正のスパイラル

森本 晃次

第1話 苛めというもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年3月時点のものです。


 H大学の歴史研究所に、伊東研究所というところがあり、そこでは、

「史実をいろいろな観点から、推理していこう」

 ということをやっていた。

 考古学のように、

「発見された資料」

 などを元に推理するわけだが、

「それが何も、自分たちで発見したり研究したりしたものではなくてもいい」

 それこそ、以前推理小説などで流行った、

「安楽椅子探偵」

 といわれるもので、実際に自分たちの手で発掘から研究を重ねている人たちからすれば、

「そんなのは、邪道だ」

 というのは、当たり前のことであろう。

「人のふんどしで相撲を取る」

 といってもいいようなやり方は、確かに、

「いろいろな研究方法があっても、そのあたりは臨機応変にして構わないだろう」

 といわれていたが、さすがに、この方法は、

「まず研究者の端くれとしては、許されることではない」

 といわれるのも当たり前だというものであった。

 伊東教授というのは、以前、自分の研究していた内容を、他の教授に取られたことがあった。

 そもそも、真面目な研究者で、それでも、

「俺のやり方は間違っていない」

 とばかりに、それこそくそ真面目に研究を続けていたが、なかなか、その盗まれた時のような研究成果を挙げることができなくなっていたが、それでも、一度盗まれてから、7年後には、

「新たな発見」

 により、

「独自の論文」

 を書き上げようとしていたその時、またしても、他の研究所にすっぱ抜かれたのであった。

 今回は、研究所の中にスパイが入り込んでいて、逐一、その情報が流されていた。

 そもそも、博士の研究は、

「最初に自分の学説を立てておいたことから、発掘を始める」

 というものであり、ある程度の理論は頭の中で出来上がっていたはずなのに、それでも、他の人の論文の方が早かったということは、

「最初から見つかることを前提として、ライバルは、その論文を書き続けていた」

 ということだったのだ。

 伊東博士は、確かに、持論の仮説というものを、ちゃんと作り上げているにはいるのだが、論文にまで落としてはいなかった。

「発見によって、どれほどの差異があるか分からない」

 という考えから、とても、最初から、仮設の状態から論文を書くということができるほどではなかった。

 それに比べて、

「盗んだ方は、その点には長けていた」

 というのは、

「最初に作り上げたものを、少し帝政を入れ化ければいけなくなった時の、加筆修正というものに対しては、すごいといえるだけの才能があった」

 ということであった。

 そもそも、彼が、大学で教授の座にいて、しかも、歴史緊急ができるというのも、この才能があってこそ」

 ということであった。

 もちろん、

「歴史が好きで、コツコツと研究することに関しては、誰にも負けない」

 という自負があったからこそ、学生時代から、歴史研究に関しては、頑張ってこれたのであった。

 それはそれで、

「素晴らしい才能だ」

 といってもいいが、長年研究を行っている間に、それでは満足できなくなってきたということであった。

 最初は、

「研究を続けていけるだけで、それだけでいい」

 と思っていたのだが、次第に、後輩の研究者からは抜かれていき、華々しい世界には、自分が縁遠いという立場になってきたことが、自分でも、辛いと思うようになってきたのだった。

 だが、そのうちに感じたのは、

「皆と同じことをしていては、要領のいい連中には勝てない」

 と思うようになった。

 かといって、

「自分にどうすることもできない」

 と感じた時、伊東教授の失脚を見たのだった。

 まわりは、

「要領が悪い」

 といわれ、それも、

「昔からのオーソドックスな方法だけを行っていては、よほどの才能がないと、人より前にはいけないんだ」

 という話も聞こえ聴いたからだった。

 それを考えた彼は、

「自分には、何か他の人にない才能というものはないものか?」

 と思った。

 その時に考えたのが、

「内容は別にして、自分は、論文などは、いつも誰よりも早いものを書くことができる」

 ということであった。

 そこで、

「他人が発見して、それを論文にしている間に、俺だったら、早く書きあげることができて、学説として発表することができるかも知れない」

 ということであった。

 そこで、研究員を潜り込ませて、そこで、研究内容を逐一報告させていたのだった。

 敢えて、それを伊東研究所で行ったというのは、

「やつほど、オーソドックスな研究方法を行う人はいない」

 ということで、

「論文を出すにも、ある程度の時間はかかるだろう」

 と考えたからだった。

 確かに、実際に想像通り、いや、想像以上に、

「伊東教授の研究は、オーソドックスすぎるくらい」

 ということで、

「あれじゃあ、他に出し抜かれるというのも、無理もないほどだ」

 と、却って同情するくらいの酷さだった。

 だからと言って、

「自分が這い上がるためには、これくらいのことは、やっても罰は当たらないだろう」

 などと勝手なことを思って、相変わらずこのやり方を続けていたが、やっと、自分が考えていた通りの発掘が進んでいく様子なのを見て、その研究者は、自分なりの研究理論というもので、論文作成に勤しんでいた。

