第3話 まさかの『よろしく』

 *****



 カードリーダーにタイムカードをかざすと、オフィスにはこうばしいコーヒーの香りが漂っていた。

 どうやら課長はもう出社しているらしい。思ったとおり、給湯器スペースからコーヒーのマグカップを持ったオールバックの男性が顔を出した。

「おはよう、名代さん。相変わらず今日も早いね」

 そう言って課長は目じりに皺をつくる。無骨な指には艶を消した結婚指輪がはめられている。

 課長——雨宮あまみや課長は、支店のトップであり、私の直属の上司にあたる。

 雨宮課長は去年東京本社から転勤してきた。千葉県出身で、奥さんと子ども2人がいるが、今は離れて暮らしている。

 前任の課長はこの人のことを「鬼のように厳しい」と言ったが、物腰は柔らかで、声を荒げたところを見たことがない。


 福岡支店のオフィスは、ふるい雑居ビルの二階にあった。

 ワンフロアを貸し切っているので、専有スペースは広いが、そのほとんどを倉庫がわりに使っており、実際に仕事をするオフィススペースは驚くほど狭い。応接のほかに、デスクが6つと、給湯スペースがあるだけだ。

 現在このオフィスで働くのは雨宮課長と私、営業社員の2人、そしてパート従業員の鮎川さんの5人だ。

 営業の2人は直行で、鮎川さんは出社日ではないので、今日の午前中は課長と2人で過ごすことになりそうだ。

 私はここで経理と総務作業のすべてを引き受けている。


「課長、すみません。またポット洗っていただいて」

 アウターを脱ぎながらいえば、課長は得意げに片目をつむってみせた。

「気にするな。ここは俺の家みたいなもんだからね。くつろいでいきなよ」

「何言ってるんですか。会社の備品なのに」

「なんてな。さっき沸かしたから、お湯、まだあったかいよ。名代さんもコーヒー飲んだら?」

「ありがとうございます。いただきます」

 言いながら、私は給湯コーナーに移動した。


 戸棚からインスタントコーヒーを取り出していると、課長が、きいたか?と話しかけてきた。

「営業三課の赤木と人事課の柳浜さん、結婚するらしいじゃん。名代さんはふたりと同期だったよな?」

 昨日ラインで聞いたばかりなのに、もう話がまわっているらしい。同期同士の結婚だからだろうか。

「はい。社員とエリア社員で立場は違いますけど……課長はなぜそれを?」

「赤木は俺が転勤するまで部下だったんだよ。こっちで式を挙げるからスピーチを頼みたいんだと」

「へえ」

 私は曖昧に相槌を打った。欠席するつもりなのは言わないほうがよさそうだ。

「そういえば、課長は去年まで東京の営業部所属でしたね」

 同期の話題から離れることを期待して、さりげなく話をかえた。仲がいい同期はいるか、なんて聞かれたら、どうこたえていいかわからない。

「まあな。名代さんの同期といえば、赤木と、あっ、あとは香坂か」

「えっ?」

「香坂樹。知ってるだろ?あいつも俺が指導したんだぜ」

 課長の口から思いがけない名前が出て、私は固まった。握っていたインスタントコーヒー瓶の蓋が私の手からからりとおちる。慌てて拾いあげ、蓋を閉めて戸棚にもどす。

 持っていたのが瓶やカップじゃなくて良かった。もしそうだったら、音で動揺したのがバレてしまっていた。

「あれ?名代さん香坂とも同期だよな?」

 黙っているのを疑問に思ったのか、課長は尋ねた。

「ええ、まあ。はい……でもよく知ってましたね。私と赤木くんたちが同期だって」

「そりゃそうだよ。俺が福岡に転勤になるって聞いて、真っ先に言われたんだよ。『名代さんって俺の同期が福岡にいるから、よろしくお願いします』って」

「赤木くんにですか?」

「いや、香坂だよ」

「え?香坂くんが?!」

 思ったより大きな声が出て、私はとっさに手で口を塞いだ。

 香坂くんが?私を?よろしく?

