第12話 未来の旦那様
「……てか、だいぶ落ち着いたよな? もう大丈夫そうなら俺、帰るから」
このシチュエーションに対しての羞恥心がマックスに達してしまった俺は、神楽坂の背中に回した手を引っこめると、そそくさと帰り支度を始める。
「え……待ってよ。泊まっていかないの?」
「と、泊まるわけないだろ! 政臣さんたちもいないのに」
「でも……」
こいつ、またいかがわしいこと考えてやがる……!
「もう、帰りの電車がないんじゃない?」
「え」
神楽坂に言われ、は、と気がつく。部屋にある目覚まし時計の表示に目を凝らすと、0時を少し回ったところだった。――もうそんな時間なのか?!
あ、いや、でも、家を出たのが既に11時だったし、そこから電車に乗って、この家に到着したのが11時30分……となると、まあ、妥当な時間か。
「た、た、たたた、タクシーで帰るし」
「……失礼だけどあなた、タクシー代の持ち合わせはあるの?」
「う、ちょ、ちょっとくらいは……」
「この時間だと深夜料金になるから、いくらか割り増しになるわよ」
「………」
「三崎くん。……泊まっていったら?」
すっかり落ち着きを取り戻した神楽坂はにっこりと微笑む。くそう、表情だけを見れば天使の微笑だが、考えてることはたぶん、悪魔だ。それもどちらかというと、夢魔とか、そっちの類のヤツだ。
「……政臣さんには内緒にしてくれよ」
「ふふ、わかったわ。二人だけの秘密。ね?」
とてつもなく嬉しそうな神楽坂。俺の耳元に顔を寄せて、ウィスパーボイスで囁く。
……頼むから、いちいちエロい響き出してくるのやめてくれ。語尾にハートがついてるようにしか聞こえないんだよ!
「朝まで三崎くんと二人きり。ふふっ、何をしようかしら?」
「いや、寝てくれ、頼むから……。俺はリビングの床でもソファでも貸してくれればいいし」
「何言ってるの? 私のベッドで一緒に寝るに決まっているじゃない」
「決まってないから!!」
「充分二人で入れるくらいには、大きいベッドよ?」
「大きさの問題じゃねえ!!」
わざとらしく顔を背ける俺に対し、神楽坂は相変わらずクスクスと笑っている。あっという間にご機嫌になりやがって、クソ……!
「それに、別々の部屋で寝ていたら、また怖い夢を見るかもしれないわ」
「関係あんのかよ?!」
「あるわよ。あなたが隣にいてくれたら、きっと安心して眠れると思うから」
なんでこいつはこう、恥ずかしいセリフをサラリと……! それも少女漫画仕込みなのか?
あれよあれよと、俺はベッドの中に引きずり込まれ、気がつけば神楽坂の顔が至近距離にあった。シーツと服がこすれる音に、なぜだか無性に緊張してしまう。
いや、何もない、あるはずがない! あってたまるか!
「ねえ……これからどうするの?」
「だから寝るだけだよ! どうもしない!」
「ええ? つまらないわ、せめてキスくらい……」
「……っ、あのなあ!!」
からかうような声色でキスを迫ってくる神楽坂に、俺は思わず声を荒げてしまう。
「……もう、こういうこと、するなよ」
「え?」
神楽坂はきょとんと、大きな瞳を丸くしていた。
「だって、おかしいだろ。付き合ってもないのに、キスとか、一緒に寝るとか……」
「でも、三崎くんは未来の旦那様だもの」
「それも、お前が勝手に言ってるだけだし……!」
いつまで経ってもこいつのペースに呑まれたままの自分に、いい加減嫌気が差す。なんだかんだ絆されてしまっている自分も、強く抵抗できない自分も、神楽坂の行動に振り回されっぱなしの自分も。全部、なにもかも、気に入らない。
だって、こんなのまるで――。
「……嫌だった? 私と、こういうことするの」
「嫌、というか……神楽坂はさ、初めてキスした人と結婚するのが当然だって言ってたけど。その思い込みがあるから、俺にこういうことするんだろ?」
「……」
「それ、別に、俺じゃなくてもいいんだろ。たまたま、ファーストキスの相手が俺だったっていうだけで、もし他の奴だったとしたら、そいつを、未来の旦那様だって、そう言ってたわけだろ……」
何言ってんだ、俺。
ダサイ。めっちゃダサイ。ていうか女々しい。
なのに、なぜか止まらない。
「三崎くん……」
「っ、だからもう、俺に変なことするなよ。嫌なんだよ、翻弄されるの」
「あなた、……それってまるで、」
瞬間、なぜかすべてがスローモーションになったように感じた。
何かを紡いでいる神楽坂の唇の動きも、流れている空気も。ただ、部屋に充満するフローラルの香りに、眩暈がするようで――。
「……他の男じゃダメ、三崎くんだから好きになったと、そう言われたいみたいに聞こえるわ」
「な……! んなワケあるか!」
「でも」
「都合のいい解釈も大概にしろ!!」
俺はムキになって怒鳴ったが、神楽坂はやっぱり嬉しそうで。
「……そう、そうなの、ふふ」
満足げに笑う横顔が、非常に腹立たしかった。
「ごめんなさい。そうよね。気になっちゃうわよね」
「う、うるせー……」
「確かに私、初めてキスをした人と結婚するって決めてた。だから、三崎くんのこと、未来の旦那様として意識するようになった。それは事実よ」
「……っ」
「でも……こういう、あなたの優しくて、繊細な一面を知っていくと……困ったな、ほんとうに、ハマっちゃいそう……」
「う、うるさい、バカ……」
頭までガバッと掛け布団をかぶって、力なく喚く俺。いや、乙女か。
「でも、こういうきっかけで始まる恋も素敵だって思うの」
「そうかよ……」
ああもう、だんだんヤケになってきた。
「……とはいえ、私が性急すぎたことは認めるわ。ごめんなさい」
「ああ……」
「今度からは、ちょっとは……気を付けるわ。でも、あなたへのアピールはやめないから」
「もう、勝手にしろよ……」
「ええ、勝手にするわ」
布団から少しだけ顔を出して覗き見た神楽坂は――認めたくはないが、今までで一番、可愛く思えてしまった。
「覚悟しててね、未来の旦那様♡」
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