 実際に、論文が書きあがるかどうかという時に、伊東研究所では、

「論文を裏付けるだけの証拠が出土した」

 ということであった。

 先にできた論文を、すぐに発表せずに、少し寝かせた。

 それは、発見したことの裏付けが取れるのを待ったからであり、その研究も、伊東研究所で行われたが、そこに、一時の違いというものもなく、

「最初からの想定内の発見」

 ということであった。

 実際に、発見できた内容から、出来上がった論文が、発表された時、伊東教授は、さすがにこの時ばかりは、ショックが大きかった。

「研究室を畳み、自分は教授をやめる」

 と言い出したのだった。

 さすがに、研究所の人たちは、

「教授。もう少し頑張りましょう」

 という人もいたが、その声もすぐになくなった。

 実際に、今まで教授が過去の失敗を、

「自分の過ち」

 ということとして考えず、

「自分の考えややり方は間違っていない」

 ということを証明しようとしてきたことを分かっているだけに、研究員も、

「教授を慕って頑張ってきた」

 ということであった。

 しかし、

「一度ならずに二度までも」

 ということになると、これ以上教授に、

「まだ、頑張れる」

 といって、

「説得するすべを、自分たちも持っていない」

 ということを分かっているわけではない。

 なぜかというと、

「俺たちは研究員だ。自分のやり方に誇りを持っている」

 つまり、

「その気持ちが一度崩れてしまえば、一度は何とか立ち直るだけの精神力は持てるかも知れないが、二度目はない」

 と思っている。

 それくらいの思いで研究を続けていないと、自分のやり方に対して、

「絶えず自信を持ち続けることはできない」

 というものだ。

 それができないのであれば、

「最初から、中途半端な気持ちで研究をしていた」

 ということで、

「自分を映す鏡」

 があったとすれば、

「そこに何が映っているのか、分かったものではない」

 ということになるだろう。

 特に、伊東博士は、小学生の頃から、

「自分に自信なんて持てない」

 と絶えず思っていた。

 小学生の頃から、絶えずいじめられっ子で、その理由に、

「自分に自信がないからだ」

 ということは分かっているつもりだった。

 当時の苛めというのは、まだ昭和の頃のものであり、平成になってからの、

「苛め」

 というものとはその種類が違っていた。

 昭和の頃の、

「苛めのようなもの」

 というのは、

「小学生が多かった」

 といってもいいだろう。

 しかし、平成になってからの、

「苛め」

 と呼ばれるものは、中学生以上が多く、

「どうして虐めるのか?」

 ということを、

「理由なんかない。イライラするから虐めるんだ」

 という理不尽な理由からだった。

 しかし、昭和の頃の小学生による、

「苛めのようなもの」

 での理由というのは、どうやら、虐めている連中には、その理由というものを言えないということであった。

 というのは、

「苛めの理由」

 というものが、自分でも分かっていないからではないだろうか?

 確かに、

「なんとなく虐めたいから虐めている」

 というのが理由だといえば、その理由になるのだろうが、それを人に決して言おうとはしない。

 虐めている自分たちにも、

「そんなことを理由になどできない」

 と思っているからだ。

 しかし、昭和の頃の小学生の苛めというのは、実は、

「虐められている方にこそ、その理由というものが分かっているのではないだろうか?」

 ということであった。

 というのは、

「いじめられっ子にも、虐められるだけの理由がある」

 ということだからだ。

 だから、

「虐められる方が先にその理由に気づく」

 ということが往々にしてあるというもので、だから、自分がいじめに遭っているということを、大人たちが気づいて、問いただされたとしても、その時、

「苛めになんかあっていない」

 というのだった。

 だから、子供が大人になっていくうちに、自然と、いじめられっ子の、その虐められる理由というのが、次第に消えていき、それまで虐めていた連中も、次第に虐めなくなってくる。