 いや、ないない。

 私は頭の中で首を横に張った。私と香坂くんの接点は「同期」ということだけ。彼にとって私は、20数名いる同僚のひとりにすぎない。たとえば私が彼と同じエリート枠採用か、勤務地が近ければ、それなりに交流があったかもしれないが、そうじゃないのだから、彼によろしくされるいわれはない。

「名代さん?」

 課長が眉を寄せてこちらを覗き込んでいる。私は誤魔化すように口にハンカチをあてて咳払いをした。

「すみません……ちょっとびっくりしちゃって」

「驚く?なんで」

「まさかその、香坂くんに覚えられてるなんて思わなかったんで……香坂くんは、私とは立場が違うので」

 そういうと、課長は少し顔を苦くさせた。

「立場とか関係ないでしょ。同期なんだから」

 と深く息を吐いた。





 結婚式の誘いには、参加の返事をした。

 上司が参列するとわかった以上、欠席するわけにはいかないだろう。気は乗らないが仕方ない。


 昼休みに柳浜さんへ連絡をすると、受付を頼まれたので、こちらも快諾しておいた。

 普段ろくに連絡もとらない私に受付まで頼むなんて、少々おこがましいのでは?

 なんて、少々もやっとはしたが、話す相手もいない私は、きっと参列者から浮くだろうし、ポツンとするくらいなら、はじめからせかせか働いていたほうがいい。


 それにしても、先ほどの課長のアレは本当なのだろうか。まさか香坂くんが私を雨宮課長に『よろしく』していたなんて。

『え?連絡先も知らないの?』

 あれから雨宮課長と話して、私が雨宮くんの連絡先を知らないというと、雨宮課長はひどく驚いた顔をした。

 香坂は親近感ありそうだったのになぁ、とも言っていたが、きっとそれは課長の勘違いだろう。


——どうか香坂くんが雨宮課長に余計なことを言っていませんように

——あのことは、絶対に覚えていませんように


 食べ終えたお弁当箱を保冷バッグに戻し、ベンチの横にそっとおいた。

 今日は天気が良いので、私はお弁当を持って屋上に上がっていた。オフィスが入る雑居ビルの屋上は、お気に入りの休憩スポットだった。すがすがしく、静かで、人があまり来ないのが良かった。

 少し前までは、ここにスケッチブックを持ち込んで絵を描いていた。風景画を描くこともあれば、デッサンの練習をすることもあった。あるいは、二次創作の原稿締め切りがせまっているときなどは、iPadを持ちこんで、ここで原稿を描いたこともままあった。でもいまは、その全てをやめてしまった。


 かわりに、私はスマホ取り出した。ハートマークがかかれたアイコンをタップする。ステータス画面の右上に新着メッセージを知らせるマークがついていて、タップすると、新規のメッセージが表示された。


〈こんにちは。プロフ見て気になったのでメッセージしました〉

〈よかったら今度会いませんか?〉

 

 二時間前に来ていたデートの誘いに気分が上がる。相手のプロフを眺めてみると、年は私のひとつ上で、地方国立大卒のサラリーマン。趣味は映画鑑賞、ひとりキャンプと続く。なるほど悪くないプロフィールだ。早速私は返信を打つ。


〈こんにちは。メッセージありがとうございます〉

〈私でよかったら、ぜひ〉


 絵をやめた私が暇つぶしに選んだのは、マッチングアプリだった。もう半年ほど続けている。気になった人とはメッセージのやりとりをして、月2回のペースでデートに行く日々が続いている。

 思えば私はあらゆることが遅筆で、ありとあらゆるチャンスを逃し続けていた。だからせめて。恋愛だけは遅筆でいたくない。これでも人並みに結婚願望はある。

 とはいえ、今のところ交際に発展したことはない。やり取りをした相手と2回目のデートをするところまでいきつかないのだ。相手が遊びのつもりなのか、単に私に需要がないのか。

 デートの誘いが来るということは、プロフィール写真と私が書いたステータスには一定の需要がある。しかし、一方踏み込んだ私の人間性に需要がないということでもある。


 つまり、私には初対面の人にまた会いたいと思わせるだけの魅力がない。


 わかってはいたが、あらためて突きつけられると、やはりショックだ。


 私の人間性が希薄なのは今に始まったことじゃない。人付き合いが苦手な根暗。かと言って、努力家なわけでもない。受験時のデッサン練習より頑張ったことは、はっきりいってない。

 絵が描けることは長所であり、私の全てだった。そんな私が描くことをやめたのだ。魅力なんて無くなってあたりまえだ。


 だから私は数を打つしかない。

 がらんどうのお前でも愛してあげると言ってくれる人と出会うしかない。

 そのためなら、体くらい開いてもいい。

 失うものなんて、もう何もないのだから。


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