それ以上の困惑で。

 強い視線だったが、静は意に介さず自分の意見を述べる。


「賢い子ですから、隠れたんでしょう」

「山に逃げてはいないと?」

「柵は二重です。山際に電気柵が張ってあります。伏でも越えられません。そう作ってありますので」


 職員は無線機で確認を取る。


「森に電気柵があるそうだ。見えるか?」

『見えます。かなり高いですね。5mはあります』

「木登りはできそうか?」

『木に網を巻いてありますね。計画して伐採した林でしょう。どう跳ぼうが無理です』

「要塞ってわけか」


 職員はあきれたようにつぶやいた。伏は凶暴で危険である。それを誰よりも理解している研究者の住み家は、偏執的な周到さをもって守られていた。

 

「確かにこれでは逃げようがありませんな」

「ええ。外から入ることも」


 職員は静の目を見た。含みのある言い方だった。その声なき声にも、静は丁寧に応対する。


「裏からも回っているのでしょう?こんな人数で押しかけて、逃げ道を塞がないわけがない」

「どういう」

「出るにも入るにも」


 静は立ち上がる。職員は国家の狗の本能で、少女を取り押さえようとした。


「この家を通るしか方法は無いということです」


 狗の方が早かった。

 赤朽葉色の波が床を破り噴出する。地下道から戻った日太刀が、その長い腕で職員の肩を捕らえる。

 人間に抗える膂力りょりょくではなかった。たちまち引き倒される。


「撃て!撃て!構うな!!」


 銃を持つ班員たちは、職員の声が届く前に狙いを定めている。だが銃口がわずかに高い。同士討ちへの忌避感が、無意識に狙いを甘くしている。

 払い下げの64式小銃より、伏を殺傷するのに十分な運動エネルギーを持つ7.62ミリ弾が放たれた。連射だが、どの銃からも5発以上の銃声はしない。殺すだけならそれで事足りるし、撃ちすぎても銃が暴れて当たらない。最低限の連射で必要十分な死を供給する。


 銃を持った男は三人いた。一人は静の手で銃口押し上げられ、天井を撃った。もう一人の銃弾は異様に姿勢を低くした日太刀の背を通り過ぎた。

 最後の一人はフリスビーのように投げられた職員の体に吹き飛ばされ、斜め上の壁に穴をあけ、電灯を一つ砕いた。とっさに引き金から指を離したのは、徹底した訓練と、練り上げた精神による成果である。

 初撃をかわされれば、あとは身体能力に勝るものの独壇場だった。踊り子のように一回りすれば、鋼の銃がくの字に折れ曲がる。素手で戦うのは夢想の領域だ。

 

「日太刀、荷物は持った?」


 赤い狗は、小脇に抱えた大型の登山リュックを示した。静の上半身が隠れる大きさの大荷物だが、一回り大きな伏には大きめの包みに過ぎない。

 そして細長い筒。三八式歩兵銃。日太刀は荷物だけを持ち、武器は主人に投げ渡した。それは常に主人の、静の手にあるべきものだから。特に今は。


「柔道をやっている方でよかった」


 静は本当に安心したように言った。


「受け身をとれる人で。その様子でしたら、少し休めば大丈夫でしょう」

 

 そう言って日太刀に背負われると、狗は四つ足になって玄関から駆け出した。

 寒風が吹きこむ。刺すような冷気は、痛みにあえいでいた男たちには鎮痛剤として作用した。


「バックトラックか……!くそっ、こんな原始的な技で!」


 雪道に刻まれた自身の足跡に沿って後ずさり、消えたように見せる技法。ヒグマなどの、ある程度知性を持つ獣の多くが使う手品である。

 奇襲であったという油断が慢心を生んだ。呼び鈴が鳴らされてから五分とたっていない。まずは驚き慌てるであろうという、ある意味当然の予断によって欺かれたのである。





 道から外れればもう雪は深い。靴を履き、リュックに下げていたをつける。

 重石を背負しょっての全力疾走はさすがにこたえたのか、日太刀は普段見せない口を大きく開けて空気を取り込む。長い舌からの放熱で、雪が空中で融ける。はっはと短い呼吸は小さな雲を無数に作り出し、空からの手紙を空へ送り返していた。

 静はリュックの中身を外側から確かめる。テントと燃料。保存食と、いくらかの小物類。

 

「足りないけど、まあなんとかなるでしょう」


 肩をすくめる。長い逃避行になるだろうが、長くなりすぎることもないはずだった。


「終わらなければ撃ち殺されるだけだしね」


 日太刀が主人の顔をのぞき込む。言葉の意味が分からず、顔から読み取ろうとするように。

 静は微笑んだ。つられて日太刀もにっこり笑う。

 よい子だ。傷つき孤独だった静に、昔から寄り添ってくれた。

 彼女を助けるのは静の義務である。


「行きましょう。新しい家に」


 それが出発の合図であると察した日太刀は、先頭に立って雪をかき分けていく。静は後を追い、雪海へと漕ぎ出した。


 

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