 中には。

「苛めてすまなかったな」

 といって謝ってくるいじめっ子たちもいて、

「中学に入学するという頃には、すっかり仲良くなっている」

 というのが、

「昭和時代の、苛めのようなもの」

 ということになるだろう。

 ただ、

「平成以降の苛め」

 というのは、

「中学生くらいからということで、ある程度、狡賢くなっている」

 といってもいい。

 だから、苛めがあっても、

「大人たちに気づかれないようにする」

 ということで、なかなか大人が分からないようにうまくやるようになってきた。

 しかも、学校側も、

「苛めなどということを、わが校から起こしてはいけない」

 ということで、

「苛めはないんだ」

 という目でしか生徒を見ないので、

「何かおかしい」

 と思ったとしても、それ以上追及をしようとしないだろう。

 その少し前。

「不良」

 と呼ばれる、いわゆる

「落ちこぼれ生徒」

 を、

「強引に先生のいうことを聴かせよう」

 としたり、

「いうことを聴かない生徒を、退学処分に簡単にしてしまったり」

 などということで、不良化した生徒が、

「卒業式」

 の後に、

「お礼参り」

 と称して、

「集団でリンチをする」

 などということが当たり前のように行われていた。

 だから、先生も、いじめの事実を知っていたとしても、

「見て見ぬふりをする」

 ということになるのだ。

 授業風景でもそうではないか。

 先生によっては、

「普通に授業をしていても、次週よりもうるさい」

 という授業が、人学年に一人くらい、そんな先生がいたではないか。

「君子危うきに近寄らず」

 というものだったのだ。

 昭和時代というと、

「熱血教師ドラマ」

 というのが流行ったものだった。

 不良をテーマにしたドラマもあったが、最後は、

「スポーツ根性もの」

 ということで、ハッピーエンドに結びつく話もあったが、それこそ、

「昭和だからこそ」

 という。

「古き良き時代だった」

 といってもいいだろう。

 しかし、これは、昭和の時代だからこそできたことで、これが平成以降になると、昭和時代の、

「苛めのようなもの」

 から、平成以降の、

「苛め」

 というものに変わってくる。

「何が違うのか?」

 というと、

「何となくではあるが、理由というものがハッキリとしている昭和時代」

 というものと、

「理由なんかどうでもよく、本来なら理由にもならないことを、いかにも理由であるかのように並び立てる平成以降」

 ということになる。

 つまり、

「後者が、苛め」

 というもので、昭和時代までの、

「虐められる側にもその理由がある」

 といわれたものは、厳密には、

「苛め」

 というものではなく、

「苛めのようなもの」

 ということになるのだろう。

 だから、昭和時代の、

「苛めのようなもの」

 の時には、

「苛め」

 という行為に対して名前がついていたわけではなく、

「いじめっ子」

 あるいは、

「いじめられっ子」

 といった、

「その行為に対しての人間の方に、名前がついていた」

 というところに特徴があったということであった。

 伊東教授は、そんな、

「昭和時代の苛めのようなもの」

 というものを、小学生の頃に味わったということで、

「クラスに一人はいた」

 といわれる、

「いじめられっ子だった」

 ということである。

 だから、伊東教授にも、自分がいじめられていたその理由を、自分なりに分かっていた。

 そのことにいつ気づいたのかは自分でも分からなかったが、たぶん、いじめっ子たちいが謝罪してくる前から分かっていた頃だったので、

「まだ小学生だった」

 といってもいいだろう。

「いじめっ子が謝罪してきたのは、自分の何が悪かったのか?」

 ということに気づいたからではなかろうか?

 と自分なりに分かっていたからだった。

 教授が、小学生の頃は、(いや、今もそうであるが)

「自分で納得できなければ、いくらまわりから何を言われても、信じることができない」

 というような、いわゆる、

「頑固な性格」

 だったのだ。

 だから、小学校に上がって最初に習った算数で、

「1+1=2」

 ということが理解できなかった。

 だから、落ちこぼれてしまったことで、まわりから、成績の悪さをバカにされ、卑屈になっていたのだが、どこかのタイミングで、その算数の理屈に気づくようになると、成績はうなぎ上りでよくなってきたのだ。

 それを、自分で自慢し始めた。

 そして、まわりの連中があたかも、

「お前たちはバカなんじゃないか?」

 というような言い方をしてしまったようで、最初はそれを分からなかったが、並行して自分がいじめられっ子になっていたというわけだ。

 虐めている方も、

「どうして虐めるのか、なぜ、苛つくのか?」

 ということが分からなかった。

 しかし分かってくると、苛めをすることが、虚しいと感じるようになったのだろう。苛めは少なくなり、その頃には伊東も虐められる理由がハッキリと分かるようになったのだった。

