第11話 ホットミルクが冷めるまで

 電車に飛び乗って30分ほどで神楽坂の自宅に辿り着いた俺は、息を切らしながらインターホンに手をかける。


「……っ」


 もし政臣さんや奥さんがいる場合、こんな時間にインターホンを鳴らしたら迷惑になるだろうか。そう思って少し躊躇したが、そもそも家に誰かがいる場合、俺でなくてそちらに助けを求めるのが筋だろう。そう考えると、政臣さんたちは不在の可能性が高い。

 俺は意を決してインターホンを鳴らした。


 ピンポーン。


「……出ない」


 やっぱり家にはいないのか?

 辺りをキョロキョロと見回すも、このあたりは閑静な住宅街という感じで、しかもこの時間というのもあるから、人の姿はまったくない状態だ。


「……こうなったら」


 近くのコンビニや駅の周辺を片っ端から探すしかないか。

 そう思い神楽坂邸に背を向けると、中からガチャ、と鍵を開ける音が聞こえてきた。


「!」

「……み、さき……くん……」


 ゆっくりと扉が開き、中から出てきたのは……大きな瞳に涙を溜め、明らかに普段とは様子の違う、弱りきった神楽坂だった。


「おい……! 大丈夫か?」

「う、……うっ」

「大丈夫、もう大丈夫だから…! とりあえず、中に上がらせてもらうからな」


 そう言うと、神楽坂はかろうじてコクン、と首を縦に振る。自宅に居てくれたことにひとまず安堵した俺は、玄関の扉と鍵を閉め、そのまま明かりの漏れている神楽坂の自室に足を踏み入れた。


「……ご両親は?」

「今日は、二人とも仕事で……遠方に、行っていて……帰って来ないの」


 か細い声で、力なく神楽坂はそう呟く。


「何があったか知らないけど……とりあえず、キッチン借りていいか?」

「え……?」

「落ち着くように、ホットミルクでも入れようかと思ってさ」

「……あ、ありが、と……」


 水色のパジャマ姿の神楽坂は不安げだったが、サッと牛乳を温めて戻ってくると、いくらか顔色はマシになっているように思えた。


「ご、ごめんなさい、こんな夜遅くに……」

「いや、大丈夫だよ。これ飲んで。話はゆっくり聞くから」


 マグカップに注いだホットミルクを差し出すと、神楽坂はおずおずとそれを受け取り、カップを口元に近づける。


「熱いから、気をつけろよ。フーフーしろ」

「うん……」


 フーフーと何度か息を吹きかけてから、神楽坂はホットミルクをちびちびと飲み込む。すると、それまでまるで病人のようだった白い頬が、少しずつ血色を取り戻していくのがわかった。


「美味いか?」

「うん、落ち着く……」


 その言葉に俺もホッとして、神楽坂が座っているベッドに、同じように浅く腰を降ろす。


「それで……聞いていいか? どうして、あんなメッセージを送ってきたのか」

「……笑わない?」

「笑わないよ」

「……怖い夢を、見たの」


 それは、こんな静まり返った夜の空間でなければ、簡単に聞き洩らしてしまうような、小さな声だった。


「……夢?」

「……ごめんなさい。そんなことでって、思ったでしょ」

「いや……」


 まったくそう思わなかった、と言えば嘘になる。だが、今はどちらかといえば、安心の気持ちのほうが断然大きい。変な輩に襲われてるとか、そんなんじゃなくてよかったって。


「私、たまに眠りが浅い時があって……そういう時は決まって悪夢を見るの。今日は家に一人だし、早く寝ようと思ってベッドに入ったんだけど……やっぱり」

「……そうだったのか」


 あえて、どんな夢だったのかは聞かなかった。思い出したくもないだろうし、どんな内容であろうと、神楽坂がここまで弱気になるということは、彼女にとっては相当辛い夢だったのだろう。


「あの……三崎くん」

「ん?」

「お願いが……あるんだけど」


 隣に座る神楽坂の体は震えている。よほど怖かったのか、まるで捨てられた子犬のように切なげに顔を俯かせて。声も相変わらず弱々しい響きで、俺はそれを聞き逃さないよう、少し神楽坂のほうに身を寄せた。


「抱きしめて……くれない?」

「え、」

「あ、その、えっと、変な意味じゃなくて……」


 急な要求に硬直していると、神楽坂はしどろもどろになる。


「……ダメ?」

「ダメっていうか……えっと」

「安心するの、そうされると」

「……手を握る、とかは?」

「……ハグがいいの。嫌?」

「ええ……っと……!」


 悪夢を見て不安になる神楽坂を安心させてやりたい気持ちは山々だったが、夜、両親不在の家、そしてベッドの上……というシチュエーションを考えると、なかなか簡単に承諾しかねるものがあった。神楽坂のことをそういう目で見ている……わけではないと思うのだが、付き合ってもいない高校生の男女が密室で二人っきりで抱き合うとか、それはいかなる理由があっても、ちょっとヤバい気がする。


「……福本さんは、やってくれたのに」


 俺がうんうんと一人で唸っていると、神楽坂は残念そうに、唇を尖らせて言った。

 福本さんというのは、神楽坂家で最近まで働いていた家政婦さんのこと。

 ……福本さん、そんなことまでやってくれていたのか! 流石、スーパー家政婦の名は伊達じゃない。いや、俺が勝手にそうイメージして、勝手にそう呼んでいるだけなのだが。


「……わ、わかったよ! やればいいんだろ!」


 俺は観念し、そっと神楽坂の華奢な体を抱き寄せる。


「み、三崎くん……!」

「これでちったぁ安心すんのかよ」


 二人の体が密着すると、高鳴る胸の音が神楽坂に伝わってしまいそうで。でも、皮肉なことにそんなふうに意識すればするほど、心臓の音は早く、激しく、大きくなっていくのだった。


「……やっぱりダメ、かも」

「はあ?!」


 お前なあ、と、パッと神楽坂の顔を見る。

 さっきとは打って変わって、桃色に染まっている彼女の頬。


「すっごく……ドキドキ、しちゃう」


 ドクン、ドクン。


 果たしてこれは、どっちの鼓動なのか、もうわからない――。

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