 そんな苛めというものを、小学生に頃に感じた、伊東教授だったが、その時の思い出があって、

「もし何かがあった時であっても、原因は自分にあるのではないだろうか?」

 と考えるようになったのだ。

 つまりは、

「二つの重複した理由がある」

 と後になって考えるようになった。

 一つは、

「苛めによるトラウマ」

 というもので、

「まわりからの攻撃に対して、逃げようとする」

 という感覚である。

 特にその感覚というのは、

「他の人が感じる感覚とは違うものである」

 ということだった。

 というのは、

「相手がいじめをしてくる時は、逆らってはいけない」

 という感覚である。

 そして、

「こっちが逆らわずに、その場を通り過ぎるようにすれば、被害も大きくはない」

 と考える。

「逆らうから痛い目に遭うわけで、静かにやり過ごすことができれば、あとは放っておけば、虐められなくなる」

 という感覚は、本能的に持っているに違いない。

 というのも、

「苛められている」

  と感じた時から持っているもので、だから、

「誰にも知られたくない」

 と思うのだ。

 特に、伊東教授が小学生の頃というと、虐められている子がいれば、それを苛めという感覚ではなく、

「苛めというものに対して、虐められる方にも何かある」

 ということは、伊東少年だけではなく、他の子供も分かっているのではないだろうか?

 いじめっ子だけは分かっていないのかも知れないが、

「黙ってみている」

 という、

「傍観者たちというのも、そう思っているのかも知れない」

 だから、今の

「苛め」

 というものに対しての傍観者とは少し違う。

「苛めを咎めれば、苛めの対象がこっちに、まわってくる」

 ということが分かっている今は、絶対に、咎めたりはしないだろう。

 何といっても、

「虐めている方には、それなりの大義名分などはないのだから」

 ということであり。

「大義名分というものがないからこそ、相手は誰でもいい」

 ということになり、ターゲットがこっちに回ってくるというのは、当たり前のことであろう。

 それを考えると、

「虐める方に大義がないから、余計に虐める方は増長する」

 ともいえるのではないだろうか?

 理由がないから、その理由を探そうとする。

 しかし、その理由が本当にないのだから、どうしようもない。

「自分に対してのいらだちも重なることで、いじめが増長してしまい、その中で、

「相手がいじめられる理由が何か?」

 ということを考えていたとすれば、自分が、その大義名分を考えることで、見つからないということを相手に悟られると、

「完全に立場は不利になる」

 ということになるのだ。

 つまりは、

「虐められている相手に、こちらの考えを悟られるということで、立場的にも、対等、あるいは、こちらが下だなどと思われてしまうと、それは、自分の死活問題になる」

 ということだ。

 虐めている方にはその理由がないのだ。

「理由が分からない」

 というのは、ないも同じことであり、それを考えていると、

「俺にとって、一度苛めを始めると、永遠に辞めることができなくなってしまったのだ」

 ということになるのだった。

 実は、いじめを行う方の子供は、

「永遠に辞められない」

 ということを、

「最初から分かっていたのではないか?」

 と思えるのだ。

 それを、

「呪縛」

 というのではないか?

 と考えるのだが、それが分かっていながら、苛めを始めるということを辞めることはできないのだ。

 それは、

「自分一人だけではない」

 ということで、苛めを始めるに際して、仲間がいるということで、

「自分に、呪縛というものを最初から負わせるのではないか?」

 と考えるのであった。

「誰を虐めるか?」

 ということは問題ではない。

 苛めを受ける方も、

「誰に虐められる」

 ということは、一番大きな問題ではない。

 むしろ、

「どうして苛めを受けなければいけないのか?」

 ということに理由がないという方が問題なのではないだろうか?

 それを考えると、どこか、

「虐められる自分に理由があるのではないか?」

 と、平成になってからの、

「苛め」

 というのも、虐められる側からしても、考えるのではないだろうか?

 平成に入ってすぐの、

「苛め」

 というものの初期の時代には、

「苛めというものは、どこかに必ず理由というものがある」

 というもので、

「その原因というものは、必ず、虐める側、虐められる側にあるに違いない」

 と考えられていることであろう。

 だが、どんどん、苛めというものが問題になってくると、

「虐める側にも、虐められる側にも原因はないのではないか?」

 ということも言えるのではないだろうか?


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